■ コンクリート ■

早稲 実
 商品を取り出し、抜け殻になった型枠を洗う。
 洗浄しやすいように型枠を解体し、錆びないよう油を吹きかけ、こびり付いたコンクリを剥ぎ落とし、こそげとり、また組み直して、セメントを流し込む。
 流し込まれたセメントが商品としての硬度を持つまでに一昼夜かかる。その日仕込まれたセメントは型枠の中で寝かされ、翌日に商品として出荷される。
 その繰り返しが、バイトに与えられた仕事である。単純極まるルーチンワーク。
 浜崎正也の日常だった。
 いや、厳密に言うのならばもう少し仕事の内容は増える。四年も同じ工場でバイトをしていると、否応なしに仕事が押し付けられる。見かえりとして時給は上がったが、望まぬ昇給に諸手を上げるつもりにはなれない。迷惑をかけている叔父の頼みでなければすんなりと断り、帰りにバイト雑誌を買っているだろう。
 すでに工場の火は落とされ、浜崎がいる2号棟だけが、灯りをともしていた。
 鉄骨に打ち付けられたトタンの壁に沿って、所狭しと型枠が並んでいる。浜崎は型枠というベッドに収まるコンクリート予備軍の寝顔を確かめ、明日出荷する商品の確認作業を行っていた。
 跳ねたセメントが付着した、濃紺に安っぽい灰色の模様をつけたツナギを半分脱ぎ、浜崎は腕に乗せたボード上でボールペンを走らせていた。公園の車止めが足りない。不足数を書き込み、ボールペンをボードの上隅のペン留めに挟む。
 ため息を吐き出し、髪を掻き上げる。茶色に染めた肩にまでかかる長髪も、もう珍しいものでもない。ぱらぱら足元に落ちる髪に混じったセメントが、かろうじて余人が持ちえぬ特徴だろうか。浜崎はあくびを交えつつボードを小脇に抱え、うなじを掻きながら工場をあとにしようと歩み出した。
「ようやくお帰りですか? 浜崎さん。大変ですねぇ、バイト長も」
 天井が星月を遮り、辺りには闇が立ち込めている。年老いた蛍光灯だけが、抗うように辺りに色彩を与えている。その境界線上に男が一人、闇側に二人の男を従えて待ち構えていた。手に手に、警棒、鉄パイプ、金属バット。
 浜崎は男達を順繰り見回し、うなじを掻いていた手を降ろした。
「こんな時間になんのようだ? 溝口」
 溝口と呼ばれた警棒を持つ男が大げさに笑った。背後の二人に連鎖し、共鳴し、闇が揺れていた。しかしながら彼らのそれは、笑顔と呼ぶはいささか歪みすぎており、むしろお化け屋敷で強がっている子供のように見えなくもない。
「バイトの期間を終えた僕らが、わざわざ待っているんですよ?」
「わからんな」
「はははっ、わかりませんかぁ? 仕事の最後には付きものじゃないですか」
「仕事の……付きもの?」
 浜崎は自分の額を隠すように手の平を当て、首を捻る。強すぎる日差しを遮るのに近い仕草である。
「収め会ですよ、収め会。短期のバイトでしたけど、どうです? 無論、浜崎さんのお金で。ついでに、あなたよりも二百円も自給が低い僕達に、お小遣いなんかもいただきたいものですねぇ」
「仕事で、そこまでやれってのか?」
 言葉尻の険を感じとったのか、溝口は顕著に一歩、後退る。しかし、自らが握る凶器を一瞥し、勇気でも分けてもらったらしく、それ以上の後退はなかった。
「ええ。自分の知ってることだけが仕事の全てとは限らないでしょう?」
「まったく知らんことに金を出してやるつもりもないがね」
 乾いた破砕音。空しい響きながら、それは威圧的だった。
 溝口ではなく、その脇、後方に立つ男が鉄パイプで地面を叩いていた。
 型枠からこぼれたセメントがわずかずつ床で固まり、徐々に作られたコンクリート絨毯――もしくは人工的な石筍が砕けた音だった。大きくはなかったが、物が砕ける音というのはそれなりに衝撃的である。浜崎に怯えを与えるには物足りないが、場に緊張感を疾らせるには充分であった。周りの視線を引くのにも、充分。
「ぐだぐだ面倒臭ぇーよ。やっちまおうぜ、溝口」
 一歩踏み出してきた男が、溝口を急き立てる。
 そいつの名は、浜崎にはよくわからなかった。自分の部下であったとはいえ、仕事のできないバイトの名前をいちいち覚えてやる義理はない。どうせ夏休みの間だけの短期バイトだと高を括っていた。ただ、特性だけはわかっている。いま溝口を急かした男は、馬鹿だ、と。何をするにも溝口に断りを入れ、二言目には面倒臭ぇ、と愚痴をこぼす。
 それでも働く分、何かにつけて仕事をサボろうとする溝口よりは、浜崎の好感度は高いのだが。
 浜崎は視線を外した。ため息を吐く。
 壁際に近寄っていき、小脇に抱えたボードを並べられた型枠に置いた。身体を解す。垂らしていたツナギの腕をとり、腰に巻きつける。まるで空手の帯のように。しかし何かの構えをとるでもなく、右手で髪を掻き上げながらぞんざいに歩く。手は、そのまま頭髪の流れに沿ってうなじへと降り、今度はそこを掻いていた。
 溝口に正面から相対する所まで戻り、浜崎は左肩を晒すように半身の姿勢をとる。余った左掌を、貴婦人の腕をとる紳士さながらに差し出した。甲を地面にむけ、全指で誘う。
「こいよ。相手をしてやるから」
 暗闇の境界線を越えて、ガキたちが襲いかかってくる。
――三体一。っても、喧嘩慣れしてるわけでもなさそうだし、問題ないか? ただ、全部がエモノ持ちってのはイヤらしいな。受けても痛ぇだろぉーし――
 誘いに使った左腕は軽く肘を曲げてから握り、うなじを掻いていた右手は右頬を摘むように握る。どちらも当然、軽くだ。上体の力を抜いて、どちらかといえば怒り肩のそれを下ろし、脇を締める。速度重視のボクシングスタイル。けれども下半身はどっしりと踵をつけて、腰に重心を留め、どちらかというなら空手のように、迫りくる小僧どもを待ち受けた。
――足場は波打つコンクリの鍾乳洞だ。やつらが思っているほどスピードは出ちゃいない。どいつもが遅いんなら――
 もっとも近かった溝口が、あと一歩で警棒を振れる間合いに入る。彼は袈裟切り、よりも右投のピッチャーのように警棒を振りかぶり、最後の一歩を踏み込んでくる。
 そこで、浜崎も踏み出す。
 左足を軸に、右足を出す。
 溝口の顔は、驚愕であった。表情は、というべきだろうか。ボクシングジムに通っていたという前情報が、溝口に勝手なイメージを抱かせていたのだろう。前に突き出した左拳でジャブ、ジャブ。明日に向かって打つべし、と。
 浜崎は、笑んでしまう。
 打ち込んでくる警棒に右手を走らせ、溝口の腕を掴んで止めた。溝口の左手が拳を作って浜崎の腹に狙いを定めているのを見たが――一発くらい、殴らしてやるよ――見送って、肝臓のあたりを打たせるに任せる。拳の向きが違う。衝撃は内臓を傷つけるに至らない。痛み、吐き気は、衝動の粋を脱しない。
 動きを止めた警棒に、浜崎が左手を伸ばす。右手で溝口の右腕を制したまま、外側から警棒の先端を握る。そのまま溝口の腕の方向に引いてやれば、テコの原理で容易にもぎとれる。
 警棒の先端を握ったまま柄の部分で溝口のこめかみを殴りつけてやると、彼は大きく頭をのけぞらせ、中途半端に固まったセメントの水溜りに顔から突っ込んでいく。
 緊張と焦燥から彼は解放され、無表情になっていた。いや、汚いが、むしろほがらかな笑顔と言い換えても良い。
 足音は、止まっていた。
 浜崎は警棒を回転させながら宙に放り、右手できちんと柄から握る。
「さぁ、正義を教えてやろうか」
 足音は、浜崎一人のものしか響かない。