■ コンクリート ■

早稲 実
『さぁ、正義を教えてやろうか』
 僕らのヒーロー、教育超人ジャスティスは悪の組織フトーコーの残虐怪人と戦う前に必ず、とあるポーズをとりながらその台詞を口にする。これは儀式であり、残虐怪人を悪だと断定するために必要不可欠といえよう。というのも、残虐怪人達は一瞬前まではただの人であり、僕らのヒーロージャスティスといえど、彼らを変身前の姿で叩きのめすのは憚られるらしい。少なくとも、殴り倒しても回りの人に非難されないだけの理由が必要となるわけである。相手は確実に悪である。こういった前提が必要になるのだ。悪と正義(決して善である必要はない)を明確化するために、この台詞は重大な役割を持つ。
「聞き入れていたんだし、こいつらは悪だよな」
 かろうじて白色を搾り出す蛍光灯の下、転がる三つの肉体を眺めて浜崎は漏らした。それは情けなくも、自分の罪を軽減しようとする言い訳でしかない。言ってしまえば自慰行為であり、これが自嘲気味なつぶやきでなければ噴飯ものである。
 浜崎は笑い出す代わりにつまらなそうに、奪い取った警棒を横たわる主の元に適当に投げ返した。型枠に置いておいたボードを拾って外に出る。
 案外、暗くはなかった。
 辺りの色彩が紺に統一されている程度で、濃淡と輪郭が世界を形作っている。歩くには充分であった。月のおかげと浜崎が見上げると、紺色の世界で唯一黄色く、青白かった。
 美しくもあり、雄々しくもあり。
 半ば呆然と見上げていた浜崎であるが、とりあえず、近くの型枠に腰を預けた。2号棟内にある型枠の倍以上はある、L字型の型枠である。ビルやマンションなどの大型建築の足場に主に使われるが、今は、浜崎の巨大な椅子に成り下がった。直角な背もたれは、浜崎を辟易させる。
 それでも彼は尻ポケットからタバコをとり出し、火をつけた。月見酒のような風情であったが、内面的には懺悔に近い。神に告白するつもりなど毛頭ないが、あの月にならば、と浜崎は見詰める。それこそ自慰であることは自覚できた。
 溝口一派を殴り飛ばしたことに正義はあったのだろうか。やつらの行動は悪童そのものだが、そもそも絶対的な悪などいやしない。何らかの原因・理由(最近ではトラウマ)などがあり、仕方なく今現在は悪行をやっているに過ぎない。生まれつき悪い人なんかいない。そのくせ人々は皆、原罪を背負って生まれてきている……
 これら全てを信じているわけではないが、明確に否定的な言葉が出てくるわけでもない。なあなあにそんなものだろうと受け入れ、諦めながらも不満を吐き出している。そういった矛盾を常識という言葉で覆い隠し、自分の都合に合わせて正義を捏造する。
 今日の浜崎は、言ってしまえば自己防衛だ。常識も社会も、誰しもが是とする答えであるだろうが、そんなものからの免罪符には興味がない。浜崎はただ一心に、月を眺めてゴーサインが出ていたのかを見定めていた。
 曖昧なのだ。正義なのか、そうでないのか、は。
 万人を唸らせる絶対正義を指示してくれる司令長官など、この世にはいないのだ。浜崎は自分で判断しなければならないのだが、そうにせよ材料が必要だ。裁判官は被告、検事に耳を貸さずに採決を下しはしない。別に、裁判官が正義だとは言わないが。
 果たして、今日の俺は正義だったのか。
 月から目を離し、浜崎は俯き加減に自分の額に手の平を当てた。助けを求める子供はいなかったな、と小さく呟いた。
 なに、他人を助けるばかりが正義ではない。溝口一派が地球の覇権を握ろうと画策する悪の組織であればぶちのめすだけで正義は成立したようなものだ。ただし、溝口一派は地球を掌握するほどの知識も野望もない、一介の子悪党に過ぎないが。財力ですら浜崎に劣る。そんな小僧どもを問答無用で叩き伏せるのが正義だったのか、それとも口で滔々と諭すべきだったのか。
 叩き伏せるばかりが正義ではないと世間は言う。しかし、時と場合とも人は言う。
 ……そういった曖昧な正義に一本、芯を入れたかったのかもしれない。
 高校受験の前夜、浜崎の友達が他校の生徒に捕まったという報が入った。何を境に友達と呼ぶべきなのか、クラスメートすらも友達と呼ぶべきなのか。ともあれ、件の友達というのはクラスの中では一番良く話す、それ以上でも以下でもない奴だった。
 別段、関係はなかった。あの頃の浜崎ならば赤の他人だろうと助けに行ったことだろう。ジャスティスのように問答無用で殴り倒すのと、親や先生が言うように話し合いで解決するの、どちらが正しいか決定したくもあった。
 説得は結局、功を成さなかった。いや、成したといってもいいだろうが。
 友達は無傷で開放され、しっかりと志望校に受かっている。当初の目的は達したといっても良い。だが、説得しようとしていたところを強襲された浜崎は右手を折り、全身を打たれ、試験会場ではなく病院に回された。訪れたクラスの担任は馬鹿なことをしたと言い、両親からは嫌味を吐かれ、件の友達は見舞いにすらこなかった。
 左手一本でリンゴが剥けるようになってしまったころ、話し合いにも、殴り倒すことにも正義はないのだと浜崎は悟った。
 肉体完治は早かった。成長期でもあり、もとよりトレーニングした肉体であったことも関係していた。しかし一月ほどで復調した浜崎は、道に迷っていた。どこにも正義がないならば、いったいどこへ行けばいいのか。そんな時、ボクシングジムへ入門する。
 殴り倒すことがイコール正義でないにせよ、その先にジャスティスがいるような気がした。そうでないにせよ、正義の在り処がわかってから歩き出しては遅すぎると思っていた。拳か弁のどちらかを鍛えておくべきである。学問よりも格闘技の方が趣味に合っていた。
 ジムには練習生として入会した。両親達には勘当された。支えてくれたのはコンクリ工場の社長をしている叔父だった。中卒の浜崎をバイトとして雇い、部屋まで紹介してくれた。
 ボクシングとバイト。
 正義への道を見失ったばかりではあったが、浜崎には至福の時であった。工場にはしっかりとした道があり、先達たちがいて、確かに進んでいるという結果が、金額という形で茶封筒の中身に反映された。ボクシングも同じだ。強い奴がいて、真似て、覚えて、叩きのめせば誉められる。
 だが、確立変動していた台にも打ち止めはくるものだ。先に、ボクシング。
 もとより身体を鍛えていた浜崎は、一月足らずで練習生の最も強い男と肩を並べるようになった。彼は弱小ジムの期待の新人であった。そんな彼とスパーリングをした。浜崎は胸を借りるつもりで全力で殴りかかり、叩き伏せてしまう。自信を打ち砕かれた先輩のジムを出て行く力ない背中を見せられ、浜崎もボクシングジムを去った。
 工場では、若さと体力を買われていた。仕事も着実に覚え、正社員達にも引けをとらなくなった。叔父からは、正社員にならないかと何度も誘われた。先輩ボクサーを追い出してしまった浜崎は、首を横に振ることしかできなかった。
 自分にとって良いことを正義と断じれば、反する者は悪になる。
 それで良いと言い切る傲慢さが足りず、浜崎は常識という鎖に繋がれた。
 世間という型枠に流し込まれ、自分はもう固まる寸前なのだと思い知らされる。もう前に進むことはなく、定まった位置で、定まった形で、淡々と仕事をこなし、やがて砕けてゴミになる。
「そんなもの、なのかもしれんな」
 タバコを挟む指が熱い。目を向ければ、一口しか吸っていなかったはずなのに、白かった包み紙は灰の棒に変わり果てている。
 散らした灰には落ち葉の美しさがあったが、月は普遍に輝いていた。

 腹が鳴った。
 浜崎はL字型の型枠から飛び降り、作業を終えた2号棟を施錠する。と、躊躇ってから、やめておく。
 工場の全ての作業棟は両鍵式である。内外どちらからでもいったん施錠してしまえば、鍵がなければ出入りができない。もう辞めた奴らとはいえ、バイト達を監禁するのは可哀想だろう。かといって外に運び出すのは面倒だ。型枠運搬に使う大型のフォークリフトでも使えば大した労力ではないだろうが、フォークリフトのための出入り口にはすでにシャッターが下りている。
 どうせ盗まれる物などないのだからと、浜崎は使われることのなかった鍵束をポケットに納めた。明日の出荷に関する書類を挟んだボードを小脇に抱え、フォークリフトを尻目に事務小屋まで歩く。正義と悪は表裏一体だろうが、事務小屋までの道程にフォークリフトを使うのはたぶん悪だろうなとか、そんなことを考えながら。
 事務小屋が見えてきた。明かりはない。
 もう、工場の誰しもが帰宅している。浜崎の仕事は最後の見回りも含まれていた。叔父が彼の腕っ節を有効利用したというわけだ。自給に足されている二百円の何割かは、この見回りに対する危険手当でもある。帰りが最後になることに文句はない。
 見回りも終わり、出荷品のチェックも終わり、後はボードを事務小屋に置いて帰るだけである。仕事の終りを意識すると、どうしょうもなく腹が鳴った。鳴っていた。鳴りっぱなしだった。
 音は、そんな中で聞こえた。
 工場内に敷かれている砂利の悲鳴だった。ただし歩いているでもなく、その場で踏みしめているような、歩き出すのを躊躇っているかのような音であった。
 誰か、いる。
 浜崎は事務小屋に向けていた視線を、その裏にある1号棟に向けた。正確には、その間の隘路に。ごみ箱として立てられたドラム缶が数本林立している。
 浜崎の位置からでは相手の姿はわからない。ごみ分別が険しくなったおかげで本数が増え、視界を遮っている。隘路を探るには、正面に回らねばならない。声をかけるつもりにはなれなかった。忘れ物をとりにきた社員ならば、こんなところに来やしない。
 歩み寄っていくと、音が消えた。
 工場内を知り尽くした浜崎の忍び足だ。音の主より遥かに少音だったにも関らず、あちらも彼の接近に感付いたのであろう。
 あちらも、こちらも、まだ見ぬ相手を知っている。
 ドラム缶はすでに、手の触れる場所にある。
 隘路まではもう、距離はない。
 浜崎は唾を飲み込み、身を撓めた。疼き出す背骨の脊髄を叱る。おちつけ、おちつけ。どうしてか、昂揚感からだった。
 隘路に入るための最後の一歩を踏み出す。
 新たな気配が、ドラム缶の影から生まれた。
「な!」
 横手から組み付かれる。相手の体制は低い。勢いもある。ふんばるには、正面を警戒し過ぎていた――浜崎はその男に横倒しにされた。
 その男の上を、何かが疾った。
 口を開いた、歯をむき出した、涎を垂らす生き物。山頂で見る満月のごとく、まんまるな瞳孔を月明かりに反射させた獣。
 虎。
 瞬間的に、浜崎は虎を連想した。着地した虎と思わしきそれは、学生服を着た、小柄な少年であった。着地こそ四本足であったが、すっくと立ち上がり、こちらを見向きもせずに二足歩行で駆け抜けて行った。
 なんだ、あれは。そう思うことしか、浜崎にはできなかった。虎ではなかった。確かに人間である。回想するなら、あくまで歯であって牙ではなかった。どう考えても人間である。第一、虎がこんなところにいるはずもない。動物園から脱走したとて、好んでコンクリート工場にくる虎などいるものか。しかし、虎に思えてならない。そうでないにせよ、人間とはかけ離れた、虎くらい危険な獣である。そうとしか、思えなかった。
「キミ、大丈夫か」
 のし???艢?????かかっている男が、浜崎の頬を叩いた。そこでようやく、自分が呆然としていることに気付く。「ああ……それより、早くどけろ」とつっけんどんに返したのは、おそらくは照れ隠しなのだろうと、浜崎自身もなんとはなしに気付いてしまう。
「あ、ああ。悪かった。――それより、ケガはないんだな? それはよかった。では」
 そう言ったきり、男は、獣の少年が消えた方向に走って行く。灰色のスーツについた汚れには頓着せず、靡かせながら去っていった。
「……なんなんだよ」
 ゴチるように呟き、立ち上がり、浜崎は土ぼこりを払った。払って拭えるような汚れではなかった。ため息を吐いてからボードを拾い、事務小屋の郵便受けに入れておく。
 浜崎は大きく伸びをして、空欠伸を上げてから、外ではなく工場内に向き直る。
「さて、警備員の仕事でも致しますかな」
 観念したような口調は、口の端を上げる表情に裏切られていた。

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