■ コンクリート ■

早稲 実
 追いついたのは、結局2号棟前だった。
 彼らの走力から、浜崎はとっくに工場内を出たものだと思っていた。ともあれ、敷地内にいる限りは追い出さねばならない。フォークリフトの陰から、うなじを掻いて、浜崎は両者の出方を伺った。
 喧嘩というには、やや不自然である。
 追いかけていたはずのスーツの男は、自ら攻めずに防戦を続けている。少年は男に有効打を放つと背を向け、逃げ出そうとする。その背にスーツの男が飛びかかっていくが、やはり攻撃らしい攻撃はない。男の手の中の電気スタンガンは、いったいいつ使われるのだろうか。
 ぶつかる時だって妙だ。上背、体格、骨格。どの点においても男の有利は明白だというのに、吹き飛ばされるのは毎度男の方である。受けの所作を見る限りでは、明らかに素人な少年よりも、男の方が武道の腕前も断然上だというのに。
 状況分析を行いながら今後の身の振り方を考えていた。なにせ、男はあの距離で浜崎に位置を感知させなかった。イコール強者とはいわないが、恐らくは何らかの訓練を積んでいる者だろう。そんな奴らを二人一片に。正面からでは駄目であろうから。
 と、あれやこれやと浜崎が思い巡らしている内に、事態が動き出す。
 少年の振り回した拳が、男のコメカミに入った。フックともいえないような、ただの握り拳である。それでも、男の身体が大きく揺れた。横倒しになる。
 少年はトドメを刺そうというのか一歩踏み出すが、男が上体を起こしたために逡巡し、最終的に背を向ける。
 男は立ち上がれない。当たり前だ。あれだけ綺麗に倒されては足が馬鹿になっているはずである。男は自分の膝を叩き、表情に一瞬迷いを浮かべた末、懐から拳銃を取り出した。ふらつく身体を支えるためか、左手を支えにして、右手一本で狙いを定め始める。
 浜崎に、冷や汗が走る。
 状況が掴めないことに変わりはないが、あの禍々しいくらいに暗い色の凶器は、人体を易々と赤い肉塊へと変えるだろう。そのこと自体の恐怖と、叔父の工場で発砲殺人事件が起きた場合の損害とを考えると、夏の汗も、やけに冷たい。
 男の照準はなかなか定まらなかった。浜崎の心はなかなか平静にならなかった。
 しかしどちらも、やがて自心に決着をつけてしまう。少年の逃げ果せた距離から推察するに、それほどの時間を悩んでいたわけでもなさそうだ。ほんの、一秒か二秒といったところだろう。
 浜崎が叫びながら飛び出したのと、男の発砲は同時に行われた。
 いや、やや浜崎が先か。十分に狙いをつけていたにも関わらず、少年は肩から前のめりに倒れた。普通、狙うなら胴体だろう。逸れた結果であろうと判断し、浜崎は舌打ちして次射を狙う男の腕に飛びついた。
「おい、てめぇ!」
 男の頬を殴りつけた。倒れさせないように胸倉を掴み、額を擦りつける。男の顔には驚愕が走るが、それでもどこか落ち着いているのは年のせいだろうか。余分な肉の少ない精悍な顔つきにも、節々に皺がうかがえた。壮年に入る直前といったところか。
「痛いな」
「あっちのガキはもっと痛ぇーよ。いや、もう感じねぇかもしれんけど。いやいや、そんなことよりもてめぇ、うちの工場で何しくらさらしとんじゃボケぇ」
「そうか……だから追いかけてきたのか」
 何も感じていないという風に、男は涼しげに答えてくる。先程の驚愕など、微塵も残っていなかった。それどころか、目の前の浜崎を無視し、撃ち倒した少年をチラチラうかがい見ている。
「とりあえず、退きたまえ。危険だ」
 その顔を、叩いた。頬と掌の間にめいっぱい空気が入るようにして。景気の良い音が響く。浜崎が睨んだ先では、男が不適に微笑んでいた。
「危険なのはてめぇだよ。見逃してやるからこれを仕舞え」
 浜崎が両腕で掴んだ銃を示す。暴発も考慮し、当然銃口を空に向けて固定している。男は、まるで微笑を崩さなかった。
 それが、引き攣る。
 男が回転した。支えにしていた左手を軸に、左足で跳ね上がり、さながらサッカーの低空ボレーシュートのように浜崎の左脇を蹴りつける。
 油断もあった。それ以上に、爪先で見事に肝臓を狙われた。浜崎は横倒しに、膝から崩折れる。先程の微笑を完全に消し去った男の、銃の乱射をただ黙って見逃すことしかできない。
 しかし、乱射というほど続きはしなかった。一発目は外れ、二発目は髪を掠めるに過ぎない。
 何の?
 少年の、である。
 先程右肩を打ち抜かれた少年はすでに復活し、三発目の引き金を引くと同時に拳銃ごと男の右手を蹴り飛ばす。危険な黒鉄は宙を舞い、男の顔に苦渋が走る。それでもあきらめず、左手に持ち替えていた電気スタンガンを突き出す。少年はその腕ごと掴み、微笑んだ。
 焦点の合っていない、しかし方向だけ揃えた相貌で睨み付けながら、笑っていた。
 少年は電気スタンガンを奪い取り、掌に拳を打ちつける動作で破壊する。もったいぶるように、プラスチック片はゆるゆる落下した。
 そこから先は一方的だった。
 男の鼻っ面に右拳を叩きつける。踏み抜くように踵で、男の右掌を踏み抜く。左腕で男の髪を掴み、右膝を叩きつける。ガシ、ガシ、ガツ、と。
 むしろ美形に属していたであろう男の顔が、一打ちごとに醜くなっていき、鼻が潰れ、眼底が折れ、前歯をなくし、それらを血が彩った。
 拉げた物になっていく。
「やめろぉ」
 何とか搾り出した声も、あまりに情けない。なぜ自分は動けないのか。男に蹴られた肝臓のせいなのか。浜崎の疑問には、振り向いた少年の目が教えてくれた。
 汚れた茶髪に、半ば隠れて瞳孔が輝いている。少年の瞳は瞬きを忘れ、眼光は温度を忘れ、感情を捨てて浜崎を見下ろしている。視線には意思がない。とるに足らないものを睥睨するような、羽をもがれたトンボを馬鹿にするような、その程度の微弱な蔑みがうかがえるくらいか? それにせよ、浜崎が一方的に感じているに過ぎないかもしれない。ともかく、なにかの気紛れで踏みつけられれば、羽のないトンボは逃げようがない。ゴム底の形に圧断されてしまう。逃げ出したい。潰される。動けない……
 唾を飲むのが、精一杯。
「……にげ、ぉ……」
 男が口を動かしていた。こんな時に男は自分を心配しているのだろうか? そんな疑問を抱くと同時に、浜崎は我に返った。
 少年も男に向き直る。髪から首に持ち替えて、少年は左手一本で男の引っ張り上げて行く。少年の細腕が、体格の良い中年の身体を持ち上げていく。
 体当たりをお見舞いした。膂力が尋常でなかろうと、体重は常識的らしい。少年を吹っ飛ばす。ダメージがどれほどかは分からない。恐らくはほとんど無傷だろう。焦るように、駆られるように、行動する。
 少年の手からこぼれた男の背後から両脇に、両腕を刺しこむ。上体を持ち上げ、スコップで掘った土を遠くへ飛ばす要領で後方へ飛ばす。
 急ぎ踵を返し、フォークリフトまで走り出す。ポケットから鍵束を取り出し、選びながら駆ける。フォークリフトに飛び乗り、鍵を回す。かからない。まわす、かからない。連想するのはクイズ番組。間違えるたびに背後の風船が膨らむやつだ。今は目の前に風船がある。縮みも膨らみもしない、風船ほど柔らかくも優しくもないだろうくそガキが。浜崎が焦燥のままに鍵を回し、恐怖に煽られ顔を上げる。
 少年は起き上がっていた。丸まっていた細い背が伸びていき、持ち上がるように首が上がり、頭が昇る。振り向いた少年は、まるで痛みを楽しむかのように、嘲笑の形に唇を歪めていた。
 かかった!
 浜崎は感謝する。フォークリフトがオートマ式であることに。クラッチはない。一度かかったエンジンが簡単にエンストすることはないはずだ。ないはず。ない!
 フォークリフトの爪を上げて、少年のちょうど胴を挟む位置で止める。一気にアクセルを踏み込む。砂利が滑る。空回りしている。わずかにアクセルを浮かせる、後輪が地面を噛む、進む、発進、勢いがあり過ぎるための蛇行発進。やがて直進し、少年。
 直撃。
 後はそのまま、2号棟の扉に激突させた。

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