■ disorder2 北の遺跡 ■

早稲 実

   プロローグ

 青天の雷鳴が、戦に小康を作ってからしばらくの事である。
「大将同士の決闘だと?」
 そう教えてくれたムア家の小倅を突き飛ばすようにして、左翼の指揮を執っていたリジェは立ち上がる。小倅といっても同い年の十六なのだが、自動弓を持って五年かそこいらの彼では、リジェにとってはその程度の認識でしかない。尻餅を付いた彼を捨て置き、自分は本隊の方へと駆け出した。
 交渉のおかげで充分に身体を休めることができた。息が上がる頃には到着できるだろうと踏んでいる。しかしながら、愛馬を預けてしまったのが悔しくはあった。アレの足ならば瞬く間だろうに。
 とはいえ、馬を戦闘に駆り出すわけにもいかない。馬上から弓を放っても当たるわけもない。だが事実、狙いをつけずに馬上から矢を放つ者が幾人もいる。それは詰まる所、敵陣の頭を押さえ付ける牽制という意味では矢の本来の意味を果たしているのだろう。その機に接近とできる利点を考えれば、あながち愚作ともいえない。
 とはいえ、必中を志す自分がそんな怠慢を犯すつもりにはなれなかった。
 凹凸のない見慣れた土地も、今は人であったものの残骸が散らばり、邪魔でならない。下を見ながら走っていると、不意に隣についてくる陰に気付いた。カレだ。
 銀紺の体毛はすでに血塗られているが、走りぶりを見ている限りでは、全て返り血なのだろう。リジェが、走りながらもふと思いを馳せるのは、カレを自分に押し付けた彼のことだった。微笑みながら、彼は引き取ってくれと言っていた。
 二年も昔の出来事である。お爺ちゃんは、彼はもう一度戻ってくると言っていた。だから、あれからというもの料理の当番を引き受けているというのに。
 カレが媚びるような調子で鳴いた。こちらの気配を敏感に感じ取ったらしい。まったく。二年経っても甘え癖はまるで抜けていない。
「大丈夫。怒ってなどいない」
 口先ではそう答えておいた。そんなはずもないのだが。
 彼が帰っていった共和国から、替わるように送られてきた軍隊。五機もの闘器。戦の巨人。それが、知り合いを次々と殺していった。お爺ちゃんが奮闘することでどうにか二機を行動不能にし、戦況は有利に傾きはしたが、亡くなった命は帰らない。勝てたとして、何も残らない。無意味に鎮座する小山が一つ、手付かずに残されるだけだった。
 そんな物に、何故にこだわるのか。
 最近とみに考えるようになった。疑問ではある。移動するたびにテントを設営するのは確かに楽ではないが、意固地になって、国を相手取って闘うほどのものなのだろうか。
 お爺ちゃんはただ『山には誰も近づかせんように』と語るだけ。
 不満ではある。
 でも、大事な人だった。リジェにはもちろん、この辺りに住む者にとっては。
 だから、リジェは本隊へと全力で走る。
 総大将である、お爺ちゃんの元へ。

 その男は変な格好をしていた。
 いや、格好の不可解さを言うのならば、その男の隣に立つお爺ちゃんも白熊の毛皮を纏っているので、充分に変なのだが。
 ともあれ、その男だ。決闘の見物人がひしめく人垣からまだ抜け出せないリジェにも、その男の風体の異様さが理解できる。共和国の兵隊らも、確かに文化の違いから奇妙な服を着ているように見えたが、彼らはまだ、戦をするための格好をしていた。しかしその男は、動きにくそうな外套に身を包んでいる。闘うつもりが本当にあるというのか?
 装飾が過ぎている。陽光を照り返す華美な刺繍が施されていたり、そもそも鮮血ばかりを吸ったような鮮やかな赤だったり。自ら矢の的になっているようなものだ。そもそも、武器らしい物を持っていない。
 ただ、なによりリジェの目を引いたのは、その男の叩きやすそうな後頭部である。
 リジェは、人垣をなぎ倒すようにして邁進した。何人かが不満に声を荒げるが、こちらを認識したのか、その声も大概尻すぼみ。カレを伴って、人垣の最前列まで辿り着く。
 その男はちょうど、お爺ちゃんとの話を終えたようだった。距離をとるためにお爺ちゃんに背を向ける途中、彼の眠たい目と視線が合った。彼は何事もなかったようにそのまま歩を進めたが、糸目に近いほどの瞳が確かに一瞬、見開かれた。
 カレが吠えた。
 咆えながら、駆け寄っていった。辺りの人垣からどよめきが起こるが、カレは気にも留めずにその男に飛びつき、押し倒す。噛み付くわけでもなく、顔を舐め回していた。
 決定的である。二年前にこの土地に訪れた彼なのだ。しかし、お爺ちゃんが弓を手に取るということは彼が敵の大将ということであり、お爺ちゃんを含め、私たちを脅かす敵だということなのであり……どういうことなのだろう。
「どういうことなの……」
 こちらの呟きも、人垣の喧騒に掻き消されて届くはずもない。敵方の大将であるその男に至っては、じゃれるカレを押しのけるのに精一杯といった様子である。
 リジェは踏み出した。男に近づきながら、叫び上げる。
「レノンセンス!」
 ようやっとカレを押しのけたレンスが、こちらに顔を向ける。見られたくない所を見られたという風に、どこか冷めたため息を吐いてくる。癪に触る仕草。
「あ〜、来ちゃったんだ」
「さっきも気付いていただろうが。それより、説明なさい!」
「説明も何も、決闘するだけだよ。無駄な命の殺生はやだし、負けそうだし。キミのお爺ちゃんを倒せば、あの遺跡は譲ってくれるそうだしさ」
 軽薄な調子、浮薄な仕草――この男はいつもそうだ。そうやって人を苛立たせておいて、その目で、じっとこちらを見ているんだ。……状況さえ許してくれればそれは、心地よいのだ。あの、二人で月を眺めた晩のような和やかな時ならば。ただ自分だけを見ていてくれる眼差しというものは。しかし。
「思い上がるな! おまえ如きがお爺ちゃんに敵うはずもないだろうが!」
 そう言ってやったが、彼は瞳の色をわずかに揺らす他、微塵も動じようとはしない。
「そう、見下さないでくれよ。僕だってまんざら、捨てたもんじゃないよ」
 何を言うのか! 一人では生きることもできない軟弱者なくせに。何十、何百という的を外すことなく射抜いてきたお爺ちゃんに勝てるとでもいうつもりか?
 怒りも、激情の位置にまで達すると何も言えなくなる。ただ拳を固めて、ツカツカにじり寄り、レンスの頬を殴りつけてやった。彼は簡単に倒れ、頬を摩る。
「そんなに思い上がっているなら、決闘でもなんでも勝手にしろ。そしてさっさと殺されてしまえ。いくぞ、カレ」
 カレは尻餅を付いたままのレンスに付き従っていたが、彼が「行ってくれ」と言うと、ようやくこちらの足元に寄ってきた。リジェは背を向け、もう振り返らず、歩いた。
 そして、弓矢を握るお爺ちゃんの元へ。
「殺さないであげて……」
 お爺ちゃんの話が本当なら、すでに天寿を全うしていておかしくないはずだが、毛皮をまとった老人はいつものように頑健な面をしていた。笑みも、少し頬を引き上げているだけだというのに豪快に映る。
「そのつもりだ……ただ、私に万が一が起こるようなら、おまえは彼の元へ行くんだな」
「どうなれば万が一が起こるというの」
 いつになく、というより初めて聞くお爺ちゃんの弱気な言葉に、冷淡に返してみた。檄のつもりでもあるが、それが真実でもあるから。
 お爺ちゃんは破顔して笑った。そんなお爺ちゃんは終ぞ見たことがないが、大げさに驚くほどのゆとりは、リジェの心にはなかった。そのままお爺ちゃんの横を通り抜け、人垣の輪に加わる。
 決闘に、始まりの合図はなかった。
 お爺ちゃんがいつものように弓に矢を軽く番えて、空へと両手を上げる。両手を胸元に下ろしながら弦を引く。視線と矢の進行方向を一致させ、レンスに向けた。
 レンスは胸元から、親指くらいの太さの、細い棒を取り出す。筒穴のキャップを外してお爺ちゃんに向ける。筒の尻から生えた棒の止め具を外して、押し込んだ。
 全ての準備が整うと、辺りの空気が震えるように風が吹き抜ける。
 合図はなかったが、これから始まるということは、おそらくは誰しもが悟ったことだろう。気迫、とでもいうのか、殺意、とでもいうのか。冬の夜明けのように恐ろしく静謐だというのに、空間が怯えるように鳴動している。
 無音に苛まれ、耳が、痛い。
 鋭い風切り音が耳穴に滑り込み、雷鳴の叫びが耳朶を叩く。
 同時。
 倒れたのは、あろうことか、お爺ちゃんだった。

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