■ disorder3 共和国の貿易商 ■
早稲 実
 
 

   プロローグ

 昼下がり。レンスは水を片手に、弟が出かける前に置いていった書類に目を通していた。ケワァーから下ってきた物らしいから、並べられているのは事実なのだろう。
「どこに使いを出せばいいかといわれても……」
 書類の内容は、同盟国の軍事状況であった。切り札ともいえる闘器の保有数まで記されている。手直しもされていないのか、ページをめくるごとに文体が変わっている。
 抜粋された機密文章の束。
それが、今、手にしている書類であるようだった。
軍事状況の他にも、添えるようにして余剰生産力や人口なども記されている。ケワァーは共和国の中枢、レイマス中枢都市と準州だけの兵員だけでは満足せず、同盟国からも捻り出そうというわけか。
 確かに、それならば勝てるだろう。初戦こそ惨敗であったが、あの敗戦からすでに一ヶ月が経っている。レイマスの戦時態勢も整い、準州からの増援も含めて共和国の兵員数は以前を越えるほどである。傘下の同盟国まで動かすとなれば、勝利はまず揺るがない。
 もとより、南半球からの大移動をなしてきた帝国である。しかも軍隊の遠征ではなく、帝国を成す五民族の全てで。非戦闘員がほとんどといってもいい。それだけの大所帯でありながら近隣国に援助も求めぬまますでに一ヶ月、移動を始めた頃から考えれば二ヶ月以上も。物質的にも精神的にも、もう限界だろう。常識的に考えれば、戦をするまでもない。
 それでも、帝国の闘器。あれは強力であるとのこと。初戦の報告からすると、三機の闘器で取り囲んでようやく対等に渡り合えるそうだ。帝国がその気になっていれば、初戦の勢いのままレイマス中枢都市まで攻め入れたことは元老院も承知している。だから、共和国圏の境から大きく後退したところに前線を敷き、現在になってもまだ兵員を集めることに躍起になっている。
 レンスは書類を机に投げ捨てて、水を口に含んだ。窓は開いているのだが、風が流れない。風が流れないというだけでシャツが湿って、肌に張り付いている。汲み上げたばかりで冷たかった水も、すでに温くなっていた。
 大きく欠伸をしてから、レンスはテーブルの上で散らばる書類を見下ろした。
「その流れの一環、か?」
 元老院の動きは、主に準州などで畑仕事に精を出す若者を集めることに終始している。徴兵された彼らは訓練もされずに半端な装備を与えられ、最前線へ駆り立てられることだろう。そんな肉の盾を集めることよりも、同盟国で訓練されている軍隊を借りてくるほうがどれだけ役に立つか、誰しも理解している。
 ただし、同盟国がその派兵要求に頷くかどうか。 レイマスが落ちて困るのは彼らも同じだろうが、自国が落ちるのはもっと困ることであろう。レイマスの喉元に刃物が突きつけられるということは、自国に刃物が突きつけられているのも同じ。その刃を振り払うための腕を貸し与えられるかどうか。そして、仮に軍隊を借りられたとして、その軍隊がレイマスや前線に辿りつくまで帝国が動かないでいてくれるかどうか。
 書類に綴られた文字の奥で、弟とケワァーが微かに微笑んでいるのが見えた。同じ笑い方をしている。口の端を上げた、まぶたを細めた、陰湿な笑い方だった。
 帝国は動かない。
 今回の同盟国への派兵申請は、明らかにそれを踏まえた上での計画である。レンスにも語られていない秘密を、二人が握っているに違いない。
 レンスは椅子から立ち上がった。残りの水を飲み干して、廊下に出る。少しでもいい。風に当たりたかった。

 建物の二階にあたる自室から廊下へ出ると、中庭の様子が騒がしかった。
 怒声。罵声。入り混じった喧騒。
 騒ぎの源が入り口の方であると気付いてレンスが目を向けたときに、ちょうどそちらから一人、中庭に向かって飛び出してきた。一度弾んで仰向けに倒れたその男が門番であることに気が付くと、レンスは興味とは別の感情から入り口へと視線を走らせる。
 討ち入り。闇討ち。どちらにせよ、昼日中には不釣合いの単語であるが、事態はすでに動き出している。弟が屋敷を出ているのが幸いだった。どさくさ紛れの暗殺だけは防ぐことができるが、それでも安心してはいられない。
 レンスが注視する入り口からは、熊のような、素肌に直接鎖帷子を着込んだ男が姿を現した。浅黒い肌だが、日焼けによるものだろう。体毛が濃い。その毛が鎖帷子に挟まりはしないのだろうか。
 レンスが危機意識を失って余計なことを考えていると、入り口からもう二人、長身の者と子供のような背丈の者が連れ立って現れた。こちらは旅装をし、外套と頭巾を深くかぶっている。それも土に汚れ、擦り切れ、ほつれているらしい。ずいぶんとくたびれている。思えば、先頭の熊のような固太りの鎖帷子も、引き裂かれたような跡がある。一度千切れた物を繋ぎ合わせているのかもしれない。
 どちらにせよ、くたびれてはいるが、貧相というよりも威圧感を醸す三人であった。 異変に気付いたのだろう。一階にある屯所から、次々に警備の者たちが飛び出してきた。十ほどの警備の者たちがその勢いのまま、進入した賊へ打ちかかろうとした。だが、足を止めて、棍を降ろす。理由は良くわからない。怯えているというわけではないだろうが、戸惑ってはいるらしい。
 そんな中、かまいもせずに鎖帷子の男が前へと進み出た。
「出て来い、ドィクタトル! 調査の報告をしにきたぞ」
  二階にいるにも関わらず、レンスは思わず耳を塞いだ。獣の雄叫びに似ている。こちらに恐れなどなくとも、体中に痺れを走らすほどの存在感を放っていた。中庭の警備隊たちの中にも耳を塞ぎ、思わず棍を取り落とした者もいるようだ。
 警備隊の一人が近づいて、鎖帷子の男に何かしら声をかけたらしい。
「嘘をつくな。いるのはわかっておるわ。出て来い!」
  外出中、とでも言ったのだろう。信じるつもりなどないらしい。鎖帷子の男は近づいた警備隊の一人を殴り飛ばし、そのまま胴間声で怒鳴り散らしながら、取り押さえにかかった警備隊たちと混戦になった。
 その騒乱を離れたところで見ていた長身の男が、二階の廊下から眺めているレンスに気が付いたようだ。目を合わせて近づいてくる。レンスの足元までやってきた。外套と繋がっている頭巾をめくると、眠ったような眼を持つ、知人である。警備隊たちも初め、彼を見て取り押さえることに躊躇したのだろう。
「よう、レンス。高みの見物かい?」
「呼び捨てはやめるんだな。テニス・クォラー」
 口元は笑ったが、閉じていたまぶたを開いた彼の眼差しは鋭い。少々やつれてもいるようだ。元々細身であった彼だが、枯れた印象が加わって凄みに繋がっていた。
「旦那が言うように、報告にきただけだよ。ああ、今暴れてるあの人のことだ。ドィクタトル様の勅命なんだ。さっさと警備隊たちを引かせて取り次いでくれよ」
「弟は私に留守を任せ、本当に外出中だ。暴れている方にもその旨を取り次ぎ、明日改めて報告に来るんだな」
「だとよ。どーする? ヒニアル」
 取り残されていた小柄な者が頷き、頭巾をとる。子供のような体格だとは思ったが、成人してもいないであろう少年だった。精悍な顔つきの中にも幼さが見える。
「外出中なのはわかりました。けど、こちらも火急の用件なんです。明日の朝、日の出に合わせてドィクタトルさんをお訪ねする無礼、ご容赦願えるようにお伝えください」
 声変わりも果たしていない声を張り上げているが、喧しいとは感じられなかった。彼がそれだけ必死だからであろうか。思ったが、気持ちだけではどうにもなるまい。弟はそんな時間に起きはすまいし、まして報告を聞くとも思えない。
「不可能だな」
「それでもあのガキは来ちまうんだよ。せめて客人扱いするよう、門番に言っておけよ」
 レンスの台詞は自分に言い聞かせるような呟きであったが、唇を読んだのか、足元まで近づいていたテニスが口にした。
「おまえが言い聞かせればいいだろうが」
「無理だな。ヒニアル野郎はドィクタトル様すら信じてるからな」
「馬鹿な……」
 子供に好かれるような弟ではない。弟に好意を持つのは金や権力に魅入られた者たちだけだろう。もしくは、保身にばかり気を使う臆病な市民などだ。そう断言できるのも、兄としては辛いものがあるが。
「では、明日」  
 もう一度だけ、ヒニアルと呼ばれていた少年が声を張り上げた。そして、背を向けて帰っていく。そのあとを、小走りでテニスが追っていた。
 いったい、なんの報告であったのか。
 そして、弟が飼っているテニスと、あの少年の繋がりが見えなかった。
 また、面倒な仕事が増えるかもしれない。
 そうレンスがため息を吐いたとき、鎖帷子を身につけた熊が、倒れている警備隊たちの中で勝鬨をあげていた。