■ Fenrir-フェンリル- ■

鹿神 藍

――T.
 気だるい意識の上で、砂嵐の中にいるような風の音が聞こえていた。
「――……から……へ」
 男はいつものように煙草を取り出そうとし、その音が胸ポケットから耳元にのびた相互無線装置のノイズだと気づく。
「――ウィザードからウォーリアへ、眠り姫はポイントCからDへ移動」
 耳障りな雑音混じりの声に起こされるように、ウォーリアと呼ばれた男は意識下から現実へと引き戻された。
 心身ともに疲れているかもしれない、と男は思った。
 作戦行動中に意識が分からなくなっていたなどと知れたら、きっとどやされるではすまないだろう。だが、それを回避する為には、今回の作戦が失敗に終わらないことを願うだけ。
 ここ何日か連日のように狩り出され、ゆっくりと寝る時間さえない。もちろん朝からろくに休んでいる暇もなく、昨日から続いている頭痛も止んではいなかった。そんな状態で仕事を続けているのだから、想像以上に疲れが溜まっていてもおかしくはないのだ。
 男はそんな自分を鼻で笑い飛ばした。
 風は意外にも冷たく、羽織っただけのコートの前から中へと入り込んでは、男に身震いをさせた。下にはジャケットに厚めのズボンを着用してはいるが、体温を奪い去るような寒さには足りなかった。
「――繰り返す、眠り姫はポイントCからDへと移動。各員、拘束準備に入れ」
 渋々といった感じで男が寄りかかっていた壁の影から出ると、ブーツの靴底が石を噛んで硬い音を鳴らす。
「――間もなくウォーリアの頭上を通過。3、2……」
 無線から聞こえてくる声に男は空を見上げる。
 日はとうに沈んではいたが、夜の闇が世界を多い尽くすまでには至ってはいなかった。そこには薄紫色をした残照が尾を引き、酷く褪せた色をした半月が浮かんでいた。
 いわゆる逢魔ヶ刻独特の視界を霞ませる僅かな光だけが、男の目の前に乱立するコンクリートでできたビル群を青く染めていたのだ。
 一度中に入ってしまえば、いくら空を見上げたところで、ビルの迷宮から外を覗くことはできないだろう。ましてや、銀行などのビルが密集した路地裏ならばなおさらだ。
 男はコートの下のガンホルダーに手を伸ばし、そこに使い馴染んだ銃が存在することを無意識のうちに確かめていた。
 無線から聞こえていた声が、静かにカウントを終える。
 その時、男の頭上を何かが過ぎった。
 巨大な影だ。ビルの屋上から屋上へと移動していく尋常ならざる影。
 作戦開始前のブリーフィングで聞いた、例の報告にあったものだろう。全体的にもっさりとした形態を晒してはいるが、男が見る限りでは間違いようがなかった。
「こちらウォーリア、眠り姫――キマイラを捕捉。状況を開始する」
 淡々とした口調で無線に応答しながら、男は頭上の影を追って路地裏を並走し始める。
 それから何が彷徨っているのかを見極めようと目を凝らした。しかし、相手が移動しているのは、背が低いと言ってもビルの屋上だ。その姿を肉眼で確認できる範囲ではあっても、少し距離が遠すぎた。
 辛うじて人間の形を保ってはいるが、その姿は人間と似て非なるものである。ビルの屋上から屋上へと飛び移っていく姿は、男に大型の肉食獣を思わせた。
「あの動き、一度目じゃない――」
 舌打ちをした男は、誰に聞かれることもない言葉を、自分に言い聞かせるように呟く。
 目標の動きから想像するに、能力的には筋力強化系だと男は推察していた。躍動感に溢れるような全身と四肢を使い、幅跳びの要領でビルからビルへとリズムよく飛び移っていく姿は、まさしくネコやタヌキが器用に塀や屋根の上を走っていくさまに似ていた。
「ウォーリアからウィザードへ。銃撃許可を求む」
 無線からの答えを待たず、男はガンホルダーから銃を抜いた。間髪をいれず頭上を走る獣に向かって銃口を突き出す。
 男が所属する対キマイラ部隊に支給されている銃器は本物ではない。しかし、ガス圧式に変更された特別仕様のグロック17から発射される9mmパラベラム弾――プラスチックの薬莢に押し込まれた鎮圧用ゴム弾の威力は、常人の体に命中すれば軽く骨ぐらい折ることはできる代物だった。
 だが、何発あたったところで、死ぬまでには至らないことを想定して作られている。保護薬莢やゴムはバイオ素材で自然にも人体にも優しく作られ、土に埋めてしまえば土に溶けてしまうし、例え体内で砕け散っても、体液に溶けて約一週間ほどで体外に排出されるように作られていた。
 それが彼らに支給されている対キマイラ用スタンガンである。
「――了解。ウォーリア、発砲を許可する」
 もう何人の獲物がこれの餌食になったことだろうと、と男は思う。
 銃撃の許可を告げるウィザードの声に目を細め、男は狙いをつけた。動きを止めない獲物の動きを予測し、獣の姿を見失わないようにしながら引き金を引く。
 獣がビルからビルへと飛び移る瞬間。
 虚空にドシュと高圧縮ガスの解放される音が数回漏れた。
「――ウィザードよりウォーリアへ。なお眠り姫は、いつも通り殺さずに捕らえろ。これは命令だ。繰り返す……」
 銃弾は獣の背中へと消え、短い呻き声を上げさせる。男の耳にははっきりとそれが聞こえ、彼の視界の中では獣が大きく仰け反っていた。
 獣の動きが止まる――骨まで響くような衝撃に動けなくなったのだろう。獣は何とかビルのヘリには辿り着いたものの、手を伸ばして必死にしがみついている状態だった。
 男はそれを見逃さなかった。さらに続けて数発――獣の右足に二発、振り向いた眉間には一発が命中していた。獣から逸れた無駄弾はコンクリートの壁に砕け散った。
 夜空に浮かぶ、黄金色の満月を思わせる獣のつり上がった双眸が、男を威嚇するように睨んだ。正面から男が見たその体は、古い猿人類の標本を連想させる。
 だが、獣の抵抗はそこまでだった。獣の爪が悲鳴を上げて虚しくコンクリートの壁を引っかくものの、その自重を支えるには足りなかったのだ。
 宙を滑るように落ちていく獣の姿を見ながら、男はあらかじめ頭の中に記憶していた路地を走る。
「こちらウォーリア、キマイラが建物の死角に入った。眠り姫の現在地を教えてくれ」
 目測はたつが、男はそれだけを信じるわけにはいかなかった。それが絶対ではないし、相手も意思のある生きものである以上、予測のつかない事態が起きることも考慮しなければならないのだ。
「――α区画……エリア……完了。現在……はポイントF……なお、この……から眠り姫を逃すな。これは……だ」
 区画全体を監視しているウィザードからの無線が、突如として悲鳴のような歪みにまみれた。
 男ははっとし、無線の届かない場所に入ってしまったことに気がつく。いまから場所を変えることはすでに遅く、獣を撃ち落とす場所すら考慮すればよかったと悔やまれた。
「聞こえるかウィザード? おい、ウィザード!」
 男からの無線もウィザードには届かないだろう。ここは都会の隙間にいくつもできた、いわゆる電波の穴というやつだ。恐らくウィザードにも監視はできてはいない。
 つまりウィザードからの援護は期待できないということだ。
 男は自分自身に言い聞かせる。
「――……リア聞こえ……こちらからでは……Fは……できない」
 辛うじて聞き取れた、ポイントFへと通じるビルの壁に背をはりつけ、男は乱れた呼吸を整えながら路地の奥をうかがう。
 そこに――確かに獣はいる、間違いない。
 声に出さず、男は心の奥で呟いた。自らの呼気に混じり微かに聞こえてくる獣の荒い呼吸音が、彼に確かな存在を教えている。
 男は深く吸い込んだ息を吐き出し、眼前に聳え立ったコンクリート壁を見上げた。
 もとからなのか、車の排気ガスや煤で汚れて灰色になったのか分からない壁の先には、鮮やかな群青色をした夜の薄闇が細長くあった。周囲に明かりがないおかげで、そこには数粒の星が見えている。
 男の体は緊張に震え、彼は銃を握った右手に言い聞かせるようにして、自らの左手で右腕を押さえつけた。
 だいぶ夜が深くなった、と男は心の中で一人ごちた。
 影から飛び出し視認――目標捕捉。
 男は体を反転させながら銃口から先に獣へと向ける。
 あの時もこんな時間の流れ方をしていたと思う。自分の存在していた全てが変わったあの時――世界の見方も生き方も――何もかも変わったあの時のことだ。
 飛びかかろうとしてきた獣に、男は有無も言わさずに弾丸を浴びせかける。正面から銃撃をもろに浴びた獣は怯み、顔面に叩きつけられる銃弾から目を閉じた。
 その隙を見逃さず男は距離をつめ、獣の懐へと飛び込んでいる。
 欲していた力は自らの中に始めからあった。けれど、そんな力が欲しかったわけではなかった。矛盾に聞こえるかもしれない。でも男にとっては事実だった。
 蹴り上げたブーツのつま先が、鈍い音を響かせて獣の顎にめり込んだ。
 いまでも、あの人の言葉が忘れられず、いろいろと考えさせられることがあった。
 首がのびきる獣の頭蓋に、返すブーツの踵が襲いかかる。
 ――ソンナモノガ、キミノノゾンデイタチカラダトイウノ?
 突然の横殴りの蹴りに、獣はコンクリートの壁へと叩きつけられる。その勢いと獣自身の自重による衝撃に、ひび割れたコンクリートの表面が次々と剥がれ落ちた。
 粉っぽい煙が立ち上り、男はアーバングレーのコートの袖で口元を覆う。
 誰に言われなくても分かっていた。その力が望んでいたものとは違うものだということに。気づいてはいたが、それに触れることが怖かったのだ。だから誰かに言われるのを、ずっと待っていたのかもしれない。
 男は獣の胴を蹴り飛ばして反応を見る。人よりも一回り大きな全身を覆う毛皮をコンクリートの破片と埃で白くした獣は、彼の前で舌を出して倒れたまま動くことはなかった。
 ただ手に入れてしまった力に酔っていたのだろう。目の前に横たわる獣のように、次の朝を迎えると全てがもとに戻っているような、そんな長い夢を見ていただけのことだ。
「こちらウォーリア、ウィザード聞こえているか?」
 呼びかけるものの無線からの応答はなく、男はその場から離れ、無線の通じる場所を探した。
「――ウィザードから……リアへ。現状を報告しろ」
 しばらくして、状態は悪かったが、無線からは聞き慣れた声が漏れた。
「こちらウォーリア、状況終了。保護班を区画に入れても大丈夫だ」
 体を支える為についた、手の平に伝わるコンクリートのざらついた感触。
 男にとって、彼の周囲にいた大人たちはみな、このコンクリートのように冷たかった。火照った先から体温を奪い去り、汚れた部分だけを他人に押しつけてくる。
 自分はそんな連中をずっと嫌っていたガキだった、と男はふと思い返していた。
「――了解。保護班が……するまで油断はするな」
 上と下とでコンクリートの色の違う壁を見つめながら、男は無線に耳を傾けていた。その背中で、彼は瓦礫が崩れる音を聞いたが、先ほど壊したコンクリートが崩れたのだと思い気にも留めなかった。
「……了解した」
 口から発した言葉は、男が自分で思っていたよりも力がなかった。昼間に服用した風邪薬が原因だと考えてはみたが、割れるように痛み出した頭にはどうでもよかったのだ。男にしてみれば、無線のノイズも頭痛を増大させる一つの要因でしかなかった。
 言える結論はこれしかない。今日は調子が悪い――それだけだと男は納得し、つけていた無線装置を耳からむしりとる。
「――ぐあ!」
 刹那、全身を襲う突然の衝撃に、男は吹き飛ばされていた。凄まじいまでの衝撃が肉体を押し潰し、肋骨が圧迫され背骨が軋みを上げる。
 気がつけば手から離れた銃が視界の片隅で宙を舞っていた。そして自らの体も宙に舞っていることに気づく。上下の感覚も何もない、一瞬だ。
 眼前に現れたビルの壁に、男は咄嗟に体を丸めていた。鉄槌を叩きつけられたような衝撃に、彼は呻き声さえ上げることができなかった。粉塵の舞い上がった地面に投げ出されて転がり、ただ空気を欲して咽るだけだ。
「――……した?」
 襟に引っかかったままの無線からは、ウィザードの怪訝そうな声が聞こえたが、男には答えられなかった。答えている余裕など、酸素を求めるだけの体にはなかったのだ。
「――どうしたウォーリア? ……しろ!」
 注視した先から、男は目を離すことができなかった。
 愕然と見開いた男の瞳には、荒い息をつきながら仁王立ちをする獣の巨体。
 そこに映し出されたのは金色の長い毛皮にしなやかな体、凍てついた満月を思わせるような金色の眼孔。威嚇の為か般若のようにつり上がった赤ら顔に二対の牙。それに体重を支える二本の豪腕を併せ持ち、バランスを取る為の長い尾が、背骨のラインの延長線上にのびている。
 ビルの谷間に降りそそぐ月の光に照らされたその姿を、男が見間違うはずもなかった。
「――ウォーリア! 目撃情……よると、眠り姫のキマイラ能力は……だ!」
 男の耳には無線の声は届いていなかった。
 獣がキマイラ本来の姿を取り戻していく。それまでは辛うじて人間に毛が生えていた程度だったが、今では獣そのものだった。
 男の前に現れた姿――それはまさしく猿以外の何ものでもなかった。間違いなく人の姿と体つき、人のバランスを維持した巨大なニホンザルの姿をしていたのだ。
「猿芝居のつもりかよ、ふざけやがって!」
 確かに気絶したのを確認したはずだ、と男は自問する。今回の目標をいつもと同じだろうと侮っていたのかもしれない。単純なミス。
 爪を立てた手の平には、どこからか紛れた砂利がめり込んでいたが、男に気にしている暇はない。体を必死に起こそうとして――彼は本能的に頭部を庇っていた。
 直後、脇腹には獣の石のように硬い拳が食い込み、男は再びアスファルトの上を滑る。
 さらに獣が牙を剥き出したまま飛びかかってきた。常人のそれを遥かに上回るダッシュ力と無駄のない滑らかな動き。瞬く間に獣は移動し、男の腹に回し蹴りを叩き込む。
 さらに追い討ちをかけるかのように、獣は強烈な腕で男の背に両の拳を叩きつけた。再び彼の背中の骨が鈍い音と共に軋み、肋骨が折れそうになって苦しげな声が漏れる。
「――くっ!?」
 背中に走る痛みが、男の薄れかけた意識を表面に引きずり出した。だが、一度揺れだした脳はしばらく止まりそうもない。
「――どうしたウォーリア!」
 さらに獣は、男の脇腹へと問答無用に牙を突き立てる。
「ぐああああ!」
 闇夜を劈くような悲鳴――男が苦痛の挙句に出した刹那の灯火に、獣の蛇のように甲高い唸りが轟いていた。
 そこにはただ、獲物を狩る獣の姿があったに過ぎない。いや、正しく言うのなら防衛本能に狩られた猛禽類の姿があっただけだ。殺戮を楽しむ為でもなんでもない。ただ、目の前に現れた自らの命を脅かす敵を葬るだけ。
「――どうした、状況を報告して!」
 男は薄れていく意識の中、無線から零れる呼びかけから、強くなっていく不安を感じていた。ずっと聞き慣れていたはずの声が、徐々に冷静さを欠いた本来の色へと戻っていく。
 ふいに男は笑みを零した。なんだかそんな一瞬が、この状況下においても妙に嬉しかったのだ。同時に、場違いな感情を自嘲する。
「――だ、大丈夫なの? 返事をして! 状況を報告……ウォーリ――た、貴也っ!」
 ずっと保ち続けていた体裁が崩れていく。上官とその部下、特殊部隊の指揮官と隊員。
 男――水城貴也は声の主であるウィザードこと、最愛の人である柳瀬奈緒の本当の声を聞いて安心していた。何だかほっとし、できることなら胸をなでおろしていただろう。
 もっとも、そんなことをしている余裕などないのだが。
 そこで貴也の意識は途絶えた。

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