■ アイザックをもう一冊…… ■

友鶴 畝傍
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 空前の不景気、なるももが慢性的に続き全国的にいま一つ華やかさに欠けるきらいはあるものの、一年の最後の月となり、世相はそれなりに先生すら駆け出しそうな慌しさに包まれている。
 某県立尚武館高等学校においても例外ではなく、期末考査の作成やら大学受験に関するもろもろの作業、忘年会の準備などが先生方を奔走させている。無論のこと、生徒諸君も
期末考査の勉強やら大学受験に関するもろもろの作業、冬休みの準備等で奔走している。つまりは学校全体がなにやら(毎年のことながら)浮ついていたのである。
 そんななかにあっても例外となる空間は存在するもので、夏場は生徒諸君の憩いの場としての人気を、保健室と二分する冷暖房完備のカウンセリングルームも実に閑散としていた。
 期末考査を目前に控えた、西高東低の大気分布に従った正しい冬晴れのその日も実際閑散としていたカウンセリングルームでは、
「ふわぁぁ」
などとカウンセラーの山石田氏は欠伸を堂々としている。
 山石田氏。下の名前は寅獅朗。なんとも時代がかった名前であるが、これは寅年の夏に生まれたから、というもっともらしい理由がついている。そこから年齢も何とはなしに推察できてしまうところだが、本人は二十五歳だ、と強固に主張している。そんな妄言を次々と吐き出す大口を縦横に駆使して、日々生徒のモロモロの悩みを聴き給料を得ている、といった男である。
 校舎の一階、元は宿直室であったカウンセリングルームの窓からは、ジャージの色から一年と知れる女子が、五時間目という最も眠い時間帯に体育という居眠りをすることなどまず考えられない授業を受けるという幸運を満喫している様子が見て取れる。仕事熱心ではないがヒマに対する耐性も高くない山石田氏は、校長室からの中古品である革張りのソファの上で胡坐をかきながら、そんな光景をボンヤリと、しかしながら、胸中少々穏やかならぬ憤激を持って眺めている。

 五時間目は自習、と何処か無責任な字で黒板に大書された2年B組の教室は、自習をしているもの六割、何やらダベッている者三割、睡眠学習者一割、という比較的真面目な自習時間にあった。尚武館高校始まって以来の俊英にして生徒会長という優等生を絵に書いたような生徒、織田庵君もまた自習をしているマジョリティであった。もっとも、授業時間もあと十分、というところで席を立ち、現在はカウンセリングルームに向かって歩幅七十センチメートル、歩数は一分間に七十五歩、という自衛官のようなペースで廊下を進んでいる。校内は走ってはいけません、というポスターを生徒会が貼り付けている校内にあっては、織田君の廊下で出しうる最高速度といってよい。結果、端正な造りの顔にはうっすらと汗が浮かんでいるが、それでも詰襟のホックを緩めないのはさすがなのかそうでないのか。
 勿論、スポーツにおいても十分に優秀な彼のこと。普段なら少々校内を邁進した程度でそうそう汗をかきはしない。
 理由は明らかであったが、それを理解できるのは織田君本人しかいない上に、織田君本人はそのような(どうでもいい、と彼自身が括っていた)ことに裂けるほどの余裕はいまにあっては持ち合わせてはいない。

「ふむ、そうだよ。笹井さんなら昨日ここにきたよ」
「そうでしたか。で、どうでしたか? 彼女もやはり能力者でしょうか?」
 カウンセリングルームに、錆びついたような声となかなかな美声が響く。どちらも同じく抑えられた声量であるが、後者の声が帯びる緊迫感と前者の声が発散する呑気さがいまひとつかみ合っていない。
 入室した織田君を、それまで自分が胡座をかいていて中古のソファに「暖めておきました」などと軽口を飛ばしながら着座させ、自らはこれまた中古の事務椅子に腰掛けた山石田氏と、「先生、猿って呼ばれたいんですか」と応対した織田君との一通りの会話の締めくくりが、上記の会話である。会話の内容は、現在グラウンドで行われている白熱したハンドボールの紅白戦をどこかボンヤリと見学している女子、笹井あざみについて。
 卸したて、と察せられるジャージからとれる通り転校生である。家族構成は両親との三人家族。尚武館高校と県内トップを争う進学校に通う優等生であった。つい先月までは。両親は、先ごろテレビニュースを騒がせた殺人事件の主役を務めており、一人娘をおいて現住所を墓地に変更してしまっていた。
 つまり、現在の彼女は、来年の景気予想やら暴発寸前と騒がれつつもいまだに暴発しない某テロ支援国家と同じくニュース番組の寵児というわけである。
 その点が、傷心の笹井さんが県立としては珍しい寮を持つ尚武館高校に転校してきたことの大きな要因となっている。あざみちゃん、もう大きいんだから一人で大丈夫よね。と、平穏な日常を愛する彼女の親戚一同は厄介なプリマを引き取ってはくれなかったのである。
 勿論、一応カウンセラーである山石田氏と生徒会長である織田君にとって、笹井さんのそういった現状は留意すべき点であり、そのことでこの二人が相談をしていたところで何ほどの違和感もない。しかし、現在斜光によって色彩がオレンジ色を基調としたものに変更されたカウンセリングルームで交わされている会話の内容は、そのこととは少々異なる。
 これまた校長室からのおさがりである格調高い事務机に据えられた、これだけは新品のパーソナルコンピュータのキーボードを人差し指で弄りながら山石田氏が答える。
「おお。ビンゴだったよ。正真正銘の第二種ってやつだった。なんでも、事件当夜の記憶が無いっつーことだったんでちょこっと退行催眠かけたらいきなりドンってね。いや〜死ぬかと思ったね、マジで」
 織田君は、なんてこったい、という表情を浮かべ、「それでは、彼女のご両親は」と、それだけをようやく口にする。声は震え掠れている。
「……うん。そうだ。彼女の二親を殺ったのは彼女自身だ。もっとも君と違って第二種だからな、その記憶が無いのがせめてもの救いっちゃあ救いだな」対照的にどこまでも呑気な声で物騒なことを言う山石田氏。
「先生はそのことを?」
「おいおい、こう見えたって俺ァ一応保護官兼カウンセラーだよ。そんなことを本人に言ったらどうなるかくらい判るって。言っちゃあいないし、記憶も閉じておいた」
 それを聞き、ほぅ、と息を吐き出す織田君。とりあえずは安心、と言ったところか。彼の両親も既に一昨年他界していた。死因は単なる交通事故であったが、その当時の自分の精神状態を思い出すと今現在に至っても平静ではいられない。まして、笹井あざみは僅か一月前に両親を失っている。そこへ、意識や理性といったものが失われた状態であったとはいえ、実は己こそが両親を手にかけた、などという記憶を取り戻してしまったら。
 と、そこまで考えて、織田君は小さな疑問に行き着いた。
「先生、笹井さんのことは公団に報告したんですか?」
「うん。するにゃあしたんだが::。なんかなぁ、本部のほうがゴタついてるみたいなんだわ。本日只今現在に至るまでご覧の通り音沙汰無し」
 ペコ    ペコ、とかなりの間隔でキーボートを弄っていた山石田氏が、液晶のディスプレイから顔を上げながら、お手上げとでも言うようにバンザイ
をし、事務椅子を軋らせる。「まったく、パソコンってのも便利なんだか不便なんだか。肩ぁこっちまうよ」と席を織田君に譲りながら自らはグラウンドに面した窓に歩いて行く。
 ガラガラ   シボッ   ぷはぁぁぁぁぁ。と、全館禁煙が職員規約にしっかりと明記されていることを公然と無視した音を背後に聞きながら、またまた暖められていた事務椅子に座った織田君はディスプレイを見て愕然とした。
『システムエラーの為、システム復旧迄定時連絡の受付を停止いたします 総務部』
「い、一体どいうことですか? これは」
「な。ゴタついてるだろ。いやはや何ともキナ臭いねぇこいつは」ショートホープを上下させながら答える山石田氏。「正副に予備、さらにはバックアップとしてお上のネットの一部を無断で拝借できるウチのシステムがここまで鮮やかに落ちるってんだから」
 公団。正式名称を日本遺伝子安全確認公共事業団という。
 表向きにして主な業務内容は遺伝子組換え作物の安全性の確認や将来的に行われるであろう遺伝子治療の研究等を総合的に監督・推進することであり、関係省庁の予算持ち回りで発足した半官半民の組織である。この手の団体にしては天下りのほとんど無いこと、複数の役所に行わなくてはならなかった煩雑な手続きを肩代わりして行ってくれること、さらには行動が迅速であること等々から関係する民間企業や研究グループからの評判はおおむね良好な事業団である。
 勿論、上記の理由だけでは縄張り意識の強い省庁(というより日本人が形成した組織に有りがちな性根)が、自己の持つ権益やらなにやらを手放すはずも無いのだが、数十年前に起こった厄介な不祥事が、少々後ろ暗い裏向きの仕事を幾つかこなすことを条件に公団の設立をそれらに許させていた。
「と、まぁこうなると考えられる線は明らかに人災だぁな」
 山石田氏が短くなったショートホープを灰皿代わりのコーヒー缶に突っ込み、窓を閉めながら言う。無論、寒くなったからではない。どっこいしょ、とソファに腰を下ろす。
「人災::。テロですか?」向かいのカウンセラーに視線で、パソコンの電源落としますよ、と言いながら織田君が問う。
「お、たのむわ。::うーん。テロかぁ。織田君、物騒なこと言うなぁ」
「物騒って、先生が人災と仰ったんですよ」心底心外だ、と織田君の表情が曇る。
「ああ、いや、それもまぁ考えられる要因の一つではあるがね、俺が言いたいのはヘボなシステムエンジニアがヘマしたとか凄腕のエージェントがクイッと細工したとか、まぁそんなとこでね」
「クイッと細工って::先生のほうがよっぽど物騒なこと言ってますよ。だいいち公団のホストコンピューターには常時自己診断プログラムがはしってますし、セキュリティは市谷並とかどうとか仰ってましたよね」
「おお。地下のほうはすんごいぜ。いつだったかな、身分証忘れた時なんかさ、おっかないコーアン関係の兄さん方に囲まれちゃったもんな」
 ビンゴ、とでも言うように「ですから。映画や漫画じゃないんですから、そんな場所に易々と外部の人間が入り込める訳無いと思いますが」と織田君のツッコミ。
「織田君、若いのに想像力無いなあ」
「常識的に考えただけです」
「いや。そうじゃなくて、もうちょっと状況を考えてみなさいって」山石田氏が楽しげな口調で言う。
「? どういうことでしょうか」
 山石田氏が心底楽しそうに言った。
「つまりさ、やったのは公団の人間じゃあないかってことだよ」
 気の早い駅前商店街は、クリスマスセールと銘打った奇怪なバーゲンの真っ最中である。ジングルベ〜ルジングルベ〜ルと半ば強制的に陽気な気分にもっていかれそうな曲が、洒落たデザインに統一された街灯に設置されたスピーカーから流れ、財布の紐は緩めないものの奥様方が普段の買い物よりも一、二件多めに店を覗いて行く。
 まさか。という思いを払拭できないままに「まあ細かい話は明日だな」というカウンセラーの言葉に下校してしまった織田君であったが、寮にまっすぐ帰る気分にはなれず、苦しい予算で出来る限り華やかなデコレーションが施された商店街をフラフラと(良く言えばウインドゥショッピングを楽しんで)歩いている。とりあえずの目的は、商店街最大の書店、文講堂書店である。
 少々書痴癖のある織田君は、考えを纏める時にこうして図書館や書店を利用する癖がある。
 一階の雑誌・コミックフロアは無視。三階の参考書・専門書フロアには多少の未練はあるものの、これも無視。二階小説・海外書フロアを思索の場に(勝手に)定め、店内を歩き始める織田君。視線は本棚に向けられてはいるものの、何か目当ての本を探しているようには全く見えない。しかも時折立ち止まっては「う〜ん」などと唸っている光景は傍から見る限り果てしなく不気味ですらある。
 活字離れ、という現実の前に、一階の盛況ぶりと対照的に実に閑散とした二階の専属従業員も、常連である織田君のその行動に多少の困惑を感じざるを得ない。
『先生は今回のシステムダウンは内部の人間の犯行だと言った。確かに外部からのシステムへの干渉は難しいだろうし、関係者を装って外部の人間が公団本部に侵入することも難しいだろう。うん。とりあえず内部犯行説で問題は無いな。じゃあ理由は? うーん。怨恨、金銭、そんなところか。あ。金、ってことは実行犯以外は外部の人間でもいいってことか。外部::。セントラルインテリジェンスなんたらとかエムアイファイブとかってことか? エムアイってなんの略だったっけ。いやいや、そんなことはどうでもいいな。うーん。ちょっと荒唐無稽すぎるか。これじゃあ先生と一緒だな。ん? 先生。あ、そういえば公団も随分と荒唐無稽な組織だよな。考えてみれば俺だって随分と荒唐無稽な存在だからな』
 そこまで考えて、織田君は、折角書店に来ているのだから、と用事を思い出した。グラフィック科学雑誌アイザックの今月号を買う、という(とりあえずの)目的があって、織田君は文講堂書店を訪れていた。アイザックは、グラフィック科学雑誌を名乗っているにもかかわらず、雑誌コーナーに置いてもらえない不遇な雑誌で、三階の専門書コーナーの片隅にかろうじて生息していた。悲しいことに、商店街にあと二件存在する書店には置いてすらいない。
 そもそも、織田君の知りうる限りアイザックを定期的に購読している人間は彼の周囲では山石田氏唯一人である。その事実を知ったときには織田君は不良カウンセラー(と思っていた男)に奇妙な連帯感を持ったものであり、後日、織田君が生まれる前のバックナンバーをまとめて借りたときには、不良の定冠詞をはずす決心をしたものである。考えてみれば、そういった小さなきっかけで、能力者と公団の保護官といった無味乾燥な人間関係が人と人との関係になった、ともいえる。いつだったか、そのことを山石田氏に話したところ、「う。あぁ、まあ趣味ってもんは人間関係の潤滑油だからな」などとわけの判らないことを言っていたことも思い出される。今にして思えば、あれは照れ隠しであったのか。
 参考書コーナーの人だかりとは実に対照的に廃村一歩手前の村ほどにも閑散とした専門書コーナーには、先客があった。しかも、その先客は織田君が(とりあえず)購入しようとしていたアイザック十二月号を手に取っていた。
 平積みはおろか、必ず売れる二冊(即ち織田君と山石田氏の分)以外入荷される事のないアイザックをここで先客に購入されてしまうということは、織田君にとっては四駅も離れたターミナル駅までの遠出を意味していた。寮の門限には、そうしてもまだ余裕があったが、予算の関係上それは避けたい、というのが織田君の本音である。学校公認のアルバイトの給料日まではまだかなりの日数がある。
 戻せ戻せ戻せ戻せ本棚にアイザックを戻せええええ、と織田君が超能力者ならばスプーンすら飴のように曲げられるほどの念を先客の背中に送ってはみたものの、残念ながら織田君は超能力者ではなく単なる能力者だったので、先客がアイザックを棚に戻すことは無かった。かわりに、背後から聞こえてくる「んぐぐぐぐ」というあからさまに怪しい気配に振り向いた。
「………。織田…先輩、ですか?」
 笹井あざみであった。

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