■ アイザックをもう一冊…… ■

友鶴 畝傍
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「い、いやぁ、済まなかったね。なんだか無理やり譲ってもらっちゃったみたいで」
 少々上擦った声で織田君が詫びる。百五十円でおいしいコーヒーが飲める喫茶店に入って既に五度目である。暖色系の間接照明に照らされた向かいの椅子には笹井さんが座っている。
「いえ…。私もなんとなく手に取っただけですし、それにこうしてコーヒーも御馳走して頂いてますから。あ、コーヒー、有り難う御座います」ことらもやや上擦った声で答える笹井さん。もっとも彼女の場合、全校女子生徒憧れの男子ダントツ一位の織田庵と「お茶している」というシチュエーションに照れているのだが。
「いやいや。コーヒーくらい気にしなくっていいよ」鷹揚に答えながら、文講堂書店の紙袋を通学鞄から取り出す織田くん。袋の中身はグラフィック科学雑誌アイザック。つまりは、織田君は笹井さんからアイザックの購入権を譲ってもらっていた。コーヒーはそのささやかなお礼、というわけであり、ついでながら、念力集中の口止め料でもあった。
「でも以外だな。女子の笹井さんがこういう本に興味があるなんて」
「ええ。前の学校でもよく言われました。でも、先輩もご存知の通りここ暫く身の回りが
ゴタゴタしていまして………。でも昨日学校で今月号を見かけて、ああ、そうだって思い出したもので」
 織田君の鞄の上に置かれた紙袋を見つめながら答える笹井さん。気丈に言ってはいるものの、視線に影がちら、と過る。
 当然といえば当然なのだが、対面している織田君にしてみれば、こういった状況は少々困惑である。彼女を直視できない。
「な、なるほどね。ここ最近大変だったと。うん。うん。でもまあ笹井さんもそうやっていつもの自分を少しずつ取り戻そうとしているんだな。そう。まだ若いんだから前向きにいこうや、あ、じゃなかった、いこうよ」何か言わなければ、元気付けなくては、と思いあぐねた結果、愚にもつかないこと台詞をやっとの思いで口にする織田君。あああ、俺は何を言ってるんだ。
「え? ………若いんだから前向きにって、先輩、カウンセラーの先生みたいなこと仰るんですね」
 場違いな発言をしてしまった、、と自責の念にかられたいた織田君に以外にも明るい(というより暗くない)声が届く。
「は? カウンセラーって。あ! 山石田先生のこと?」
 よくよく考えてみれば何のことは無い。当時はカウンセラーではなかった山石田氏に、織田君がかけられた台詞そのものであった。どうやら昨日も山石田氏は同様の台詞を笹井さんに言ったらしい。
 救われたような気持ちで彼女に視線を戻す織田君。
「はい。その山石田先生です。私、ちょっと相談があって昨日カウンセリングルームに伺ったんです。その時同じことを先生が仰ってました」
「え。あ。そ、そうなんだ。うん。そうそう、俺も何年か前に同じことを言われたんだ」
 この時ほど織田君が山石田氏に感謝の念を感じたことは無いかもしれない。先生、有り難う、あなたをダシに使わせてもらいます。
「先輩も、ですか? あっそういえば先輩、カウンセリングルームの常連だって先生が仰ってましたよ」笹井さんの声に張りとでも呼べるものが宿る。
「常連って………。なにを言ってるんだあの人は」感謝の念が音を立てて萎んで行く。確かに俺は一般の生徒よりはカウンセリングルームに行く回数は多いだろうが、それはあの人が公団の保護官で生徒会の監査役だからじゃあないかッ! 事実は事実として、理由を捏造される謂れは俺には断固として無いッ。
「いや、あれは別にサボりとかそういうんじゃなくて」
「え? でも先生、先輩が来ると、コーヒーを出せとか暑いとか寒いとかいわれたい放題だって仰ってましたよ」
「んなっ!?」感謝の念は最早欠片も残っておらず、さらには先程心に誓った決心すら吹き飛ぶ織田君。はぁぁぁぁぁ、と力が抜けてゆく。せんせぇ、なにいってるんですかぁ。
「あら? 先輩、どうされたんですか」
「………。あのね、笹井さん。あの人のいうこと全部をそのまま信じるのって、良くないと思うな、俺」
「え? でも先生、嘘はつかないって仰ってましたよ」
 あああ。またいってるよ、あのオッサン。心の中で二人称を先生→人→オッサンと順次グレードダウンさせる織田君。
「でもその後で法螺は吹くっていってなかった?」
「あぁ、はい。仰ってましたね。え! あれって、冗談、だったんですか? 先生すごく真面目な顔で仰ってたんで、私てっきり先輩ってそんな人なのかなって………。なんだかそういうのっていいなって思ってたんですよ」
「は?」嘘もとい法螺とはいえ傍若無人がいい? 話の展開が全く見えない織田君。
「ええっと、その………。先輩ってスポーツ万能で成績も優秀でしかもカッコいいですから、なんていうか近寄りがたいってイメージがあったんです。でも昨日のお話で、ああ、そういう所もあるんだって………」
 スポーツ万能で成績も優秀でしかもカッコいい、などと面と向かって煽てられると、さすがの織田君も照れる。というより気恥ずかしい
「そうかな。うーん、そうかぁ。近寄りがたい、かぁ」
「あ、いえ。そうだったてことで。今はこうして私なんかともお話してくれていて、私、とっても楽しいですよ」あわててフォローする笹井さん。どうやら彼女も遅まきながら山石田氏の法螺に気付いたようである。
「そうかぁ。あれ、冗談だったんですね」
「うん。笹井さんも気をつけたほうがいいよ。あのオッサン、真顔でしょうもないことをシャーシャーというから」

 結局、織田君の目論見どおり山石田氏をダシにしたアイザック仲間の喫茶店での会話は盛り上がり、シルクスクリーンに挟まれた掛時計はそろそろ門限であることを告げていた。
「おっと。そろそろ帰らないと寮の門限、間に合わないな」織田君が少々年代物の腕時計を見ていった。父親の形見の時計である。
「あ、そうですね。もうこんな時間。こんなに楽しい時間ってなんだか久しぶりで、あっというまでした」笹井さんも自分の腕時計を確認する。
 百五十円でおいしいコーヒーが飲める喫茶店がある駅前商店街から尚武館高校の学生寮までは、学校自体が地元で『城山』と呼ばれる高台に位置している為、けっこうな時間がかかった。織田君ひとりならともかく、笹井さんのことを考えると急がなくてはならない。
 さすがに走るほどのことはなかったが、それでもかなりの早足で商店街を抜け、学校に続く半ば以上山道の様相を呈している道にさしかっかったところで、織田君が足を止め腕時計を見る。
「よし。門限まであと十五分。ここからはゆっくり歩いても大丈夫だ。笹井さん、大丈夫? 疲れたかい?」
「………。はい。大丈夫、です。はぁ、でもよかったです。この道もいままでのペースで歩くんだったらどうしようって思ってたんです」
 息を弾ませながら笹井さんが答える。綻んだ口元からは盛大に白い息が吐き出されている。気温は夜になってグンと下がってきたようだ。
「はは。そのことはちゃんと計算済み。俺もこの道を早足ってのは嫌だからね」
「さすが先輩、考えてるんですね」
 呼吸が整ってきたのか、白い息を減らしながら笹井さんが合いの手を入れる。
 その表情に、喫茶店に入った時よりも柔らかな印象を受ける織田君。ああ、これが笹井さん本来の人柄なんだろうな。
「うん。慌てず急いで登っちゃおう。あ、これも先生の受け売りなんだけどね」
「はい。急いで待つ、ですよね」笹井さんも山石田語録を繰り出す。
 宣言通りゆっくりと学校への道を登り始めるふたり。ゆっくり、であるために、結局は山石田氏の話題であるものの会話が弾む。

 目標が漸く登ってきた。最近になってようやく小うるさいマスコミ連中が減ってきて任務遂行のチャンスが巡ってきた。同士がシステムトラブルを起こし公団全体を混乱状態にし、保護官を孤立させ事実上の無力化に成功した。しかし、目標は正規登録されている能力者と同行している。絶好の機会、唯一の誤算である。どうするか、と仲間に連絡する。
「門番より衛兵、踊り子が城門をくぐった。繰り返す、踊り子が城門をくぐった。付き人が一名。宮廷付き吟遊詩人の模様。送れ」
 一瞬の空電雑音の後、やや歪んだ衛兵のこえが耳に装着されたマイクロコミュニケーターに届く。
『衛兵より門番、計画に変更は無い。吟遊詩人は無力化する。衛兵は全装備仕様自由を宣言する。送れ』
「了解。作戦行動に移る。終わり」
 門番は行動を開始した。
 僅かな草擦れの音と共に左手の藪から出てきた人物は全身黒ずくめの異様な服装だった。ご丁寧に顔にはこれまた黒の目出し帽を被っているため表情はわからない。それどころか性別すら不明であった。
 映画に出てくる特殊部隊みたいだな、と織田君は考え、次の瞬間、ピンと来るものがあった。
「なんですか、あなたは。ここは尚武館高校の所有地ですよ。仮装パーティーかサバイバルゲームなら余所でやってください」言いながら若干腰を落とし相手の出方を伺う織田君。ピンときたものから導き出された結論は、このままで済む、とはなっていない。
 黒ずくめから視線をはずさずに笹井さんに声をかける。
「俺から離れないで。事情は飲み込めないだろうけどとにかく離れないで」
 黒ずくめが口を開く。声音から、どうやら男だと見当がつく。
「少年、残念だが君に用は無い。私は君の後ろにいる少女に用がある。下がっていてはもらえないだろうか」見事に感情を抑制した声、である。
「それはできませんね。僕は生徒会長なんですよ。ウチの生徒が怪しさ全開の覆面男と同行することなど看過しかねます」多分、時間稼ぎにもならないな、と思いながら織田君が軽口をたたく。
 黒ずくめは、ふっと鼻を鳴らしていった。「どうしてもか?」
 織田君も同じように鼻を鳴らしていった。「どうしてもです」
 黒ずくめがいつのまにか右手に納めていた拳銃のようなものを凄まじい速さで織田君に向ける。
 と同時に織田君も体の中のスイッチを入れる。
 能力者。人であって人にあらざる能力を持つもの。可能性、というくびきをもつことを運命付けられた存在。
 織田君の能力が開放された。
 ポヒュポヒュ、と、どこか微笑ましい音で拳銃(らしきもの)から放たれた二発の有機系軟弾を織田君は確かにその目でとらえていた。狙いは眉間と左胸。うわ、いきなり容赦ないな、この黒ずくめ。うん。よし。この角度なら避けても笹井さんには当たらないな。
 織田君が紫電の速さで地を蹴る。
 半瞬後、一気に間合いを詰めた織田君が黒ずくめの頚動脈に手刀を繰り出す。かに見えた刹那。
「んあっ!」
 織田君は左側頭部に特大の衝撃を感じた。
 衛兵の放った有機系軟弾であった。
 意識が暗転する。どこか遠いところで笹井さんの声が聞こえた。

「なるほどね。ツーマンセルは基本中の基本だからな。いやはや、油断したな織田君」
 山石田氏の感心したような声が、深夜の、と証して差し障りの無い尚武館高校の校内に響く。音源は保健室である。
「はい」
 山石田氏の軽口にうなだれる織田君。彼は一時間ほど前、帰宅途中の山石田氏に発見され保健室に担ぎこまれていた。大まかな説明はもう済んでいる。
「だが、まあ命に別状なくって幸いだったあな」
「………。はい。しかし、笹井さんは」苦渋に満ちた声。頭が痛いわけではない。
「ああ。こいつの相方がさらってった。まったく手の込んだことしやがる」
 織田君の苦渋が伝染したかのように保護官も答える。顎でさしたほう、織田君のとなりのベッドには両手両足を針金でガッチリ巻かれた黒ずくめが、あお向けに転がっている。
「どういうことですか?」山石田氏のつねならぬ声に織田君が尋ねる。
「ん? ああ。笹井君の件な。あれ、おかしいと思わないか。一家惨殺の唯一の生存者が丁度覚醒の年頃だってんだぜ。公団が調べねえわきゃねえんだ。でも調査は行われず終い。結局、俺も昨日までそんなこたぁ全然知らなかったもんな」山石田氏の眉間に皺がよる。
「だがな、本当は彼女は精密検査を受けていたって考えりゃ全部辻褄が合うんだ」
「え?」
「うん。情けねえ話なんだが公団の中にもくだらねえ了見を持った連中が入り込んでるらしくてさ。能力者をバラしてでも研究しようってとんでもねえ話がチラホラしてんのよ。でもな、織田君みたいな登録してある能力者をさらっちまうと、公団が出張ってくるだろ。だからさ。そいつらは笹井君が能力者だってことをうやむやにして、さらっちまうって計画だったんだろ」
 織田君の中でも今の説明で全て納得がいった。全ては公団内部の一部の人間の仕業であった。怨恨でも金でもない、狂気が理由だった。
「先生、こうしちゃいられませんよ。早く笹井さんを助けないと」
「うん。そうだな。ま、連中が何処に行ったかは、さっきそいつに教えてもらったからな。パッパと行ってチャッチャと片付けてくるかな」さぁてと、と皮ジャンに袖を通す山石田氏。
「なら、俺も一緒に行きます」
「はぁ? 言うと思ったよ。駄目だね。こいつぁ公団内部のもんだいたよ。だいいち君は
怪我人なんだぞ」
 議論はなし、といわんばかりに立ち上がる保護官。
「ちょっと待ってください先生! それをいうなら笹井さんは尚武館の生徒です。俺にも生徒会役員としての責任があります。それに………」
 なにを青臭い事を、と振り向いた山石田氏に織田君は決然といった。
「ツーマンセルは基本中の基本ですよ」
「………。くっそ。一本とられたか」

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