■ -disorder番外 枠と限界- ■

早稲 実

   1

 鬱蒼、と表現するには物足りない森である。
 しかし、暦の上では丸みを帯びた輪郭を見せるはずの月すら拝むことすらできない、闇の中。
 火は、ちろちろと燃えていた。
 灯火にすら成りきれていない炎は、何度も咀嚼するようにしてなんとか次の生木に移り燃えて命を繋いでいる。まるで、老人のように頼り無く。
 生木が発する大量の煙りに阻まれながらも、それでも辺りを照らしていた。人程も太さを持つ幹が間隔を開けて立ち並ぶ。高圧的な軍隊みたいに背筋を伸ばした高木ばかりだった。捩じくれた子どもみたいな潅木などはどこにもない。草もなく、へりくだったコケばかりが広がっていた。
 年を、とりすぎた森だった。
 成長しきった高木ばかりが日の光を独占し、それ以外は陰気なコケばかり。湿気は逃れる術を失い地上に戻る。
 そんな森だった。
 常ならば、そんな森に人は訪れない。しかし、火を熾したのは人だった。
 切り株に腰を降ろし、瞬きもせずに、ただ座っている。ジッと何かを見ているようで、何を観察しているわけでもない。ときどき思い出したかのように目を瞑り、しばらくして開ける。そんなことを繰り返していた。もう少し速く時が流れたのならば、その閉目の時間こそが瞬きであったかも知れない。
 けれども時は歩調を変えることなく、その日も夜は長い。
 彼が何回、目を瞑った時だろう。一つの高木の陰から女性が現れた。年の頃なら十五?六。この辺りの共和国的な年齢間隔でいうならば、成人をようやく果たしたくらいの年の頃である。膝までのズボンと袖のない臍が見える程の服が、露出は多いくせに活動的なその服が、年齢を割り出すことに貢献していた。女性としては長身に入るだろう。けれど、性別特有の成長は見られず、丸みは薄い。その変わりに鉄布のようにまとった筋肉が、彼女の印象をはしっこい猫のように見せる。
「はぁい?」
 返事ではなく挨拶のつもりで発した彼女のその言葉に、男は何の反応も示さなかった。それこそ猫のように大きな瞳と、柔肉に線を引いて作ったような薄い唇が精一杯作っていた笑顔など、男の目には届いていない。
 男はただ黙って弱々しい焚き火に目を向けており、さらにはその光すら見つめてはいなかった。

 なによぉ?。
 無反応という男の反応は、ティックにとっては意外であり、不本意であり、苛立たしくもあった。だから彼女は、男のことを慮って口にこそ出さないが、胸中で悪態を吐いたのである。
 がまの穂が尽きていた。火打ち石があろうと、擦り合わせて作れる火花だけでは、焚き火は熾せない。火花を燃え移らせる綿のような、可燃性の高い物質が不可欠であった。火もなく、森の夜はこせない。しかたなく歩き通していたところで、ティックはこの焚き火を発見したのであった。
 初め、その明かりを見つけた時に生まれた感情は、恐怖だった。
 野党かもしれない。
 この辺りの森は、東方貿易の橋渡しを行う貿易国、ジャクメルへの最短距離である。とはいえ、普通の貿易ならば街道沿いにこの森を迂回して馬車を走らせた方がいくらも早く、安全である。であるが、通行書を持たぬ者、貿易許可証が降りない荷物を運ぶに当たって、この辺りは有名な通称路であった。
 しかも、この森を通る者たちは誰しも、諸国の庇護の下にあるわけではない。野党たちが目をつけるのも無理はなかった。
 別段、この辺りの地理に明るいわけではなかったが、ティックもそのくらいの事情と都合は先の町で仕入れていた。だから、焚き火の明かりに身を固くしたのだ。
 けれども、火は欲しい。
 ティックはまず、その明かりの周囲をぐるりと回って様子を探る。思っていたよりも少ないな。次に索敵範囲を狭めて人数を探る。ん、一人? その絞り込んだ一人の背が眺める高木に身を隠し、しばらく観察をした。
 一人である。大男。鉈みたいな肉厚の、巨大な剣を寝かせている。本人は動かない。寝ているのか? 殺るなら、絶好の機会ではある。
 ティックは右手を懐に潜らせ、逡巡し、結局手投剣を抜かずにゆっくりと手を引いた。
 野党であるならば、一人のはずがない。腕に自信がある武芸者ならば、ここまで接近されて何の反応も示さないはずがない。
 つまるところ、持ち前の筋肉を便りに成り上がろうとする愚か者であろうと判断し、見逃した。自分に害のない者まで手をかける程、戦闘狂ではない。先の仮説通り成り上がりを夢見るのであれば、目指すのはおそらくジャクメルであろう。気のいい奴ならば、夜番にくらいつかってやってもいい。
 ティックはその男の正面に改めて回り込みなおし、できるだけ自然を装おって挨拶をかけた。それが、無反応。無駄に終わってしまった。こんなに可愛いあたしがこれだけ愛らしく声をかけたというのになんの反応も示さない。自分に何か欠点があるのだろうか。すらりと引き締まった細身の身体に、幼女のように鼻にかかった甘い声。何が問題だというのか。いや、確かに。熟女の丸みにのみ性的興奮を覚えるような高齢者であれば、自分はいささか魅力に欠けるのかもしれないが??
 それはそれ。目の前の焚き火にあたる男は、余程の若作りでない限りは自分よりも少し上。落ち込むような無表情をしていなければ、同年代くらいかもしれない。麻服を競り上げるほどの筋肉がなければ、むしろ後者であると判断したであろう。
 なればこそ、腹が立つ。腹は立つのだが、それでもティックは自身を抑え込んで、無理矢理笑顔を作りなおした。頬が引き攣るのがわかるが、まぁ、暗がりだ。向こうにもわからないだろう。
「ねぇ、お兄さん。お隣いいかな?」
 やはり、というべきか。男は焚き火の火を眺めているだけで、一向にこちらを見ようともしない。目を開けたまま寝ているのだろうか?
 ティックは馬鹿馬鹿しい考えを捨て置き、近づきながら声をかける。
「ねぇ、ねぇってば。死んでるわけじゃないんでしょ? なんとか言いなさいよ。ちょっとその焚き火に当たらせて欲しいんだけど??」
 突然、といっても速度としては大したことのない動きだが、男が顔を上げた。表情にはまだ、変化がない。目も、こちらを見ているのか、自分を貫いて遥か遠くを眺めているのかすら判断できないくらい、死んでいる。
 無反応と何一つ違わない、死体の表情。無表情。
「なんのようだ?」
 ティックは、自分が足を止めていることに気がついた。思い返せば、男が動き出してから今の台詞を発するまで、自分は動きを止めていた。威圧されたわけでも、気圧されたわけでもない。けれど、自分は彼を見ていた。何するでもなく。そうだったと思う。
 息苦しかった。
「え、いや、ほら??そうそう、あたし、がまの穂を切らしちゃってさ、その火にあたらせて欲しいなぁーって」
「持っていけ」
 言葉少なにそれだけを呟く。火種のことをいっているのであろうが。
 男の、そのあまりに興味を示していないという態度に、自分の鼻のあたりに皺が寄るのがわかる。それでもティックは口だけで微笑んで続けた。
「いや、でもさ、一人よりは二人の方が。交代で寝られるしさ」
「勝手にしろ」
「え、うん。ありがとぉ??」
 ティックは、その男が腰掛ける切り株の横の倒木に腰をかけた。そのまま、会話するでもなく、何度か生木が爆ぜる音を聞いていた。
 いやいや。
 そうじゃないだろ。
 なぜだか悔しくなり、ティックは自分の膝を叩いて頭を抱えた。なんだ? なんで悔しいんだ? あの男の言うがままに座っているからか? そうだ、きっとそうだ。そもそもなんでこいつの言う通りに座っているんだ? あたしがこいつを使う予定だったのに。あんな、筋肉をひけらかして自分が強いと思い込んでいるような男に! あたしが!
 自分の頭を抱え込んでいた腕の間から、ティックは男をうかがった。太い足、括れた腰、分厚い胸板、棍棒みたいな腕、胸筋から競り上がってるみたいな首……どれもこれも、『人間は鍛えればこのくらいになりますよ』と表題した彫像のようである。何度も見たことのある、木偶と同じだった。
 若干違うところを敢えてあげるならば、すべてが完成しているというところだろうか。いや、全てで完成しているというべきだろうか。彼はただ、バランスが良いのである。特にどこかが秀でているわけでなく、劣っているわけでなく、完成されている。人によっては美しいと賞賛する筋肉なのであろうが、もしこの男が裸体でポーズをとろうものならば、吐いている。気味が悪く、気色も悪い。
 ティックは男から目を放し、焚き火に視線を向けた。生木が生む大量の煙りの中で、小さな炎が健気に踊っている。
 改めて見つめなおす必要もなかった。最初見た通り、この男は今まで見てきた中で最高だ。最高の筋肉野郎である。脚力だけで速さを決め、腕力だけで力を決めるような、糞野郎。相手の痛みもわからないクソッタレどもだ。
 だけど、そんな奴らばかりが取り立てられる。
 ティックは歯噛みした。
「あんたはさ、何になりたいの?」

 ティック ホィリの生まれた家は共和国内では指折りの、とまではいかなくとも、名の通った武家である。武人が兵士と名を変えて久しいが、それでも一族で武芸を研鑽し続ける家系は未だ武家と呼ばれ続けている。
 彼女はそんなホィリ宗家の初子であった。男でない。それだけで忌まれた赤子であった。その後、母親が子を生めない身体になったことも、原因の一つであろう。
 だからこそティックは気丈であった。なった、と言い換えても差し支えない。分家の嫡男ゾルが養子として来た時から、幼少時代は仲良く、成長するに遵って違いながら、切磋琢磨してきた。
 決定的な決裂に至るまでは。
 十四の時、彼女は父親に命じられた。成人を機に婚約せよ、と。
 父親が言うには、すでに婚約相手は決まっているそうで、ホィリ家よりも格上の武家だそうである。良い話、なのだそうだ。だからどうした、である。
 ティックは父親に条件を出した。正規軍人採用試験を通過すれば、この話はなかったことにして欲しいと。
 そして、三日間の試験を最終日まで残り、最後の模擬試合でゾルと対決することとなる。何打も当てたが、最後に殴られ、昏倒してしまった。試験にも落ちた。
「おかしいよ、あれ。絶対。あたしが一番優秀だったじゃない」
「それでも、最終的に勝てないようじゃ、武人とはいえないさ」
「あたしたちは兵士になろうとしてたんだよ? 命令に従い、最後まで生き残り、命を賭けて戦う。強い弱いだけが判断基準じゃないはずだよ」
「でも、それが最優先基準じゃないか、姉さん」
「ゾル、あんたね??こんなこと言いたくなかったけど、あたしは三度斬りつけてんのよ。足。右腕。それに頭。耐えたあんたもそりゃ凄いけど、もし木剣なんかじゃなくて真剣だったら、あんたの方が負けてたんだからね」
「??でも、勝ったのは僕だ」
「そうかしら。制限のある“死”がない偽物の戦いの中ででしょ? それとも、兵士に求められている強さっていうのは、そういう物を指すの?」
 ふいに立ち上がったゾルが、「じゃあ、決着をつけようか」というので、ティックは躊躇いもせずに頷いた。
 彼も、正規軍人採用試験の模擬試合を不満に思っていたから、そんなことを口にしたのであろう。実剣であれば、自分は死んでいるということがわかっていたから。無論、今までの仲違いも要因である。養子であることをあげつらい、年齢が下であることで良いように命令したり、もしかすれば、女の方が成長が早い時期に虐め過ぎたことも原因かもしれない。ともかく、ゾルにとってのティックは越えなければいけない壁であったことは確かである。
 そしてまたティックにとっても、運動した分着実に筋肉を纏う“男”という生き物であるゾルは、決して可愛い弟ではなかった。武家生まれである彼女の尊厳を奪う、危険な追跡者である。
 ゾルの挑戦を拒む理由など、ティックにはなかった。
 夜、二人は父親の倉庫から拝借した剣を手に、対峙した。
 実剣って、こんなに重かったっけ?
 訓練でも、実剣は何度か手にしている。木剣より重いことは知っていた。しかしながら、意識させられる程の重さではなかったはずだ。ティックは狼狽しながらも、切っ先を、比較的自然と地面に付けられる右脇構えをとった。
 ゾルはいつものように脇を閉め、両手を引き絞りながら切っ先を相手の喉元に向ける正眼に構える。実剣の重さは、彼の構えを変えるほどのものではないらしい。
 対峙したまま、時間が流れた。
 ゾルは、警戒してくれていた。研がれた刃物、ということが頑強な肉体を持つ彼にも恐怖を掻き立てる。それにティックにしては珍しい、右脇構えも気にかかっていたようだ。
 ティックはそんな彼の心情を読み透かしていた。だが、自ら打ち込むこともせず、隙を誘う動きもすることなく、ただただゾルの構えが崩れるのを待っていた。突き出した切っ先が重さに負け、いつか下がるその時を待っていた。
 つまるところ、二人とも、怯えていた。
 そのまま時が経ち、緊張の糸というものが撓んでも刃は交わらず、疲労ばかりが二人に蓄積されていく。機を機と悟れぬまま、互いを睨み合う。
 先に構えが崩れたのはティックであった。切っ先が地につくほど腰を落としていたため、剣ではなく自重を支えることができなくなり構えが崩れる。
 ゾルが打ち込んできた。大袈裟に振り上げられた剣は両断する勢いでティックに襲いかかる。彼女は踏ん張り、地に付けていた切っ先を使って全力で弧を描いた。
 二つの鉄が激しく打ち合わされ、けたたましく鳴り響いた。
 ゾルの身体は流れていた。剣同士の激突のためというより、己の疲労のために。
 ティックはすばやく剣を切り返そうとしたが、ビクともしない。目を向けると、地面に突き刺さっていた。手を放して攻撃しようなどとは念頭にもあがらず、抜くことに必死になる。何度も踏ん張る。
 体勢を立て直したゾルが乾いた声で笑っていた。絶対的な隙を作ってしまった自分が死んでいないこと。我が侭で、自分勝手で、それでも強さだけは一人前で、同年代で唯一自分に勝てるだろう姉が、地面に剣を刺してしまって身動きできないでいること。不様にも、剣を抜こうと歯を食いしばっていること。全てが信じられない、といった風に。
 ゾルが大袈裟に剣を振り上げていくと、自分の顔が引き攣っていくのがティクにもわかる。視界がぼやけるのは、涙のせいだということも。叫び上げているのに、柄から手を放していないことも。自分が壊れていることだけが、ただ、わからなかった。
「そんなに、僕が憎いの?」
 叫び散らしている内に何を言ったのかもわからない。もしかすれば、まだ戦おうとしているティックを見て、彼はそう呟いただけかもしれない。
 ただ確かなことは、ゾルが剣を振り下ろす間際にティックの剣が地面から抜けた、ということだ。埋もれていた刃はそのままゾルの首を切り落とし、弟の首は適当に転がった。

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