■ -disorder番外 枠と限界- ■

早稲 実

   2

 森の中。燻るくらいの小さな炎。総じて、悪い視界。
 そんなものが問題にならない程、切り株に腰を降ろしている男の反応は皆無であった。大量の煙りに巻かれながらも懸命に燃え続ける火を眺めているようで、その目はなにも見ず、何も追ってはいない。
 いや、いいからあたしを見なさいよ。
 話しかけられたなら相手を見るのが常識というものだろう。こちらを窺うでもない男の様子に焦れて、ティックは答えを待たずに本題を切り出した。
「もういいわよ。あたしはね、武人に成りたいの。誰よりも強く、高潔な武人にね。だからさ、ジャクメルまで行く道すがら、あんたと組んでもいいわ。独り旅じゃ何かと不便でしょ? ??それと、沈黙は賛成と見なすからね」
 まぁ、これでいいでしょ。と、ティックは丸太の上に横になるとする。森の中で、まだ苔に侵食されてない寝床を得られたのは僥倖であろう。ごつごつして固いが、下着が湿るよりはまし。まるで、ほんのついさっきまで立っていたかのように、残っている細かい枝葉を払い落として俯せになる。目を瞑る。
 眠りこそしないが、これでだいぶん身体を休められるはずだった。筋肉男に気を許したわけでこそないが、今までの様子を見る限り心配はないだろう。精神修行者か廃人である。仮に今までの振る舞いがこちらの油断を誘うための演技であろうと、筋肉をひけらかすような奴に遅れをとるつもりはなかった。
「なぜだ?」
 男が何かを呟いたのは、ティックが横になってからしばらく経ってからのことだった。辺りの様子に変化はない。太陽が昇ってきたわけでも、他の人間が現れたわけでもない。男だって身動きすらしていない。そのくらい、目を閉じていてもわかる。
 だからこそ、男の呟きは謎であった。気にかける必要があるのかないのか。とりあえず、ティックは無視した。
「なぜ、ジャクメルに行く」
 それはたぶん、あんたと同じ理由だよ。
 兵士の選抜試験に落ちて、行く当てもないから共和国を飛び出し、地方軍人になる。くだらん命令に従事し、軍のために個を捨てなきゃならない“兵士”という存在に嫌気がさしたからだよ。それに、なにより。
「あそこには、辺境雄がいるじゃないか」
 薄目を開けて答えると、男は相も変わらず焚き火を眺めていた。いや、微妙に違うか。男は本当に火を見ている。瞳が焦点を取り戻していた。
「あいつが、そんなに魅力的か」
 あいつ?
 辺境雄をあいつ呼ばわり。この男は、一体何様のつもりだろうか。とんでもない思い上がり野郎である。
 ティックは身体を起こした。ほとんど怒鳴り付ける勢いで語る。
「あんたね、東西貿易戦争を知らないの。あの人はその時の最大の功労者だし、現共和国の闘器基本戦術の基礎を作った人よ。辺境生まれは共和国軍属の中でも蔑まれる中、あの人だけは尊敬の念で崇められているわ」
「だから、女であっても認めてくれるかもしれない、と?」
「バカにしてるのか」
 ティックは懐に右手を入れながら、立ち上がった。こちらが攻撃の体勢をとっている事くらい、頭まで筋肉で出来てる奴でもわかるように睨み付ける。怒っているぞ、と伝えながら続ける。
「もういい。連れがいれば少しは旅も楽になるかと思ってたけど、もぉいい。やっぱり筋肉ばかり鍛えてるやつとは気が合わないわ」
 つまり、抜け、そう言っている。
 けれども男は剣もとらず、切り株から立ち上がろうともしない。ただ、首を回してこちらを真直ぐ見つめている。
「自殺志願者? 遺言でもあるなら聞いてあげるけど」
「劣等感から生まれる信念に身を委ねれば、幸せを見つける前に不幸を拾うぞ」
「知った風なことを! なら、あんたにわかるのか? 生まれた時から失望され、努力は児戯とされ、実力を認められなかった者の気持ちを」
「知るか。武人なら、強さを見せろ」
「見せてやろうじゃ??」
「? 伏せろ!」
 男の眼差しがようやく闘う者らしくなったかと思うと、彼はそう叫んでいた。あまりに突然で、その豹変に懐の手投剣を打ち損ねたところに、耳元で風鳴りがした。
 矢!
 ティックの耳元を通った矢は男に向かい、彼はその矢を雑作もなく素手で打ち払った。脇に置いていた、あの、巨大な鉈みたいな刀剣を掴んで立ち上がる。
「話は後にしよう。そっちは任せたぞ」
 男はティックになんの警戒も見せずに背中を向けて、森の暗闇に走り出した。
 その大きな背中に思わず投げたティックの手投剣は、外してしまったのか、避けられたのか、遥か遠くの闇の中で誰ともしれない男の悲鳴に変わる。
 きっと、あいつは戻ってくる。
 決着を後回しにして、ティックも回れ右をし、野党退治にむかった。

 言ってしまえば、不覚の一語に尽きる。
 森の暗闇、木立の陰に身を潜めている、ということが手にとるようにわかるような野党たちに、先手を許してしまったのだから。
 それも致し方なかろう。切り株に座っていたあの男、筋肉男のあのような言葉を聞いてしまっては。わざわざ逆鱗に触れてきて??弦が弾ける音がした。
 ティックは屈み、矢は頭上の空気を巻いて近くの高木に突き立った。最初の射手が矢を番え直したにしては早すぎる。少なくとも二人以上の射手がいると見て間違いないだろう。考え事をしている場合ではない。
 ティックは立ち止まり、それこそ素人剣士がするように周囲に警戒を振りまきながらゆっくりと進んだ。進んでみせた。野党たちが慌てて密集されると厄介であるためである。冷静に、姿を隠しながら、包囲網をせばめれば良い。
 目を瞑り、ほんの一時とはいえ視覚を捨て、耳に頼る。
 手話合図を使うのか、声はない。
 巻き番い方式か、鉄が擦りあわされる悲鳴が密やかに聞こえる。踏み込み番い方式を用いるよりは無難か……
 射手の近くで立ち位置を変えたか、苔が引き剥がされる音、潰される音。
……
 おそらくは、五人ほど。
 今、矢を放ってきた射手が左側前方にいて、付近に二人控えている。右の方に最初に撃ってきた射手がいる。こちらには補助が一人だけ。
 右手の方からのネジの泣き声が止んだ。矢を番え終えたということだろう。しかし放ってこないのは、視界が悪いためだろうか。
 ティックは目を開けて、右手を懐に潜らせた。距離からすると、二番刀。懐刀の一つを掴んだまま、月の木漏れ日が集うところにその身を晒した。射手には、背を向ける。
 弦が弾ける音がする。
 右足を軸に反転。二番刀を投げ付けた。
 虫が潰れたみたいな一瞬の悲鳴のあと、響きの悪い笛の音が続く。咽を貫いたらしい。
 今度は別方向から、引き延ばされていた弦が弾ける音がする。二回目の矢の射手の方角である。予想はついていた。距離はおおよそだが三番刀を選び、掴んで投げた。蟹を潰したような音だけが鈍く届く。ということは、骨を貫いて、悲鳴も上げられなかった??脳に達したか。
 大雑把にそう解釈し、ティックは最初の射手の方に向き直る。ニチャニチャと行儀の悪い咀嚼みたいな音を立てながら迫る一人の男は、手に持つ剣を振り上げていた。
 右手で剣を持っていれば、右足が前に来ている時は振ることができない。少なくとも、走りながらでは満足に斬ることができない。定石に従い、ティックは一歩退いてそうなるようし向けた。
「ほら」
 男が無理矢理振ってきた剣の柄元にティックは自らの剣をあてがい、全体重を乗せて弾き返すと、無茶な体勢であった野党はあっさりと尻餅を突いた。切っ先で咽を撫でてやると、慌てて自分の首を掴んでのたうち始める。地表に出てきたミミズみたいに暴れる彼に巻き込まれたくはないので、ティックは早々に跳んで距離をとった。
 以外と骨のある野党たちだ。
 ただの馬鹿、ではないという保証はどこにもないが、残り二人になっても戦意があるらしい。二人がかりならば、とでも思っているのかもしれない。確かにそれは厄介である。厄介ではあるが、しかし。
 ティックは木漏れ日の集うところから離れて、一定の距離を置いた。ちょうど二人の野党が駆けてくる方角とは正反対に。あの二人が、まっすぐに接近するならば必ずそこを通るように。
 距離に狂いはないことを確かめ、懐の一番刀を掴む。
 手投剣。つまるところは、中指程の刃渡りしかない、短剣としても短すぎる三本の投擲用刃物の事である。長さはどれも同じ位だが、形状が少しずつ異なり、各々が特定の距離に特化している。というのも、投針のように手首の捻りだけで投げるのでは、よほどの豪の者でもない限り到底骨まで貫けず、深手を与えることが出来たとしても致命傷には遠く及ばない。それに対してホィリ家秘伝の手投剣は、着刺時をあらかじめ限定することで骨をも断つ。ゆっくりと回転(正確には、縦に振った刀身が刺さる瞬間に横になる、四分の一回転)しながら飛び、刺さる瞬間に遠心力と短剣の重みが集中し、皮膚を裂き、骨を砕くという仕組みになっている。
 反面、極度の集中力と距離感を要する。投げる技術と、着く技術が必要なためである。制止している射手を狙うには無視覚でも可能であろうが、今度の対象は動いている。ティックは明かりを求めた。
 すでに一番刀は構えてある。右腕を耳に付くくらいピンと伸ばし、軽く肘を撓ませている。投擲法は色々とあるが、ここ一番の精密射撃ならば基本が一番である。その姿勢のまま、ティックは暗がりから満月の木漏れ日が集うところに駆けて来る野党二人を待った。
 足。太もも。胴体、頭と、順に明るみに出てくる。想像通りの失敗面目がけ、一番刀を投げ付けた。額が割れた男の変わりに、隣の男が悲鳴をあげる。逃げるか逃げないかの逡巡が、手に持つ剣に伝わったのか、本人が動いてもいないのに切っ先が彷徨う。結局、最後の野党は背中を向けた。
 もう、追い付いている。
 地面を蹴って跳ね上がった足を横薙ぎに斬り付けた。色こそ窺えないが、野党の足の先から吹き出たものは血であろう。野党はそれでも逃げようというのか、血が吹き出した足を地面に付けたが、そこで叫びながら前のめりに倒れた。つま先がないのだから、自明の理というやつである。
 刃が痛まないよう、最後は剣の峰で頭蓋を砕いた。

 ろくに日の当たらないこの森の苔のように、その男の後頭部は、陥没した部分から髪の毛に湿り気を与えていく。内部では潰された血管から溢れた血液が溢れ出しているのだろうが、破られてはいない皮膚にじっくりと浸透し、徐々に外へと押し出されている。
 これが、今の自分の強さだった。
 ティックは鈍い手応えの残る右手を眺めた。生命線は短い。手相としては、人に自慢できる程のものではなかった。
 だが、この手から放たれる手投剣が彼我の筋力差を打ち消し、数を消して、距離を消す。野党の群れを一掃し、口の聞き方を知らない兵士を屠り、自分を認めない役人に恐怖を与えたこともあった。圧倒的な力である。女でさえなければ、もう日の当たる所にいて良いはずなのに。刃毀れを気にして戦う必要だってないはずなのに。剣だって、幾らでも買える。
 左手で握った、剣を眺める。暗がりで細部まで見渡せるわけでもないが、形状は見知っていた。緩く彎曲した、片刃の剣。一般的な長剣ほどの長さはないが、柄は両手で持ってもゆとりある造りになっている。“引き”を意識すれば、切れ味は抜群である。ゾルと戦う際に適当に掴んだ剣であったが、思いのほか長い付き合いになったものだ。
 ティックは手近な高木を、剣の峰で何度か打ちつけた。今日は、一度とはいえ野党の突進を正面から受け止めてしまった。曲がっているだろう。それを適当に戻していた。だが、今まで何度も行っているとはいえ、暗がりでは上手く行くはずもない。鞘に戻そうとしたが、わずかに抵抗を感じる。いざ、という時に抜けないというのは馬鹿げているし、あの筋肉男との決着だってある。
 生きていれば、の話ではあるが。
 ティックは剣を剥き身のまま、左手に携えて手投剣の回収に移った。一番近いのは三番刀であろう。木漏れ日の集うところで使った一番刀の方が見つけやすいかもしれないが、どうせ焚き火まで戻るのだから、三番、一番、二番刀と回収するのが手間がなかった。
 歩きながら思うのは、ゾルのこと。殺し合いの後は、いつもである。血も繋がらないが、自分よりも期待されているという因果な彼ではない。初めて殺した相手であるという理由から。名も知らぬ相手であればさして思い出すこともなかったのかもしれないが、あの時の感触はいまだに身体が覚えている。地面に刺さった剣が抜けなかった焦燥、振り上げられていくゾルの剣に覚えた恐怖、そして彼の、あの言葉。
『そんなに、僕が憎いの?』
 過ぎてしまったことを後悔するのは馬鹿らしいが、きっと、あの時自分が命乞いをすれば、ゾルは剣を振らなかったであろう。
 憎んではいなかった。
 嫌いではなかった。
 ただ、悔しかっただけだから。
 自分がホィリ家を継ぐことができない。見知らぬ誰かの嫁にならねばならない。優秀でも兵士にはなれない。女だから。女なのに。女のくせに。
 どこに行ってもそうした枠に括られ、自分自身が認められたことがない。苛立ち、腹立ち、やりきれない。そんな所にいてくれたのが、ゾルだった。
 殺すつもりはなかった。圧勝できるはずであった。首筋に剣を押し当てて、彼がまいったといえば、自分は全てに諦めをつけて嫁に行けたことだろう。まだまだ、どんどん強くなるはずだったゾルが、一度でも完全な形で自分を認めてくれたならば。
 全ては子供の幻想であった、ということなのだろう。
 知らなかったのだ。剣は重く、命は軽い、ということを。強さを競った果てには、二日後に腐臭が漂うだけの結果が残るだけだった。益体もない。
 ゾルとは、そんな強さすら、競ったとはいえない戦いだった。偶然勝って、偶然ゾルが死んだ。そして自分は家から追い出され、そのどさくさに紛れて盗み出した手投剣が、唯一残ったホィリ家だった。
 放浪の旅の最中、風の便りで父が死んだことを聞いた。ホィリ家は本当の意味で自分の中から姿を消してしまった。
 強さってなんだろう。
 時々考えるようになった疑問には、それなりに答えが出ている。自分の命、帰る所、大事な物を守るために必要なものだと思う。どんな形の強さでも良いのだろうが、自分の持っている強さは、今握り締めている剣しかないと思う。
 その強さを振るうために、自分が新たなホィリ家を興す。そのためにあたしはジャクメルに向かう。辺境雄ならば、女である自分でも認めてくれるだろう。自信は、ある。
 考え事をしながら暗がりを歩いていたが、方角は間違えていないようである。ティックの視界に、ホィリ家の形見が見えた。
 死体の額に刺さる、三番刀が。

「ハハぁ、良く避けられたものだな」
 その男は、転がりながら距離をとったティックにそう語りかけた。
 何のことはない。ただの偶然である。暗い森の中、考え事をしながら歩いていたら目的の物を見つけ、歩調を速めた所に木の根が這い出していた。それだけの、ただの偶然であった。剣風に寒くなるうなじに怯え、もつれた足のまま転がっただけである。前髪にへばりつくにコケにも、今は感謝を述べたいくらいだ。
 立ち上がる瞬間に、男は地面を蹴った。一足飛びで斬りかかってくる。他の野党に比べて、振りに隙がなく、ティック自身は屈み込んでいる状態である。逃げようがなく、切っ先の峰に右手を添え、両手で辛うじて受け止める。
 拮抗した。とはいえ、圧倒的に劣勢である。身動きがとれない。力負けしている。ずるずると、男は剣の角度を下げてくる。こちらの剣の腹に乗せるように力を込めてくる。この男の剣が地面と水平になれば、自分は突き殺される。
 ティックは、切っ先に添えていた右手の力を抜き、身体を起こしながら柄を持つ左手を押し上げた。相手の剣はこちらの剣の上を滑り、地面に落ちる。跳んで、ティックは再び距離をとった。彼女が居た地面は、男の剣が苔の絨毯に線を描いていた。立ち上がって反撃しょうものなら、斬られていただろう。
 強い。
 剣を利き手の右に持ち直して、改めて両腕で掴み直す。対峙する男はこちらよりやや短い片手剣であった。中身痩躯といった体だが、長い乱れ髪の中で喜々と輝く瞳は威圧的である。薄い唇を開いて口腔を露出している辺りが人格を窺わせた。ふいに思い出したのは、残り二人になったというのに無謀にも駆け寄ってきた二人の野党である。おそらく、この男が近くで命令したのだろう。『死んでも斬ってこい』とかいって。
 イカレタ頭を持つと苦労する。
「ヒャッヒャッヒャ。女のくせに、楽しませてくれるもんだな。いいぜぇ、いい。オレは好きだぜぇ?強い女ってのはよぉ」
 好かれたくない。そんなこちらの思惑を察してか、野党の頭は続ける。
「そう、それだぁ。その顔。オレを見下すその顔ぉ?! たまらねぇなぁ。そんでもってよ、その顔が苦痛に歪む時なんか、サイッコーなんだよなー……うっ。イっちまいそうだ」
 一人で喋りながら、野党の頭は自分の股間を掴む。そのまま前屈みになっていく。バカだ。
 ティックは踏み込んだ。大上段に振りかぶりながら。斬りかか――
 前屈みになっていた野党の頭が、少しだけ、踏み出した。
 斬!
 斬られていた。いや、慌てて上体を逸らしたので避けることはできたが、もしも自分が斬りかかっていたならば、確実に胴体を裂かれていた。
「いいねぇ。そのカオ。ぞくぞくしちまぅ」
 横薙ぎの姿勢のまま顔だけ上げて、野党の頭は笑う。連撃に繋げもせず、そのまま構えも解いて立ち上がっていった。まだ左手で股間を掴んでいた。その手を蠢かせてから口に運び、舐めている。赤ん坊が母親の指をそうするようにしゃぶり、嬉しそうに笑っていた。
 斬り付けられる距離にいたのにも関わらず、その仕種にティックは距離をとってしまう。野党の頭の斬撃もさる事ながら、それ以上の何かが寒気を伝える。
 それでも、ティックは剣を握り締めた。
 負けない。
 負けたくない。
 こんな奴に。
「そうだよぉ?。そうでなくちゃ。油断なんかで負けたなんて思ってもらっちゃ、面白くないよねぇ?。そう。集中して、全力を出して、ただの野党のこんな奴に、きみは、完膚ないくらいズタズタにグチャグチャやられなきゃいけないんだぁよ」
 心でも読めるのか? いや、そんなわけがない。おそらくこいつは、今までも何度も、武芸者を襲っては、正面から正々堂々打ち倒し、人々の苦痛を眺めてきたのだろう。こんな奴に、こんな奴に。悔やみの怨嗟を吐き出す人々が野党の頭の背後に見えるようである。
 首を振り、柄を握り直し、肝を据えて相手を見る。
 この男は、かつてない程の強敵である。
 ティックは自分に言い聞かせて、野党の頭を見つめ直す。
 隙はないか。
 油断はないか。
 打ち込めないか。
 肚を据えて正面から観察しているうちに、ある一つのことに気がついた。
 野党の頭はニタニタ笑いながら、小便を漏らしているということであった。

 盗賊の頭と、両刃の剣。
 女である自分と、片刃の剣。
 この近距離で、これだけ集中して、向き合えば。詰まる所はそれだけである。
 暗さも森も、関係ない。時間も状態も関係ない。
 彼我の空間であった。
 どちらも、腕を伸ばせば切っ先が届く距離であり、踏み込めば切りつけられる領域に入っている。野党の頭の笑みは消えていた。
 ただ面白そうに、瞳だけが輝いていた。
 ティックは踏み込んで、突きを放った。
 ただ速く、鋭く、強く。
 両刃の剣は下方から振り上がり、こちらの片刃の腹を叩く。
 全体重が乗った刺突である。女の力とはいえ、片手の剣では弾けるものではなかった。
 それを見て判断したのではないだろう。そうであれば、間に合うはずもない。
 野党の頭は体を捌いていた。若干ずれた刃の軌跡が、彼の左肩を掠める。
 それだけだった。
 野党の頭は動きを止めず、地面と水平に突き出したこちらの剣に自らの剣を絡め、引き込む。
 ティックの身体が前のめりになる。視界の左側に野党の頭が映る。
 回り込まれる。というより一方的に背中を見せるハメとなり、斬られる。
 脳裏に過るのは、そんな筋書きだった。
「ぬぁあ!」
 ティックは前へ前へと、自重と慣性によって流れる身体で無理矢理左足を伸ばし、野党の足に当てた。絡めることはできなかったが、刈った。平衡を欠いた手応え、もとい、足応えを感じた。
 前のめりになった身体を踏み留めて向き直る時間は稼げた。あわよくば、それで転んでいてくれれば良いのに。
 そう願いながら、向き直る。
 野党の顔が間近にあった。開いた口が、噛み付くようで??
 押し倒された。背中に生暖かい苔のぬるりとした感触と、木の根の固い感触が当たる。野党はバランスを崩したまま、倒れ込んできたようだ。その際にこちらの剣が誤って刺さる、事故死的結末もあり得ただろうに。
 野党の頭は、それこそ狂人的であった。両刃と片刃が組合ながら、こちらを押しつぶそうと力を込めてくる。それこそ噛み付こうというのか、首を一度逸らして、振り降ろしてくる。
 頭突きだった。
 一瞬真っ白になり、全てが終わったかのように錯覚したが、苦しくも辛くも痛くもない。ただ、腕の筋肉だけが悲鳴を上げていた。目を開けると、鎬の削り合が続いていた。
 鼻をやられたようだ。とっくに口呼吸であるが、時々入ってくる鼻血が呼吸をさまたげる。力が足りない。腕を上げていられない。肘が地面に落ちた。それを支えにして、両刃の剣に拮抗する。片刃がもう喉元まで押し戻されている。峰が時々喉に当たる。野党の頭の顔が近い。強姦者が接吻を強いるような顔付きで、こちらの鼻血を舐める。嫌悪感。悪寒。背筋を伝って鼓動を早めていく。呼吸が苦しい。地面に減り込んでいく肘が痛い。ただ、もう、辛い。
 けど、負けたくない。
 叫び上げた。
「ああああああああああああああああああああああ!!!」
 肺の空気が尽きるまで叫び上げたが、何が変わるわけでもない。筋肉が突然盛り上がるわけでもない。荒い、というより、すでに呼吸が上手くできない。音の鳴らない笛みたいな咳ばかりが出る。頭が痛い。遠くの方で、大鎚で丸太を叩いたような音がした。幻聴まで聞こえてくる始末。手を緩めれば、楽になれるんだろうけど、身体がいうことを聞かない。闘いたい、というより、死にたくない。まだ粘るのか? まだ粘れるのか? そんな力がいったいどこにあったのだろう??何のことはない。野党の頭が笑っていた。
 野党の頭が手加減して、こちらが憤慨するなり絶望するなりの反応を待っていることに気付いた時、不思議な現象が起きた。
 倒木だ。
 野党の頭が顔を上げ、怪訝な目つきで森の天上を眺めた。生木が折れ、裂け、近づいてくるのが音で知れる。
 とうとう野党の頭が両刃の剣を引いて、こちらから離れた。
 ティックも慌てて反対側に退避する。直後に倒木が振ってきた。
 そんな物に構ってはいられなかった。ティックはまだ寝転んだまま呼吸を整え、溢れ出る鼻血を拭い、それでも止まらないので立ち上がる。
 体力そのものは、まだある。野党は近くにいない。鼻の片穴に親指を押し当て、逆側を勢い良く吹く。反対側も同じようにする。止まらないが、気道は安定した。
 口呼吸で、肩で息をしながら、辺りを見回す。
 あった。
 ホィリ家の家門が入った三番刀が。
 これさえあれば。
 ティックは振ってきた倒木を眺めた。樹齢など計る術は知らないが、まだ年老いた木だとは思えなかった。倒れてなお、枝振りも良い。ともあれ、この倒木には感謝の言葉もない。命を救ってもらったのだから。
 その拾った命を持ち逃げすることもできようが、ティックは左手に片刃の剣を持ちなおし、右手に二番刀を携えて、その倒木を乗り越えた。
 遠くない所で、地面を蹴る音がする。走り回っているのとは違う。一瞬蹴って、止まる。少し歩いて、また地面を蹴る。剣檄が聞こえた。
 誰かと誰かが争っている。十中八九、片方は野党の頭であろう。
 月の木漏れ日が差し込んでいた。
 現場は、この茂みを抜けた先であろう。
 掻き分けて進んでいる最中、再び剣と剣がぶつかり合う音がする。
 茂みを抜けると、肉を叩き斬った生々しい湿った音がする。
 青白い月明かりが集うその場所に立っていたのは、あの筋肉男であった。
 二つに分かれた肉の塊を繋ぐ腸を、その男の掴む大鉈が垂らしていた。

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