■ -disorder番外 枠と限界- ■

早稲 実

   3

 かろうじて。新たに薪を焼べられるわけでもなく燃えていた焚き火の小さな炎は、そう表現するのが適切であった。かろうじて、燃えている。
 残されていた一番刀、二番刀の回収を終えて戻ってきたティックの目に入ったのは、その頼りない明かりである。何のことはない。明かりを目印に戻ってきたから、そのような結果になっただけ。
 一足先に戻っていた筋肉男は、相も変わらず切り株に腰を降ろしたまま、焚き火を眺めながら、何も見ていなかった。こちらに反応するでもなく、時折目を瞑り、開く。そんな事を繰り返していた。
「休んだらどうだ?」
 立ち尽くしていたティックに、筋肉男が呟いた。
「まだ、一本回収してないんだよ」
 ティックが視線を外して歩き出そうとすると、筋肉男が一振りの小刀を取り出した。
「これのことか?」
 間違いなく、最初に男に投げた四番刀であった。それを拾う暇があるならば、早く助けに来て欲しかった。そんな怒りが沸き上がるのが可笑しかった。今日知り合ったばかりの他人に命を救ってもらっただけでも御の字だというのに、不満を抱いている。強さを求めて剣の道を選んだ自分が、助けが遅いと憤慨する。
 妙な話だった。
 その妙に気付かずに飛びかかる気力がないことを、少なからず感謝した。
 女を捨てて、弟を殺して選んだ剣の道である。身に付けてきた技こそが、自分の生きてきた証だった。誇りだった。それを捨てないで済んだ。
 捨て損なった誇りを持ち続けるためならば、武人の端くれとして、憤りを看過して礼くらい言わねば。ティックは筋肉男の座る切り株の隣、切り倒されていた倒木に腰を降ろしてから口を開いた。
「……ありがとう」
「気にするな。探したわけじゃない。戻りがけに拾っただけだ」
 筋肉男は押し付けるように、四番刀を渡してきた。
 そっちのことじゃねぇ。
 だが、重ねて礼を述べるつもりにもなれなかった。四番刀を受け取り、他の剣もそうしたように、血だけ拭って懐にしまう。
「面白い武器を持っているんだな」
 この発言は意外だった。
 というより、筋肉男が自分から話題を作るとは思っていなかった。
「投擲用の短剣かと思っていたが、何度か振ってみてもどうにも妙だ。重心の位置がおかしい。回ってしまう。短剣としては短すぎるし、ナイフとしては切れ味に欠ける」
「回すんだよ。着刺時に全ての力が働くように」
「ほぅ。それはまた、難儀な玩具だな」
 焚き火は燃え続けて生木を燃やし、火勢を超える煙りを吐き出し続けていた。森は暗く、夜は深く、獣の声も聞こえない。ただ蝕まれる生木だけが、時々悲鳴のように爆ぜていた。もう、この辺りは平穏だ。
「おまえは嫌いだ」
 ティックは、それだけ呟いて、眠ることにする。
 手投剣を玩具と言うことも、助けが遅かったことも、筋肉ダルマであることも、全て総じて嫌だった。けれど、この男の近くは安全だった。

「おい。いいかげんに起きたらどうだ」
 筋肉男の声に目を開くと、朝はすでに過ぎ去っていた。日の光が森の天上を貫き、真上から差し込んできていた。まったく、太陽というやつは。月明かりと違って遠慮というものを知らない。目覚めた直後に強い光を浴びた時の、痛みともいえない鋭い刺激に軽く毒づき、何度か瞬きを繰り返してからティックは身体を起こした。大きな伸びをする。
「おはよ……」
 朝はとうに過ぎているが、だからといって爽快であるとは限らない。寝起きというものは眠いものだ。ティックは持ち上がらない尻を倒木に乗せたまま、とりあえず挨拶だけはしておいた。顔をあげることすら、億劫で。
「いいから抜け。早く終わらせよう」
 筋肉男が何を言っているのか、良くわからなかった。欠伸を噛み殺しながら見上げると、巨大な鉈がこちらに向けられている。
「……え?」
「なぜ、切っ先を向けられて呆けた顔をしていられる。死にたいのか?」
 突き出されたので、飛び退いた。それは、詰まるところ脅しでしかなく、仮に動かなくとも大鉈は首の皮で止まっていたようであったが。ティックは剣の柄に手をかけた。
「何のつもりだ!」
 男の表情に変化はない。眼前の敵を睨み付けているわけでもなく、冗談に笑いを堪えているでもなく。ただ、こちらを眺めていた。突き出していた大鉈を肩に担ぎ直して、口を開く。
「おまえはジャクメルに行くんだろう? 俺は共和国へ向かう。明るい内に森を抜けたいからな。早く決着をつけようじゃないか」
 なんの頓着もなく言い放つ。何を言っているのか。何を考えているのか。これだから筋肉馬鹿は好きになれない。
「いったい何の決着だ。闘う理由があるのか」
「理由? ……女だてらに武人になりたいなんて言うから興味を持っただけだが? おかしな奴だな。昨日は協闘しようって言った直後に刃物を投げ付けた奴が」
「いや、あれは悪かったけど……何も、そんな理由で」
「何も殺し合いをしようってんじゃねぇんだ。闘うのに互いが納得できるだけの理由がいるか?」
 殺し合いじゃないって……死にたいのかとか言ってたくせに。
 男は跳びかかってきた。べらぼうに速い。遅れて振られた大鉈を、身を転がしてなんとか避けた。
「何をするんだよ!」
 男は地面に大鉈を減り込ませたまま、自分の頭を荒々しくかき乱した。苛々している?
「煮え切らない奴だな。本当に死にたいのか? それとも自分にも理由が必要なのか? なら、俺は、その、あれだ。ジャクメルの武人だ」
 何を言ってる?
「いや、武人だった。手合わせしておいて損はないだろ。じゃ、いくぞ」
 男は言うに合わせ、踏み込んで横薙ぎを放つ。こちらの首の高さ。くぐれる。
 抜けた。剣を抜かず、鞘を突き出して鳩尾を狙った。
 男の鳩尾にこちらの柄が当たる瞬間、すり抜けた。どう動いたのか。あれだけの巨体が消えるように移動した。
 後ろから顎を掴まれた。そのまま、彼がその太い腕で締め上げれば、こちらの首など折れてしまうだろう。背中に、彼の厚い胸板が当たっている。
 殺される。そう感じているのが、どこか空々しい。戦慄に竦んでいる身体なのに、寒気以上に熱い鼓動を感じる。恥ずかしさにも似た感情がある。
 首を捻り上げられた。背後の、高い所にある彼の顔が、そこにある。
「なぜ、抜かない。余裕のつもりなら、お門違いだ」
 ちょうど、木漏れ日から降り注ぐ光が逆光になり、こちらを見下ろす彼の表情は見えなかった。たぶん、変化なんかない。相も変わらず筋肉ダルマに相応しいごつい輪郭に、あの仏頂面を乗せているだけなんだろう。ただ、目だけが違った。釣り上がった、猛禽類を連想させる鋭い目付きが寒波となってこちらに吹き付ける。怒って、る?
「そ、それは、あたしの剣は、一度使うとさ、反りが強くなるんだ。完全に修復するまでは、抜剣術は使えなくて。だから、別にさ、手を抜いてるわけじゃなくて」
 彼は鼻を鳴らすと、顎から手を放してしまった。体重を預けてもビクともしない厚い胸板も、背中から離れていく。振り返っても、彼は背を向けていた。
「ごめんって。ほら、ちゃんと抜いたからさ。仕切り直そ。ね?」
 ぎこちなく鞘から剣が抜け出る音は聞こえただろうが、彼は振り向こうともしない。大鉈もすでに、腰の後ろにある皮鞘に括りつてしまっている。歩みすら、止めない。
「剣が抜けないなら、先に抜いておけ。心構えがなってねぇ。どんなに良い得物も、使いこなせなけりゃただの玩具だろうが」
 剣のこと? 手投剣のこと? 判然としないが、自分のもっとも得意とするものは後者である。
「わかったよ。手投剣も使う。気をつけなよ。これは手加減できないからね」
「まぁ、体捌きは大したもんだ。避けた上で反撃できる奴はそんなにいねぇからな。女でも下級の武人くらいにはなれるだろ」
 無視された。一撃必殺の手投剣に見向きもしない。なんだ? 何を考えているんだ。この筋肉馬鹿は。今からこれを投げるだけで、あんたなんか簡単に殺せるんだぞ。
 ティックは踏み出して、声を張り上げた。
「なんだよ。ちょっとくらいこっちを向けよ。あたしに興味があるんじゃなかったのかよ」
「失せたんだよ」
 立ち止まった彼が、こちらを向いてそれだけ呟いた。顔に表情はなく、視線に焦点はなく。向いてこそいるが、ここにいる一人の女を見てはいない。「じゃあな」とだけ言って、手も振らずにまた歩き出す。
「…………だよ」
  口を突いて出た台詞は、半分以上言葉になっていなかった。ティック自身も何を口走ってるのかわからない。けれど、離れていく彼の背中が辛い。彼がいったい何であるのか、自分にとって益なのか厄なのか判然としない。自分がなぜ、これほどまでに彼を引き止めたいのかわからない。ただ一つ、確かであるのは、昨日は驚く程熟睡出来たということである。家を出て以来、疲れていても眠らず、宿でも怯えていた夜ばかりだったというのに。
 安心して眠れる所が、去っていく。
「待ちなさいよ!」
 恐怖でもなく、不安でもないものに突き動かされ、ティックは手投剣を投げていた。
 最長距離を誇る四番刀。狙いは肩。削るだけでいい。それで足を止めてくれるなら。
 男は難なく避けていた。狙われた右肩の反対、左足に軸をずらして翻るだけで。目元が鋭くなっている。コンドルの瞳で、こちらを睨み付けている。
「声を上げるのはどうかと思うが、良い目になったな」
 こちらを、見てくれている。
「なんだ? 笑っているのか」
 彼も、笑ってくれた。

「行くぞ」
 彼はその掛け声とともに走り出した。三歩分ほど踏み込んできた先程の動きとは違い、優しく地面を撫でるように駆けてくる。
 ティックは三番刀と二番刀を続けざまに放った。緩急をつけて、二刀ができる限り連続するように。彼は三番刀を打ち払い、二番刀を軸足の捻りから発生する体捌きで避けた。
 あれだ。
 おそらくはあれが、先程の接触時に見せた、驚異的な移動方だろう。横に跳んだのならば、わざわざ後ろからこちらの顎を掴む必要はない。こちらの側面で背中を見せるように回り込み、背中をとったのだろう。
 彼の旋回は止まらなかった。回転しながら大きく踏み込み、もう一度その足で旋回、さらに背中を見せながら飛んでくる。演舞のような接近だ。
 一番刀を抜く暇はなかった。左手にぶら下げていた片刃の剣に右手を逆手にしたまま掴み、突き出す。彼は、身を捻りながら大鉈を振るった。
 彼がこちらの首を狙えば、相打ちだっただろう。
 彼はこちらの突き出した剣を打ち払った。片刃の剣は正面から右へ弾かれ、遠くに落ちた。逆手に握っていた右手ごと持っていかれた。すんでのところで放すことができた左手は、急いで懐の一番刀を握る。
 彼が着地したのはこちらの足下だった。その着地したての左足がなおも回る。彼の大きな肉体が左側へと消えていく。二度の軸足旋回、大鉈の遠心力、落下の勢い。それら全てが速さとなって駆け抜けていく。
 一度見ていなければ、理解できなかった。目で追うことすらできない。けれど、どこにいるのかはわかっていた。
 背後。
 彼の太い右腕で首を押さえられるのと、ティックが一番刀を背後に向けたのは同時であった。彼の左脇腹の下方から心臓を刺せる位置である。
「そうだ。武器はそこらの道具とは違う。自らを高め、より強い存在にしてくれる師匠だ。枠に捕らわれず、いつまでも研鑽を続けろ」
「……違うよ。ただ、投げるのが間に合わなかっただけだよ」
「それでも、蒙が啓けたろ」
 近い。
 熱くなった彼の身体が触れている。硬い胸板が背中に押し付けられている。犬に舐められた後みたいな匂いがする。闘器みたいな、無骨な腕が巻き付いている。これに力を入れられるだけで、首が折れるのだろう。
「女にしては、大したものだ。ジャクメルに行っても修練を怠るなよ」
  腕が離れていく。少しだけ、皮膚が破れるくらいだけ、一番刀を背後に突き出した。
「動かないで!」
 一瞬首を締め付けた腕が、緩まる。咽せた。呼吸が落ち着くのを待って、彼が当たり前すぎることを訪ねてくる。
「何がしたい」
「一つだけ聞かせて。なんで、あたしを助けてくれたの?」
「……一通り野党の始末を終えてもまだおまえが戻ってなかった。そしたら悲鳴だか気合いだか知らんが、女の叫び声が聞こえた。暗がりで大声を上げるのは自分の位置を知らせることにしかならない。そんな愚策を行ってしまうほど敵が強いというなら、俺が倒そうと思った。
 だから手近な木を斬っただけだ。狙ったとはいえ、上手くおまえの傍に倒れて、野党と引き離せたのはただの偶然だ」
「そうじゃなくて、どうやったかとかじゃなくて、さ。なんで、あたしを助けてくれたのか、教えてよ。だってそうでしょ。あたしはあなたと敵対した。あまつさえ、一緒に闘うために背中を向けたあなたに攻撃した。そんなあたしを、どうして助けようと思ったの。あなたは共和国に向かうんでしょ? ジャクメルに向かうあたしじゃ、旅の供にもならない。要もない、益体もない。そんなあたしを何で助けたの? 身体が目当て!?」
 彼はしばらく黙っていた。困っているようでもあり、考えているようでもあり。しばらく沈黙した後に、呟いた。
「おまえの投げたあの短剣が珍しくて、その、なんだ……使い方が見たかった」
 それを聞いて、ちょっと笑えた。
 だけど、瞳が滲んだ。
「もう一つだけさ、お願いしてもいい?」
「なんだよ」
「もう少しだけさ、このままで、さ」
 それ以上は言葉にならず、泣きだしてしまった。
「女が!」
 そう吐き捨てた彼だが、ティックが彼の腕を両手で抱えても、何も言わずに首を抱いていてくれた。
 握っていた一番刀は、刃を地面に潜らせた。

 鬱蒼、と表現するには物足りない森である。
 高木が広げる手の平は幾重にも重なるが、日射しが間隙を縫って地表に降り注ぐ。苔の絨毯の中からも、時折草本が見え隠れしている。
 焚き火の残骸を前にして、二つの人影が腰を降ろしていた。
 一人は男。筋肉質を通り越し、筋肉の塊を人の形に練り直した程の肉量のある男であった。腰の背部には大きな皮鞘があり、自重の半分はありそうな大鉈を背負っている。
 一人は女。若さからくる張りの良い肌に鍛練からくる締まりを混ぜた、女性の丸みからは逸脱した女であった。側腰の鞘には剣がなく、今はただ、ようやく泣き止んだ幼子がそうするように、嗚咽を繰り返している。
「治まったか?」
 男が訪ねると、女は黙って首を縦に振った。
 またしばらく、無言が続く。しゃくり上げる声と、風と、時折燃えのこった薪が崩れて音を奏でた。鳥のさえずりは、遠い。
「聞いていい?」
「なんだ」
「あたしは、女だから負けたのかな?」
 男は手の平を自分の頭に添えて、しばらく掻いた。フケとコケが落ちた。手を降ろすと、男は森の天上を仰いだ。
「大きな要因だろうな。女は、どんなに頑張っても男より力が弱い。それで俺は、力がそこらのやつより強い」
 女は顔を上げ、男に振り向いた。
「やっぱり、女が武人になるなんて無理なのかな」
 男が女に顔を向ける。
「なんで?」
「だって、どんなに頑張っても負けるんじゃ、意味がないよ。負けるために修練を続けるなんて、馬鹿げてるよ」
「そりゃ、馬鹿げてるな」
「だよね??」
「おまえがな」
「?」
「なんで力で劣っていれば勝てないって思うんだ? 女の身体で男の身体に勝とうとするのは無理な話が、闘いは、肉体のぶつけ合いだけか?」
 女は鈍い反応を見せ、「あっ??」と声を漏らしてから自分の右手を見つめた。そこに握られている、土の付いた小さな刃に。
「そうだ。技も、武器も、初めは弱い者が強い者に勝つために生まれてきたものだ。おまえは今まで、誰かの作ったそれらの力を借りていただけに過ぎない。おまえが弱いなら、それでも勝つための何かを手に入れればいい」
 男は立ち上がった。後を追うようにして、女も立ち上がる。
「授業はここまでだ。基本から練り直すんだな」
 男はそのまま歩き出し、立ち去ろうとした。
「待って」
 切迫した悲鳴に男が足をとめる。
「名前だけ聞かせてよ。あたしは、ティック ホィリ」
「クレオ。それじゃぁな」
 男はもう立ち止まらず、高い樹木ばかりの森を真直ぐ歩いていく。
 女はその背中が見えなくなるまで見送り、俯いた。しばらくしてから顔を上げて、薪の傍で地面に刺さる、片方にだけ刃のついた剣の柄に手をかける。
「連れていってくれるわけ、ないものね」
 引き抜いた剣は刃毀れに血や土と、汚れは酷いものであったが、草葉を抜けた木漏れ日の中で確かに強く、輝いた。