■ コンクリート ■
早稲 実
大きな悲鳴はすぐさま収まった。喧嘩鳴きする直前の猫の唸り声みたいな、妙な呼吸音だけが闇の中に漂っている。
浜崎はいったん音源を無視し、極力無音に心がけながら、電源を探した。目を瞑っても2号棟内なら歩き回れる。暗中模索とはいえ、ほどなくスイッチをオンにする。
ジ ジジ……
年老いた蛍光灯がオレンジに色づき、二、三明滅してから白色で辺りを照らす。
そして、2号棟の中央に浮かび上がらせる。少年と、少年が吊り上げる溝口の姿を。
首を捕まれ、右手一本で宙吊りにされている溝口がいる。顔中の血管を浮き上がらせ、眼球を張り詰めさせ、顎を落として、唸り、うめく。高潮しながら、必死に少年の手を振り解こうと両腕を動かしている。自由な足で少年を蹴りつけることすら思い当たらないのか、ただひたすら、自分の喉ごと少年の手を掻き毟っている。水溜りには程遠いが服を染めるには充分な、赤い流れが幾筋も垂れている。
予想を越えた凄惨な事態にたじろいだ浜崎に、少年が首を向けた。眼が、蛍光灯を反射して、鈍く輝いている。
浜崎は夢中で駆けより、飛んだ。この足場なら走るより早い。蹴り。
少年は動じもせずに、ボールでも投げるように溝口を投げつけてきた。受け止めようとして、空中で無理に体勢を変えたため、浜崎は受身も取れぬまま落下した。
ダメージは否めない。しかし、動けなくなるような怪我もない。
自らの状況を早々に確かめ、次いで溝口の状況を見やる。呼吸はある。意識はないが、脈もある。血も、思ったほどは出ていない。首の傷も、それほど大したものではなかった。
「彼がいけないんだよ。警棒なんかで僕をなぐるから、こうなるんだ」
少年は節目がちに言葉を紡いでいた。責任を転嫁する言い回しだった。かかっている責任にしても、自身の負い目というより溝口に対する憐憫のようである。
感に触る。
浜崎は茶髪を掻き上げ、その手をそのままうなじに落とした。意識せず、口の端が上がっていた。どちらかといえば、痙攣していた。
「過剰防衛って言葉、知らないのか? これだからガキは」
少年の表情が尖っていく。童顔の容姿がナイフのように鋭くなっていく。
斜に構えていた少年が浜崎に向き直った。ジムのホープとスパーリングしたときのような威圧感はさらさらない。目の前にいるのは所詮子供である。高校生というにもいささか幼すぎるくらいだ。気圧されるわけもない。体躯も小さい。手足も浜崎の方が二十センチ近く長い。身長差もそのくらい。体重にいたっては三十ほど違うのだろう。負ける要素がない。負けるわけがない。敗北など、ありえはしない。
なのになんだ。あいつの目は。
背筋がうすら寒い。恐怖では、ない。皮膚が粟立ち、身の毛も弥立つ。背骨が痙攣しそうだ。似ている。浜崎が連想するシチュエーションは、登っていくジェットコースターであった。歩を進めるたびに、緊張と期待が高みへ昇る。
浜崎の頬は、痙攣をやめていた。笑みの形で定着する。
うなじから右手を下ろした。左を前に、やや斜に相対する。姫君の手をとるように掌を差し出して、全指で誘う。
「こいよ。正義を教えてやる」
――いける――
水平に回り込んできた少年の拳の内側に踏み込み、結局ラリアットのようになってしまった攻撃を肩で受け、浜崎は腰の回転で肘鉄を打ち込んだ。狙い通り鳩尾に打ち込まれた肘は少年の動きを一瞬止める。その間に距離を離すための横蹴りを放つ。薄っぺらい胸板は思いのほか硬い。この程度の肉量で筋肉の鎧だとでもいうのか。少なからず浜崎を驚愕させるが、体重そのものは見た目通り。少年は三歩ほどたたらを踏んだ。
――この間合いが重要だ――
体勢を立て直した少年は追撃をしない浜崎を睨つけている。異様に大きい歯軋りの音がしている。屈辱感だろうか、瞳が濡れているように見える。テレビで見た、人に囲まれた野生のサルみたいだ。凶暴なのだろうが、どこか滑稽が共通している。
幾度も撃退されて少なからず警戒している少年は、ゆっくりと距離を詰めてくる。そうして、両者の制空権ギリギリのところで歩みを止めた。警戒が逡巡を呼び、次の一手を迷わせている。浜崎は表情を変えず、待ち続けた。
迷ったところでサルはサルである。結局、何度も撃退され続けた単純攻撃が繰り出される。迷った末の決断か、右拳を袈裟に叩きつけるという、もっとも単純かつ体重の乗りやすい攻撃に出るようだ。そういった位置に、少年は右拳をふりかぶる。ただし速度が桁違い。残像が見えるほどの手の動き、そして踏み込み。圧倒的に小柄な少年が膂力で浜崎と同等かそれ以上なのだから、当然のように速度は遥かに凌駕していた。
――それがどうした――
踏み込まれた足が地に付くと、少年という陽炎が実体化する。その間に浜崎は少年の拳の軌道を判断し、右肩を引きながら左側に身体を反らす。
動き出す少年の右腕はまるで彗星であったが、浜崎の予想通りの軌跡を描く。空振り。認識するより早く、引いた右肩から拳を発射する。右ストレートより正拳に近い打突で少年を突き飛ばす。約三歩の距離が開かれる。
飛び込めるが、何度も撃墜された距離。背を向けるには近すぎる間合い。繰り返される位置が少年の表情を迷いと警戒に誘う。そして、時が過ぎれば浜崎の勝ちだった。
全身から噴き出す汗が寒すぎる。浜崎はそう感じながらも、自分の昂ぶりを冷ますにはちょうどいいと唇を歪めた。笑みの形が出来上がる。
――速くても一向に構わないんだよ。地の利が俺に味方している――
つまりはこういうことだった。足型やフォークリフトが作った轍の形にそって固まったコンクリの絨毯は、決闘の場には向いていない。大きく踏み込めばわずかながらもバランスを崩し、次瞬に行うはずの攻撃を停滞させる。例えそれが一瞬であろうと、絶大である。
――世界チャンプのジャブも素人のジャブも、本質的な速度の差はほとんどない。あるのは発動までの挙動だ。短くわかり辛ければ、ボクシングを始めて三ヶ月でも、ジムのホープと渡り合える。つまりはそういうことだ――
膂力は体重五十キロ弱を後退させられれば、時間を稼いで浜崎の勝ちである。
しかし浜崎は、そこまでの思考はあえてしないでおく。勝利の予感は隙を生む。
と、異変だった。
これまで何度撃墜されようと逃げ出さなかった少年が、大きく後ろに跳んだ。着地時にバランスを崩す愛嬌も忘れてはいない。
正面を向いているのだから、逃げ出しはしないだろう。大した距離でもないから、型枠の影などに隠れてからの強襲とも思えない。
「強いね。うん、強すぎるくらいだよ」
台風の目なのか、ため息のような少年の台詞はひどく落ち着いていた。
「お褒めに預かり光栄ですねぇ」
「でも、なまじ強いものだから危ういんだよ……ここからは僕もあまり制御できないから、死なないでね」
少年は笑いかけてきた。まるで友人に向けるそれのように穏やかで、どこか悲哀に彩られていた。
スイッチが、入る。
少年が雷に打たれたかのように硬直した。そして、痙攣。飲み込んでしまった毒物を吐き出すような仕種へと移る。本当に、嘔吐。再び、少年の身体が震えだす。得体の知れない何かに煽り立てられるような、腹の底からというより背骨の髄を共鳴させているような。痙攣の微動の中、少年は溝口の血で汚れている右手首を左手で掴む。痙攣する右手を押さえ込んでいるように見えなくもない。
その両手の中に顔を埋めて鳴く。いや、泣く。
喧嘩で負けた子供が悔やみ泣くように、蹴落とされたボス猿が悔やみ泣くように。すすり泣きから咽ぶ泣き方へ。最終的に号泣に至る。泣き声に比例するように痙攣も酷さを増し、その振動が泣き声という音を生んでいるのかと思うほどの疑念を浜崎に抱かせた。
隙だらけであった。どこからでも殴りつけられそうだ。しかし踏み込めば、自分の作戦をそのまま少年にあたえてやることになる。だから動かない。それでいいはずだった。
――なのになんだ? この焦燥感は――
唐突に、止む。
同時に、生える。
右手に、奇怪な爪。
少年の右手の爪が伸びてゆくのだ。成長期に聞く、骨が伸びる音を漏らしながら。掌も変化していく。手の平の下部が、蜂か虻にさされたかのように大きく腫れていく。腫れはそのうち掌と同じほどの厚みを持つに至った。まるで、犬猫のニクキュウのような不恰好さである。その手で涎まみれの口と、濡れていた目を拭う。
朱に彩られた顔で、少年は笑う。
三センチ足らずの五本の刃は、蛍光灯を反射しながら、浜崎に確固たる恐怖を刻み込んだ。
少年の動きはまさに、猫のそれであった。手足で姿勢を保持し、飛びかかってくる。
距離が開きすぎていた。空中では地の利が停滞を生むはずもない。
無様に屈み、横転しながら浜崎は避けた。横転先で、浜崎が恐る恐る元の立ち位置を確認すると、四足で着地した少年の爪が、コンクリートの絨毯を抉っていた。
――おいおいおい、ちょっと待てよ――
浜崎の戦闘法は、停滞の一瞬に避けるか痛くない受け方をし、その後に反撃に移ることを基本とする。が、あの爪を受けようものなら、受けた先はそのまま持っていかれることだろう。全てを確実に避ければ戦闘法に破綻はないだろうが、それは実際問題可能であろうか。浜崎がとれた行動は、後退であった。
形勢逆転を感じ取ったのだろう。優雅な猫を連想させる動きで、少年が浜崎に向き直る。歩を進めてくるたびに、浜崎は退いていく。
一歩 そして 一歩と
後退ることに意味はない。少なくとも状況は好転しない。コンクリの絨毯に足をとられ、いつか尻餅を付くのが関の山だ。わかっていても身体が退いてしまう。肉体が意思を裏切る。頼んでもいないのに、皮膚が粟立っていた。
踵に何かが触れる。おおきな出っ張り。とうとう尻餅。浜崎は絶望と臀部に襲いかかるだろうコンクリの絨毯に身体を硬くした。
柔らかかった。
些細な奇妙に視線を向けてしまう。その先に、バイトの部下が寝転んでいた。溝口に付き従う知能指数の低い、大柄な男であった。手には、鉄パイプ。
飛ぶ音がした。正確には気配だったかもしれない。とにかく、浜崎は気絶男から鉄パイプを奪いとり闇雲に振る。
痺れるくらいの手応えが肘に抜けた。
当たった。やってみるものだ。下手すりゃ殺したかもしれんが、俺が死ぬよりも。脳内を駆け回る罪悪感に決着をつけ、浜崎がようやく手応えの元に目を向ける。
鉄パイプは、少年の右腕の中に納まっていた。
ニクキュウの部分である。そこにめり込んでいるが、損傷はないのだろう。視線が合うと、少年は浜崎に微笑みかけた。
――馬鹿な! 掌ぐらいは砕けてても――
憤懣は隙しか生み出さなかった。少年は四足から二足に切り替え、浜崎の鳩尾を蹴り上げた。
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