■ コンクリート ■

早稲 実
 いうなれば、しゃっくり。
 あの一瞬の呼吸困難と不快感が間を置かずに押し寄せてくるようなものである。鳩尾を強打されるとは、概ねそのようなものだ。むろん、いっそこの場で臓器を抉り出したほうが楽なのではないかと思わせる痛みを別としての表現ではあるが。
 まさにその目先の楽にすがるように、浜崎はめり込むほど爪を立て、自分の腹部を掴んでいた。転げ回る余裕もない。目玉がこぼれるほど見開いて、顎が外れるほど大口開けて、うねりを挙げて持ち上がる酸素を吐き出していた。肺の酸素が尽きると胃が吐しゃ物を運んでくる。大概吐き出し、酸素不足に陥ってもしばらく、浜崎は空虚な嘔吐を繰り返していた。
 残ったのは倦怠感と細胞たちからの呼吸要請だった。打たれた横隔膜に鞭打って、えらくハイペースなしゃっくりの合間に外気を吸う。涙腺は、浜崎の意思にしたがうことなく涙を吐き出し続けていた。
「ぁ、はぁぁ……てめ…………ころす」
 鼠がようやく顔を上げても、猫は意に介さない。少年は四本足でだらだらと、浜崎の周りを回っていた。目が合うと、むしろ嬉しそうに微笑み返してくる。
 浜崎は動くのをやめた。とりあえず目で少年の動きを追うにとどまった。時折、蹴られたり、殴られたり。しかし、猫は爪を使おうとはしなかった。打たれるに任せ、浜崎はコンクリの絨毯上をいくども転がった。作業着の上を脱いでいたことを少し後悔する。両腕が擦り傷だらけだった。まぁいい。まずは呼吸だ。それから――
 浜崎の横隔膜がようやく落ち着きをとり戻す。もう、打たれてやる理由はない。少年のぞんざいな蹴りがくる。
――サッカーボールキックってやつか?  舐めすぎだよ――
 横転して距離をとる。空振りに終わらせ、上がっていく少年の踵に左掌を合わせて、勢いのままに立ち上がる。少年の身体は柔軟で、右足が高く上げられようともバランスを崩すことはなかった。
 だが、余裕を貼り付けていたしたり顔が崩れた。
 浜崎の動きは終わらない。少年の右足を制したまま、踏み込んで残りの左足に自らの右足をかける。その上で少年の顔面を鷲?み、押し倒す。
 少年は右手の爪を伸ばすが、浜崎に制された彼自身の足が邪魔になっている。浜崎の左腕に爪あとを残すがせいぜい。落下を止めることはできず、少年は二人分の体重ごとコンクリの絨毯に頭から叩きつけられた。

――浅い!――
 浜崎はそのまま少年に馬乗りになり、襟締めを敢行する。打撃よりも確実に気絶させられるだろう。
 しかし、まともに柔道をやったことのない浜崎には時間がかかりすぎた。動脈圧迫ならば一瞬で済むのだが、気管圧迫を行ってしまい少年の意識はなかなか飛んでいかない。むしろ、苦しみがカンフル剤となって息を吹き返す。
 少年が浜崎の手を掴む。いや、指を。腕力に物を言わせて引く。
 右中指を折られた。掴まれた時点で少年の襟から手を離し、左拳を顔面に叩き込んでやった。その手を掴まれ、引き込まれ、浜崎のマウントポジションは左に大きく傾ぐ。その隙を付いて少年は、浜崎の右側から立ち上がった。一足飛びで距離をとる。
 少年は二足で佇んでいた。曲がった鼻を痛そうな顔をしながら戻し、鼻水を飛ばすように、片鼻ごと鼻血を撒き散らす。血というよりも、朱色の泥水めいていた。
 浜崎も立ち上がる。右の中指が反り返っている。脳味噌にガラスを打ち込むような鋭痛を我慢し、拳の形に戻していく。ボキボキと鳴っても良さそうなものだが、折れた部分同士が擦れ合って元の状態に戻っていったようだ。石臼を空引きするような音がする。これで殴ったら痛いだろうな。なんの、腹の鈍痛の方が不快だ、と。浜崎はそういうことにして、少年と対峙した。
 少年は右手を見ていた。促されるように視線をやると、爪が引っ込み、ニクキュウが消えている。彼の爪の中の赤と肌色の物は、あえて見ないようにした。
「そんな……猫の手を破るだなんて……」
 少年は放心していた。ほんのちょっと前まで殴り合っていたことなど対岸の火事らしく、驚きを隠そうともしていない。
 浜崎も気勢を殺がれ、仰々しい構えを解く。警戒をやめるほど間抜けではないが。
 ともかく、少年の言い回しが気にかかった。浜崎は辺りを視線で示してから言う。
「妙な言いようをするなよ。僕がやったんじゃありません、とでものたまうか?」
「そんなつもりは……ただ、僕もうっすらとしか覚えてなくて」
 少年はすまな気に視線を下げた。つまりは、暴走というやつなのだろう。知らずに人を殴り倒し、手遅れになってから正気に戻るというのはどんな気持ちだろう。浜崎にも、アルコール関連で似たような事件がないでもなかったが。
「とりあえず、そこで気絶してる馬鹿野郎には謝ってやれよ。俺は自分から関わったからまぁ良しとして、そいつは脅えて襲いかかっただけなんだから」
 顎をしゃくって溝口を示すと、少年は顔に皺を寄せて難色を示した。
「でも、悪いのはそいつだよ。殴られたくらいならまだしも、警棒で後ろからだよ」
 浜崎の脳裏に何かが引っかかった。少年の不満にではない。浜崎だって突然背後から警防を振られたら、問答無用でぐしゃぐしゃにするだろう。そんなことじゃない。そういうことじゃないんだ。浜崎は額に手を翳して引っかかった何かを探る。
 そんな浜崎に、少年は気遣わしげに声をかけていた。かといって迂闊には近づいてこない。浜崎はその距離が縮まらないようにだけ気をつけ、警戒をも解いて引っかかった何かを考える。探るに、耽る。
 そして、何気なく訊ねた。
「おまえってさ、理性あんだろ?」
「……バカにしてる?」
「いやいやそうじゃなくってよ。なんつーかさ、とりあえず今は、理性があるよな」
 なぜか目付きが険しいが、少年は頷いて答えた。
「んじゃぁ、爪が長い時は?」
 悔しそうに、少年は首を横に振る。
「と思ったよ。だがよ、その前まではどうよ?」
「あるに決まってるだろう? 加減とかは難しいけどちゃんと制御できるさ。と、言うか、こんな状況じゃなきゃ使ったりしないよ。公団から文句言われる――」
 音が、した。
 少年の頭が弾けた。それは傾いだという表現するのが正しいのだろうが、それほどの速度で曲がった。そして、首という連結具で繋がれた小さな身体が、引っ張られるように横倒しになる。
「な!」
 愕然とした浜崎はすぐさま辺りを見回す。圧縮されていた空気が瞬間的に開放される音。そういった理屈まで音から判断できたわけではないが、そういった仕組みで動く玩具を知っている。ガス銃。しかし、人ひとりを跳ね飛ばすほどの力があるわけもない。あるとするならば、あの男の……
「何を慌てているのかね。私は、助けにきたのだよ?」
 男は型枠の影から飄々と現れ、軽い足取りで少年の元へと向かう。脳震盪は回復したようだった。踏み抜かれた右手の平や潰された鼻は復活していないが、仕草を見る限りでは、全快していると思っても良い。
 喜ばしいことのはずが、浜崎の喉は嫌な渇き方がする。
 男が、仰向けに倒れた少年の元に辿り着く。少年は脳震盪を起こしているようだ。救いを求める亡者のように少年は手を伸ばし、男は、パンの変わりに銃口を向ける。
「お、おい」
 引き金が躊躇なく動く。少年が縋るように頭を上げていたのがいけなかった。弾かれ、後頭部がコンクリートの絨毯に叩きつけられる。一度跳ねて、もう、動かなくなった。大量ではないとはいえ、血が池を作っていく。
「ちょ、ちょっと待てよ……やりすぎだろ。死んじまうぞ」
「すぐに応援がやってくる。手当ても行う。無力化することが最優先だ」
「それにしたって……そいつには理性もあったみたいだし、ちゃんと話せばよ。
 それに、そいつはなんか、公団に怒られるとか、そんなようなこと言ってたぞ」
 男が浜崎に向き直った。拳銃を腰に刺し、スーツの中に手を隠す。表情は、朗らかだった。歩み寄ってくる。
「おいおいどうした? 何で声が震えている。もう危険はさった。キミの手柄だよ。とにかく、受けとりたまえ」
 男の左手がスーツの内側から戻ってきたとき、黒い皮の財布を掴んでいた。器用に片手で開き、万券を数枚とりだす。
「なんだよ、それは」
「ささやかなお礼さ。あぁ、工場の方の損壊にはあとで別の形で補填させてもらう」
 朗らかな表情だった。優しげな笑みともいえる。まるで敵意がなく、男は近づいてくる。当たり前である。あの少年を止めるための仲間なんだから。味方なんだから、敵意なんかなくとも当然で……しかし。
「来んなぁ!」
 男の足が止まる。張り付いた笑みも動きを止め、目だけが、冷たく細まっていく。
「どうか、したかね?」
「おかしい。何かおかしいんだよ。あいつはなんて言ってた? 公団が怒るとか」
 男の質問に、浜崎は応対していなかった。額に手をつけて、ぶつぶつ、ぶつぶつと、独り言を繰り返しながら、引っかかっている何かを見つめ直す。
「あいつが暴れて、他の人に迷惑をかけないように、このおっさんが銃で、それを俺が妨害して、倉庫に閉じ込めて……溝口がやられて、あいつが猫になって、殴り倒したら正気に戻って、んで、溝口をやった時にも理性はあったって言ってた……」
 額に当てていた左手で、そのまま髪を掻き毟る。男が「大丈夫か」などと気遣ってくれているが、音として伝わっても台詞として聞きとれなかった。捨て置く。
「そんで、公団が怒るっていったんだよ。そうだよ。そうだ。変なんだよ」
 掻き毟っていた左手はうなじへと落ち、両目がひさしぶりに景色を映した。2号棟の天井は今日も汚い。そんなことを今更思う。
「何がかね」
 男は、すでに笑みを消していた。
「てめぇ、嘘こいたな」
 大げさに指差し、男を睨み据える。うなじを掻く手が、オルゴールの針のように働き、浜口は言葉を紡いでいく。
「公団に怒られる。いや、本当にこう言ったかどうかは確証がねぇけど、これが全てだったんだよ。あいつは、暴走した化け物だったんだよな? それがなんで公団を知ってるんだ? 少なくとも、一度捕まっているってことだろ。あいつは理性を持ってた。公団が、認めたってことだろうが!」
 男が表情を消していく。何も、言わない。
「てめぇ、何もんなんだよ」
 閉め切った2号棟は蒸し暑かった。身体を動かしすぎたせいかもしれない。夜だからそれなりに涼しいはずだった。それでも、こもる湿気と血臭が渦巻いている。気持ち悪い。吐き気がする。だが、男の沈黙が浜崎を冴えさせてゆく。
 男が、鼻で笑った。そこから苦笑が続く。
「賢いのも考えものだな。あまり使いやすいとはいえない」
「いいから、てめぇが何者か答えろ」
「公団の者だよ。ただし、公団も一枚岩ではない。彼らを研究したい一派もいて、研究対象が理性を失った害獣ばかりでは物足りないのだよ」
「んで、害なく世間に帰れたガキどもまで拉致して人体実験か? てめぇーらの方が悪人じゃねぇか!」
 浜崎は拳を握りこんだ。折られた指の痛みが、苛立たしい。
「どうしてそう断じられる? 理性を持つ者を研究すれば、害獣に成り下がった者たちも人間らしい生活ができるかもしれない、とは考えないのかね」
「小難しいことはわかんねぇよ。だが、おめぇらのやり方に正義はねぇ」
「ならばどうする? キミは国の敵に回るか? マスコミにでもリークするか? 成功したとして、その後どうなる? 糾弾された公団は壊滅し、彼らを隠蔽する物はなくなる。わかるか? 人間ではない者として彼らは世の中から弾かれるぞ?」
 男の唇が嬉しそうに歪む。浜崎がどのような答えを返すか見守っている。
「知らねぇよ……」
 男の言葉は正論に聞こえた。浜崎の展望らしいものは打ち砕かれていた。だが、それでも言葉を搾り出す。些細な、呟きでしかなかったが、一度火がつけば火勢は強まり爆発した。
「難しいことはわかんねぇーよ。けどなぁ、俺は俺のやり方で正義を貫く!」
「我侭な正義だな……どうするつもりだ?」
 ため息のような台詞を吐き出し、男は指先を自分の額にあてる。迷っているような仕草だが、口の端は楽しげに引き上げられている。
「我侭結構、傲慢承知。てめぇに、正義を教えてやるよ!」
 浜崎は握り拳を突きつけた。
 男は腰に挿した拳銃を握り直す。
 蛍光灯の明滅が、時間の経過を数えていた。

 粘土を含有した石灰石や石膏を焼いて、粉末状にしたものをセメントと言う。これに砂、砂利、水を加え、掻き混ぜ、肩枠にはめて寝かした人工石。コンクリート。
 今や、日本の一般建築物には必要不可欠な存在であり、他にも防波堤、車止め、公園に置かれるオブジェなどにも利用され、世の中の役に立っている。
 浜崎はそんなコンクリートを作る仕事に従事していた。肩枠に流し込み、寝かせ、取り出す。次のコンクリートにとりかかるため、肩枠の清掃もしていた。そしてまた、次のセメントを流し込み、寝かして、コンクリートに仕立て上げる。
 始めはどんな形にもなれる物である。しかし、売れない形など作りはしない。セメント達は型枠の中で夢を見て、翌朝には一人前のコンクリートとして世に出て行く。
 それでも時折おかしな物ができたりする。分量を間違えたのか、硬過ぎたり、柔らか過ぎたり。そういった物を壊すのも、浜崎の役目だった。
 そんな時、何が違うのか浜崎は頭を捻る。分量を間違えたか? バイトが何かの工程をサボったのか? しかし詮ないこと。最近では、セメント達が夢を叶えたのだろうと決め付け、お構いなく打ち壊している。
 夢を叶えたところで意味はなく、型に反する物に意義はない。
「だから、俺は負けたのか?」
 辛うじて涙を流さず、うつぶせのまま、浜崎は少年を担いだ男の、遠ざかる足音を聞いていた。
 月は天井に阻まれ、浜崎を照らしてもくれない。

■ END ■

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