■ disorder 秩序破壊者 ■

早稲 実

   1.襲来

 クレオール・ピジンには、それはとんでもないことであるのだろう。だから粗暴だと言われようと、品がないといわれようと、憤慨を殺しきれずに扉を蹴り破ってしまうのだ。
「ったく、どおいう訳だこの野郎!」
 彼の第一声はそれであった。この宮廷内において、文官の執務室を蹴り破る者など皆無に等しいだけに、さすがにレオネも驚きを禁じえなかった。が、いったんクレオだとわかれば、いつまでも驚いてやる義理もない。未だ目を奪われている小間使いに声をかけて、業務を続ける。
「無視かよ!」
「ああなんだ、クレオはかまって欲しかったのか」
「犬猫扱いかよ! 聞きたいことがあるんだ」
 鼻息の荒いやつだ。こんな奴がいるから、自分たちの年代はまだ若造だと言われるのだろう。レオネは怒り心頭のクレオを眺めながら、ふとそんなことを考えてしまう。
「なら、少し黙っていてくれないか。どうせ正規の手続きなんて踏んでいないんだろ? 質問には答えてやるから、この仕事の間だけは静かにしていてくれよ」
 気圧されたという訳ではないだろう。それでも「わかったよレオネ」と返答し、舌打ちしてそっぽを向く。しかしながら小声で「出自は平民レオネール♪」と、聞き逃せない軽口を叩いていたが。
「正規の手続きを踏まぬものに対し、官吏は法に則り刑に処す権利を要する。これは国から分与された各々の機密を保持するための有効な法である」
「優しーレオネール♪ 愉快なレオネール♪」
 それで機嫌を取っているつもりなのだろうか。……悪い気はしないが。
 ともかくも、一刻も早く小間使いに用件を伝えてクレオをかまってやらねばなるまい。重要機密がだだ漏れてしまう。この部屋には公開可能不可能も含めて大量の書類が集まってきている。暇を持て余したクレオはすでに、閲覧を禁ずる書類が収められた棚に手をかけていた。首を傾げているところを見る限り、理解しているとは思えないが。
「では、刑を緩めるという方針で宜しいのですね」
「ああ。もう暴乱期も越えて二十年だ。職務停止や入国禁止はやりすぎだろうさ」
 治安維持に関する話だ。この国はもともと西の共和国と東方文明圏との貿易の中継地点であり、山脈を越える商人たちが足を止めることで潤っていた。だが、違う文明同士が交わるだけあって当然のように齟齬が生まれ、諍いに発展してきた。所詮国ぐるみではなく貿易商や国民たちとの喧嘩でしかないが、暴乱期と呼ばれていた最も荒れていた時期など、国民の誰しもが諍いを恐れて屋内に閉じこもってしまった。となると貿易商たちも宿を取ることができなくなり、東西貿易自体が下火となっていく。その打開策として打ち立てられたのが、治安維持のための積極的警護であった。ようするに喧嘩両成敗を躍起なって行っていただけだが、効果があったのだから文句はない。何より共和国から助成金まで掠め取れたのだから、大成功した政策といえる。
 とはいえ、いつまでも国が感情を抑圧しているのも不自然だろう。違う文明圏同士で諍いが起こるのは当たり前だ。その上で他人に迷惑をかけず、双方が口論の末に仲良くなるのが最良のはずだ。片っ端から貿易商を追い出すわけにもいかないし、国民同士の日常的な喧嘩まで法で罰するのもどうかしている。
 レオネはちらりと、麻紙を上下逆さにして納得気に頷いているクレオを盗み見た。
「なにより、アイツの尻拭いにいささか疲れた」
 小間使いは冗談と受け止めて笑ったが、レオネとしては、口の端を引き上げて笑顔のような表情を作るのが精一杯であった。
 さて、小間使いに伝える用件もこれで大体終わりだろう。彼には後一つだけ仕事をお願いして、今日は店を閉めるとするか。上級文官に提出してもらう書類を脇に抱える小間使いに、レオネは最後の仕事を伝えた。
「それじゃぁ、ここにクレオが来ていることを考えて動いてくれ」
「え? あ、はい。わかりました」
 伝わったのだろう。小間使いはまた笑い、部屋から急ぎ足で退出していった。
 彼も早く仕事を終えたいのだろう。とっくに太陽は中天まで上り詰め、あとは惰性で降りていく時間である。他の文官たちならとっくに昼食をとり、仕事を終えているはずの時間帯だ。悪いことをしている。自分が次々と残業を引き受けるおかげで、彼は他の使用人よりも長い時間働かされている。今度、何かボーナスでも出してやるべきだろうな。次の俸給が出てからの話だが。
「なんだ? 今のは。また、俺に内緒で動くつもりなのか」
 耳ざとい奴だ。そう舌打ちしたくなるが、向き合うと自然と気分が楽になっている自分にレオネは気付かされる。仕事が終わった安堵感だと思っておくが。
「一介の武人に知らなくて良いことなんて、数え切れないさ」
 机の向こうに立ち、こちらの一言一言に憤慨するクレオを見ているのが純粋に楽しいのかもしれない。しかし、毎度のように胸倉を掴まれるのは辟易する。クレオは額を擦りつけ、笑っていない目でこちらを威圧してきた。
「頭に血が上りすぎてないか? まずは質問をぶつけてからにしろよ」
 納得してくれたらしい。クレオは胸倉を開放してくれ、不満そうではあるが、一歩下がった。仮に、彼が言葉の通じない人間だとすれば、あのまま自分はくびり殺されているのだろう。長身なのはお互い様だが、鍛え上げられた筋肉に包まれているだけあり、レオネよりも見るからに体重がある。今、その殺人的に締まった筋肉は、位の高い者しか着れない、この辺りでは取れない絹製の服の中に隠されてはいるが。……似合っているとはとてもいえない。
「ま、あれだ、俺が聞きたかったのは用するに、あれなんだよ」
 脳みその締まりは悪く、スカスカのようだ。
「なぜ共和国への軍隊派遣に自分が選ばれなかったのか、なぜ自分が模擬試合をさせられている間にピジン将軍が出軍したのか、だな」
 クレオは自分の膝を叩きながら、こちらの顔を指差して叫んだ。まるで非難するように。
「そーそー、それだよ。元はといえば、俺が王様に提案したことじゃねぇーか」
「おまえの意見を聞き入れて、私が王に進言した、だろ」
「どっちでも良いだろ」
「そーでもないさ」
 仕方のない奴だ。レオネは立てかけてあったペンを掴み、余分なインクを捨てる皿の上で何度も、トントン、インクを切った。インクを内蔵し、筆圧によって弁が外れて少しずつインクを垂らすことができる、仕掛けつきの高級なペンである。けれども弁の、蓋としての役割りにはそれほど信用してはいない。だから、インクを切っておく。別に、何を書くわけでもないから。
「おまえが今日みたいに扉を蹴破って、手続きもなしに提案を申し入れても、王は耳を傾けてもくれんだろう。それどころか、悪けりゃ極刑ものだな」
「だろうな。だからおまえに任したんだよ。いいアイディアだろ」
 おまえのアイディアってのはその程度なのか。そんな言葉の代わりに、口からはため息が漏れ出た。しかしクレオは意に介していない。
 レオネは説明を続けることにする。その前にペンのインクが切れていることを確認して、ペン先を中指と薬指の間に挟み、ペンの尻を親指にかけた。バネ仕掛けのように親指でペン尻を弾くと、ペンの腹は中指を乗り越えて人差し指と中指の間に収まった。
 考え事をしているうちにできるようになってしまった、ペン回し。今はくだらないことを敢えて語らねばならない時にやってしまう。なんというか、暇潰しだった。
「あー、いかに私が軍事に携わる文官であるとはいえ、まだ若い。いかに私が頭脳明晰かつ天才的であるとはいえ、おまえと同じで経験と実績がない。そんな私が一介の武人であるおまえから突き上げられて常備軍の派遣を進言したということになれば、一蹴されるか降格か、どちらかは必定だ。つまり、王の耳におまえの名は届いてない。
 その上で派遣する人員を選出するとなると、自ずと優秀な者から優先的に選ばれていくことになるだろう。――おまえにも、お呼びがかかると思うだろ?」
 こちらの顔ではなくこちらの手元を、口を開けながら見詰めてクレオは頷く。
「だがな、おまえにお呼びはかからない。
 派遣されるということは、いわばこの国を宣伝しながら戦うというわけだ。うん。おまえなら並みの搭乗者のより強いだろう。が、軍隊行動ができなけりゃ意味がない。共和国の軍事制度はこちらよりお堅いらしいしな。素行の悪いおまえには無理だ。
 ちなみに、何故おまえが模擬試合をやっている間にピジン将軍が行ってしまったのかについては、簡単だ。おまえが待機命令なんて無視して付いていこうとするからさ。むしろ、出軍のためにおまえの模擬試合を組んだってのが真相だよ。これは凄いことだぞ? 一人の武人のために国がわざわざ一芝居打ったってことだしな。よかったな。おまえの名は、雷名か悪名かは知らんが、知れ渡ってるってことだよ」
「……喜んでいいのか?」
  皮肉が通じなかった。彼には少し難しすぎたか? そう悩む間にペンを取り落としてしまった。クレオは自分の足元に転がったそのペンを拾い上げてから顔を上げる。こちらの表情で、喜ぶべきことではないのは理解したらしいが。ただそれでも、不理解であることを表情で表していた。
「つまりあれだろ? 俺が常備軍を派遣することを提案したのに、王様は俺を選んでくれなかった、ってことだろう? そこがわからねぇんだよ」
 見よう見マネでペン回しをしているらしいが、一発で落ちた。また拾う。落とす。拾う。気が散る奴だ。
 レオネは自分の長髪を片手で掻き回し、というより頭皮を掻いて脳に刺激を与えてから、一息ついてクレオに答えた。
「ようするに、派遣の提案は私が立てたことになっている。しかも共和国自体から催促はされていない。つまり立派で規則正しい武人を送ることになったんだ。おまえは立派で規則正しくないわけだよ」
「なんでだよ」
「手続きもせず、文官の執務室の扉を蹴破る男が規則正しいと思うか」
「うるせぇな。俺は武人だぞ。細かい手続きなんてしてられるかよ」
「しろよ、バカ」
「なんだと、てめぇ!」
 クレオの手の中でペンが折れた音がする。折ったというよりも、握り潰したと表現するのが適切であろうが。ああ、高かったのに。レオネがそんなことを思っている間に、クレオは瞬く間に距離を詰めており、胸倉を掴まれていた。先程とは違って、身体ごと持ち上げられている。ったく、苦しいな、馬鹿野郎。
 レオネは胸中でこぼしていたが、自分の胸倉を解放するよりもクレオの硬質な髪を引っ張っていた。すぐクセのつく、短い黒髪をぐしゃぐしゃにしてやり、時折顔を引っ掻いたりしてやった。
 そんな攻防も長くは続かず、扉がノックされる。
 さすがに仕事の邪魔までする気はないらしく、クレオは手を放してくれた。唐突に落とされたため尻餅を付いた格好となり痛かったが、それよりも圧迫されていた喉が痛かった。尻を摩るよりも、咳き込むことに従事させられる。
 そんなこちらの様子を見て気遣ったのか、クレオは「だらしがない」とか悪びれもせず呟きながら、勝手に扉を開けて客を迎え入れる。文句を言うくらいなら手加減して欲しい。
「か、母さん! なんでこんなとこに」
 扉を開いたクレオの慌てぶりに、涙目ながらもレオネはニヤりとする口元を押さえ切れなかった。目を拭ってそちらに向き直ると、予想通りピジン将軍の妻――つまりクレオの母親が訊ねてきてくれた。本当に親子かと見間違うほど彼女の肌は白く、口元には優しげな微笑が浮かべられている。
 いや、今は息子を叱責するために歪められているが、それでも温和な人間性を隠しきれるほどの形相は作れないのだろう。それでも、クレオは慌てていた。
「こんな所はねぇだろ」
 とりあえずは軽口が叩けるくらいに回復したので、クレオの横に立って囁いてやると、彼はこちらを睨みつける。まるで山神の使いのような眼差しだ。
「てめぇ、さっきの小間使いで母さんを呼び出しやがったな」
 今度は直接首を絞められたが、ピジン婦人の制止の声ですぐさまクレオの腕からは力が抜けていく。
「いい加減になさい。レオネールはまだ仕事中なのでしょう? こんな時間までいつもご苦労様ですね。頑張ってください」
「いえ、もう今日はもう切り上げようと思っていましたよ。クレオも仕事の邪魔だけはしないでくれたので大助かりでした」
 彼女に対する嫌味のつもりではない。このくらいの冗談はわかってくれるのを承知の上で、クレオにわずかばかりの仕返しをさせてもらったに過ぎない。
 ピジン婦人は楽しそうに微笑んでくれ、了解したとばかりにややキツい口調を作ってクレオに言い放った。
「迷惑をかけてはいけませんよ、クレオ。さぁ、帰りましょう」
 しょげ返って母親に従うクレオは、まるで遊び場から連れ帰られる子供である。そんな子供は宮廷の長い廊下を歩く中、母の目を盗んでこちらに振り返り、舌を出して挑発していた。
 本当にガキか?

 あれから二十日もの間、クレオが扉を蹴破って職務に励むレオネを驚かす、というようなことはなかった。ないまま、滞りなく進む仕事にレオネがやや飽きを感じ始めた頃、再び嵐のような男が姿を現した。
 その日も、ここ最近のように仕事に何の支障もなく、レオネは散らかった書類を揃えて一日の勤務を終えようとした。どちらにせよ太陽はすでに昇りきっていたのだから、レオネが仕事を続けねばならぬ義務はない。むしろこれでもかというほど公務を果たし、昇格に繋がるだろう業務を越えた意見書まで仕立て上げたのだ。これ以上働くのは家柄に立脚されているだけの怠惰な上級官吏の反感を買ってしまう。今はまだ、使えるコマネズミでいいのだ。
 そんな言い訳めいた理由を盾にレオネは執務室を後にし、空き始めただろう宮廷の食堂まで足を運んだ。のだが、どうにもこうにも運がなかったとしか思えない。久しぶりに出くわしたクレオは、何故か麻服に着替えていた。持て余していた満ち足りない感覚は瞬殺されたが、同時にこちらの予想を越えるだろう事件の匂いに慄いてしまった。
 やけに朗らかに、片手を上げながら微笑んで近づいてくるクレオは、一も二もなく「出自は平民だったよな」とか言いながら麻服への着替えを要求し、理由を求めると、これから宿屋へと赴くとのことだった。つまり酒場へと。そもそも名家生まれのクレオがどうして麻服などを持っているのかは置いておいて、レオネは早々に「件のことに関しては何も言えんぞ。フォローも無理だ」と言い張った。が、クレオは一瞬の見逃せない逡巡の後に、「いや、もう諦めたって。ただよ、愚痴にくらいは付き合えよ」と返してくる。
 嘘だとは間違いなく言い切れる上、愚痴に付き合うのも面倒で仕方ない。のだが、どうせ仕事がなくなれば暇を持て余すのだからと、レオネはクレオのオゴリであることを念押ししてから渋々と了解した。
 当然、件の事柄に多少なりとも負い目を感じているからなのだが。
「ったくよぉ。あのクソ親父が行くのはまぁわかんだよ。この国で唯一、搭乗者でありながら指揮もできる武人なんだから。辺境雄とか言われてるしな。けどよぉ、なんで随伴すんのが俺じゃなくてあの馬鹿野郎なんだよ」
 そして、こんな具合である。
 木製のジョッキを安作りのテーブルに叩きつけるようにして、クレオは愚痴をこぼしていた。そんな彼を辟易した眼差しで眺めながら、レオネは杯のブドウ酒から口を離し、訊ねてしまう。
「馬鹿野郎って、おまえの兄貴のことか? 私ほどでないにせよ、文官の採用試験もパスしたという天才的な搭乗者だそうじゃないか」
「ああ、そうだろうよ。読み書き算術歴史に文化、どれも大層なものらしい。らしいが」
 クレオは言葉を切ってジョッキを口に運ぶが、思ったよりもイモの醸造酒の残りが少なかったのだろう。あんなクセの強い物を良く飲めるとレオネが感心する一方、クレオは飲み下してから、カウンターの内側に木製のジョッキを投げつけた。
「おやじー、並々と、な」
 投げられていったジョッキは口ヒゲ生やした店の主が受け止めて事なきを得たが、他の客に当たればどうするつもりなのだろう。「投げるなって言ってるだろうがぁ!」という店主の怒鳴り声ももっともだろう。しかし、クレオに聞いている素振りはない。店主ももう諦めているのだろう。それ以上は言わず、投げられたジョッキに樽からイモ酒を注いでいた。
 そこまで見送ってから、クレオに向き直る。話は続いていた。
「らしいが、だ。あんな生っちろくて剣の一つも振れねぇ奴が戦士っていえるか?」
「まぁ、私は会ったことはないが、剣が振れなくても良いだろ? 搭乗者なんだし。おまえみたいに年がら年中括りつけてるヤツの方が希少だぞ」
 クレオがいつも腰の背部に横付けしている、幅広の剣を顎で差して注意した。この国に刃物を取り締まる法律は特にない。というのも、貿易都市であるが故に例の治安政策が施されて以来、剣の所持者は何もしていなくともある程度見回り役に目をつけられてしまう。自然、各々が自粛する形になっているからだ。
 宿屋に付随しているこの酒場であっても――つまり貿易商やその護衛たちですらナイフを身につける留まり、本来の得物は部屋に置いてきている。
「これは、戦士の魂なんだよ」
 クレオに悪びれる様子はなかった。むしろ自信満々に腰に取り付けた剣を叩いてみせる。先端に行くに従い厚くなるそれはまるで巨大な鉈であり、共和国と友好関係を結んで以来は絶滅しかけている、この辺りの民族的刀剣である。当然、共和国で一般的な大剣の類とは使い方も異なり、使い手の方もまた絶滅危惧種なのだが。昔、気になって訊ねてみたら、「山の中でヒヒ爺に教えてもらった」と、冗談とも付かぬことを言っていた。
「おやじー、遅ぇよ!」
 といってクレオは、レオネの杯をも飲み干して投げつけていた。
 まぁ、クレオに関してはそれ以外においても希少動物ではあるが。
 と考えを付け足して、レオネは今日までの出来事を振り返る。
 戦争が始まる、と言うのである。
 いや、今となっては事実、五日前に初戦は行われていた。といっても、このジャクメルから遠く離れた共和国圏南部での話だが。おかげさまで、この国には大した動揺もない。遠くの戦争は、下級官吏の手の届く範囲でもないため、レオネの仕事も代わり映えはしなかった。
 それはともかく、戦争だが。
 なんでも、遥か南の帝国が民族を総動員して北上している、という実しやかな噂が貿易商たちの間で流れ始めたのが一ヶ月前。巻き込まれて、共和国圏の中枢――レイマスの大貿易商ザールス・カットが死んだとかどうとかいう情報は、貿易国であるジャクメルの巷に飛び交っていた。
 おそらくはそこからこの戦馬鹿は「戦争が始まる」とか間抜けたことを言い出したのだろう。「要請を受ける前に軍を共和国へ派遣したらどうだ」とか抜かしてきた。確かに同盟条約による兵員供出ではなく、友義に基づいた兵員協力として戦列に加わる方が恩賞も心証も良いだろうから、レオネも良い提案だとは考えたが。
 とはいえ、骨は折れた。他国に自国の軍隊を送り込むには、それなりに労苦を強いられる。共和国の軍関係の者は嬉々として受け入れるかもしれないが、為政者の方は苦虫を噛み潰すだろう。何せ彼らにしてみれば、兵士をまだ武人と呼び続けている蛮族が土足で上がりこむようなものだ。自国の王を満足させられれば上出来だろう。と、踏まえた上で搾り出した苦肉の策が、他国演習の提案だった。国ごとにより当然得意戦術が異なるわけで、他国の侵略を想定した訓練であるならば自国の軍だけで訓練するよりも他の国を招くというのは理に適っている。とはいえ、正直そんな意見書は、共和国様さまには尻拭き紙同然に捨てられるだろうと思っていた。が、レオネの手の届かない雲の上の人々が不思議な術を使って通したのだろう。
 もしくは、歴史が生み出した伝説が。
 クレオの父は辺境雄と言われる、要するに英雄様だ。けれど正面に座る若者は、儀礼と知識に欠けた馬鹿者だ。武芸だけは一級品らしいのだが、英雄の息子という後光に塗り潰されて見えない前科が山ほどある。しかも、本人は悪いことをしている意識がない。
 ジョッキと杯に並々と酒を運んできた店主に「遅い」とか怒鳴っているクレオを眺めて、レオネはため息を吐き出した。
「おまえは派遣できないよなぁ」
「なんだとコラ、どういう意味だよ」
 胸倉を掴まれるのにも慣れてきたなぁ、とか考えながら、額を擦り付けるクレオから視線を逸らした。まぁ結局のところ、これで良いんだと思う。ヘタに戦地に向かえば死ぬ可能性だって充分にある。クレオならば武功は上げられるだろうが、猪突猛進で敵陣に突っ込んで、囲まれ、ハイお終い。充分に考えられるシナリオである。クレオには悪いが、共和国へと派遣された義勇軍に加われなかったことに関しては、諦めてもらうより仕方あるまい。そのための愚痴くらいならば付き合おう。こちらがオゴっても良いくらいだ。けれども俸給日前だ。今日のところは勘弁願おう。
 そんなことを考えている間にクレオは、こちらの胸倉を開放してくれた。まるで相手をしないので飽きたのだろう。愚痴なら聞いても良いが、肉体のぶつけ合いは勘弁してもらいたい。まして、酔って加減を知らないとなると、自分は殺されかねないから。
 ともあれ、クレオもその点は心得ているらしく、その後は胸倉を掴むような行為もなくなった。テーブルに身体を預ける辺りは純粋に酔い潰れているように見えなくもないが、話の本道を外れない所を見る限りは大丈夫なのだろう。
「ともかく、戦士の魂を持たない奴はダメなんだよ!」
「魂? 誇りとの違いをわかった上で言ってるのか?」
「? ともかく、戦士の魂を持たない奴はダメなんだよ!」
 まぁ、一向に道を譲らないのもどうかと思うが、大丈夫なのだろう。そう本人が言っているので、レオネは信じることにした。もう成人を果たした大人が大丈夫といったのだから。それに、自分はいざクレオに吐かれようと、走って逃げられないほど酔ってはいない。
 そんな具合に、酔いどれて管を巻き続けるクレオにレオネは安全圏からはみ出さないようにしたまま相槌を打ち、窓辺から日が傾いていくのを見送っていた。
 太陽が茜から緋に、紅に。どの辺りからが境界なのか知らないが青味を帯びていき、熟したブドウのそれへと変貌して外が暗み始めたとき、店主が酒場のランプに火を灯した。目を凝らせば、しかも外が暗いからこそなんとかわかる程度だが、黄ばんだ煙が立ち昇り獣油特有の饐えた匂いが鼻に付く。話によれば、絞りたての獣油ならばこの匂いが立たないらしい。だが、官吏へと支給される、植物油の無臭に慣れてしまったレオネの鼻では真偽のほどは判然としない。お坊ちゃまのクレオに至っては論外であろう。時々寝、時々思い出したように愚痴をこぼしていた。
 酒場の席が空いていくにつれて、店主がこちらを睨む視線が強くなっていくように感じる。「母さん、俺が見返してやるから……」とかなんとか寝言をほざくクレオの肩を、レオネは揺すっていた。当然といえよう。宿屋の店主からすれば、すでに店じまいの時間帯なのだから。獣油を灯すのは単に、勘定を数えやすいようにでしかないだろう。
 宿屋の扉につけられた鈴が鳴る。
 痛いくらいだった店主の視線がそちらへ向いてくれた。扉から入ってきたのは予定より大きく遅れた貿易商の一団らしい。三人だったが、一団だ。集団の様子を見るなり、まだ営業的愛想笑いを続けていた店主が表情を変えた。恐らくは、部屋が余っていないのだろう。モメ始めた。
 レオネは、貿易商の一団が少しでも店主の目を背けていてくれるよう願いながら、怯えた眼で様子をうかがいつつ、クレオを起こしていた。いっそ、このまま引き摺って帰った方が早いかも知れないと考えながら、クレオの筋肉質な身体と腰に佩く大鉈にゲンナリしながら揺り起こしていた。
「なら、そこの酒場ででもいい」
「いやお客さん。そういうわけにもさ」
「何故だ? アレみたいに、どうせ酔い潰れた客は寝かしてくのだろう?」
「ありゃ、この国の奴だからまだしも」
「この国の奴もどの国の奴も関係ないだろうが。そもそも、この宿屋はこの国の奴を泊めることで営業してるとでも言う訳か? 私たちを優先させろ」
「そりゃ……しかしなぁ」
「おい、貴様。このお方をどなたと心得る。レイマスの貿易を牛耳っるザールス・カット様のご子息だぞ」
 集団の頭目格と見定めた、というより、まるきり山賊の身なりをしている男のその台詞に、レオネの意識は引っ張られた。山賊風のヒゲ男が言うのはどちらなのだろう。両腿に剣を差した痩躯の青年だろうか。それとも、ヒゲ男を止めようと、控えめに裾を引っ張る少年のことなのだろうか。どちらにせよ、信憑性に欠けた。青年は口元に締りがなく、少年は目元に覇気がない。レオネは興味を失って、クレオを起こす作業に戻った。
 しかし、なかなか目を覚ましてはくれない。その内だんだんと、例のヒゲ男の声が大きくなっていった。怒鳴り声といってもいい。
「るっせーな!」
 ようやく目を開いたクレオは、同時にジョッキを投げつけていた。完全に不意打ちであった筈なのに山賊風ヒゲ男は軽々とそれを受け止める。肉厚の顔面からはみ出るようにくっついているどんぐり眼を、こちらに向けた。ギョロリという擬音が酷く似合う。
「なんのつもりだ」
 口調の穏やかさとは裏腹に、ヒゲ男の額には青筋が浮き上がっている。レオネはその双眸に睨まれるだけで言葉を失ったが、テーブルから顔を上げたクレオは泰然と言い放つ。
「うるせー、ってんだよ。レイマスを牛耳るザールスだぁ? そんな男がこんな安宿になんの用だよ。店主の言うことが聞けねぇってんなら、さっさとどこかに行っちまえ。俺はここで気持ちよく寝てるんだからよ」
 店主は出て行けと言っているから、彼らは粘っているのだろう。一見、筋が通っているようでまったく状況を理解していない弁であった。いや、そもそも自分たちも、出て行け、と言外に促されていることにクレオは気付いていない。
 そういった瑣末に囚われず、山賊風ヒゲ男は近づいてきた。わかり易い怒りを顕わにしながら。そしてそのまま、定まらない眼差しで顔を上げているクレオを殴りつける。
「ザールス様を愚弄するつもりか?」
 床に転がったクレオは脳震盪でも起こしたのか、微動だにしなかった。だが、ゆっくりと目を開いてゆき、再び細まってゆく。寝入る狸ではなく、鋭く、奥でギラつく山の神の使い――コンドルのような双眸で男を睨み上げていた。
「何をしたのか、わかっているのか?」
「ほぉ、面白い体勢で言うもんだな」
 クレオに関してはまるで平時の口調なので推し量りようもないが、ヒゲ男はコメカミに血管を浮き上がらせている。レオネが説き伏せられる段階はとっくに過ぎていた。
「ああ、面白いことになったもんだな」
 そこに店主のしわがれた声がかぶさってくる。
「そこに寝転がるそいつを叩き伏せられたんなら、酒場で寝てもいいぞ」
「店主、それでいいんだな」
 ヒゲ男は面白そうに野卑た笑みを浮かべると、こちらに目を向けて「悪く思うな」と、それこそ山賊の捨て台詞のように言い放った。
「知るか。死ね」
 嫌が応でも高まる緊張感の中で、男は拳を固めて肩を回す。もう一方の当事者であるクレオは、床に両手を突き出して立ち上がろうとし、力が入らないのか再び突っ伏していた。
「まぁ、待て。ここで喧嘩されちゃぁ、見回り役どもが駆けつけちまう。どっか、外でやってくれよ。帰ってきたほうを泊めてやるから。タダでな」
 要するに外で掴まれってことなんだろ、としかレオネには取れない店主の発言だった。
 商人ってのは。

 レオネは、クレオと共に貿易商たちに囲まれたまま歩いた。とはいえ、たかだか三人の貿易隊であるが。
 若いというより幼い少年を先頭に、二人の護衛人に挟まれ、レオネは、クレオの肩を支えながら歩いていた。クレオが時折足を絡めて転びそうになると、こちらと同じくらいの年齢の、もう一人の護衛の青年が支えてくれた。
「あ、ありがとうございます」
「ま、気にすんなって。そこの酔いどれに青痣を二、三付ければタダで泊めてもらえるんだ。こっちとしてもありがたいってもんよ」
 その青年は眠たい目で気楽に笑うが、付け足す言葉は酷だった。
「まぁ、クアーの旦那は主人であるザールスを侮辱されて怒り心頭みたいだから、骨の二、三本に変わるかもしれないけど。ま、大丈夫。死にはしないって」
「おい、敵と馴れ合うな」
「へいへ〜い」
 クアーと呼ばれていた、上下に毛の生えた丸顔のヒゲ男が恫喝的に言い放つと、青年は適当に片手を上げて離れていってしまった。
 妙に軽い。本当にこいつらは護衛に従事する傭兵なのだろうか。腕に覚えのある新参者か? この国での諍いはご法度だということも知らないらしい。そもそも本当に貿易商なのか? 荷馬車はおろか、駄馬の一頭すら連れていない。各々が背負うカバンくらいしか荷物が見当たらない。そもそも三人しかいない。えらく小規模な集団だ。ただの旅なのか? 旅行に山越えを選ぶというのも、可笑しな話だが。
 また、クレオが躓いた。たたらを踏みながらレオネはなんとか踏ん張る。
「おい、本当に大丈夫なのか? 骨くらいは折るつもりらしいぞ?」
 山神の使いを彷彿とさせる眼差しは錯覚だったのだろうか。今のクレオはただの、あと少しと言いながら永久に起きそうもない子供の顔に見える。
「国の武人を信頼できないか?」
「そうじゃないが、ほら、足だってフラフラしてるし」
「大丈夫だ。動は揺れる心から始まり、肉体の安定により完成する。ヒヒ爺が言ってた」
「なんの話だよ。揺れてるのは心以上に足じゃねぇーか」
 そんなことを言い合いながら、近くの空き地まで辿り着いてしまった。路地裏の狭い空間なだけに、見回り役がここに駆けつける可能性はほとんどないだろう。案内したのは、文官という役割り上、国の地理にもある程度詳しいレオネで、できうる限りの遠回りをしてきたつもりだった。クレオは素行に多少問題ありとはいえ、曲がりなりにもジャクメル最強クラスの武人である。酔いさえ冷めれば勝機はあるのだ。
「おい、大丈夫そうか?」
 頷くクレオを離してやると、腰に取り付けた大鉈を外してこちらに手渡してくる。そしてままならない足裁きで壁際まで歩いていき、嘔吐した。
 貿易商の一団は――幼い貿易商を除いた残り二人は爆笑したが、それでもクアーは寛容になるつもりはないらしい。背に二つ折りにして括り付けていた巨大な柄斧を外して眠たい目の青年に預け、拳を固めて肩をほぐすように回す。
「おい兄ちゃん。お忙しいとこ悪いが、そろそろ始めさせてくれないか。我々はまだ先が長くてな。坊ちゃんにはちゃんと静養を取ってもらいたいんだ」
 クレオはまだしばらく咳き込むように吐き出していたが、口を拭いながら振り向いた。山神の使いが降りてきている。
「そう慌てるなよ。冬眠前の採集にはまだ早いだろ? 熊さん」
 言われてみれば、山賊と言うよりは熊に近い。体毛も濃いし。
 眠たげな目の青年は再び声を上げて笑ったのだが、眼球が大きい熊の双眸にねめつけられ、すぐさま沈静化する。
 酒場で中断された緊張感が再び網を張り、拳の応酬を求めて空気が震えていた。
「兄ちゃん、構えくらいとるんだな。それが始まりの合図だ」
 そう促すヒゲ男は両手の拳を上げて、左腕を前にやや半身に構えてクレオを見据えていた。クレオは対照的に両手をぶらりと下げ、千鳥足のままに近づいていく。
「優しい熊だな。手当たり次第に食い荒らすかと思えば」
 結局、その一言が引き金となった。
 クアーは後ろに引いた足で地面を蹴りながら、前に出した足をクレオから逸らさぬように摺り足で近づいていく。残りの一歩半の間合いを一気に飛び込みながら、右の拳を打ち出した。
 足が揺れるに任せて進んでいったクレオは、ちょうど殴りかかられるタイミングで左足を右足に交差し、クアーのやや左側へと倒れ込んでいった。おかげでクアーの拳を避けられはしたが、バランスを崩し――交差していた足を解すように腰から全身を回転させ、裏拳を放つ。
 空気が鳴いた。
 鳴り止むと、静寂が訪れる。
 クアーが咄嗟に屈んだこともあるが、裏拳は熊の髪を掠りもしない大きな空振りだった。
 だがしかし。暗がりだというのに、クアーの冷や汗が目に見えるようだった。唾を飲む音が聞こえたかと思えるほど。実際のところレオネには、その拳撃は見えていなかった。打撃の後に伸びきったクレオの腕と、風圧で靡いた熊の髪でようやっと、そのようになったのだと悟った程である。
 余りの拳速に場が、戦慄していた。
「失敗しちまったなぁ」
 そんな中でどこか間が抜けた呻きが、場の中心から漏れていた。クレオは外れた自分の拳をいろんな角度から眺め、「膝が落ちたのがいけねぇんだろうな」とかなんとか、クアーに見向きもせずに呟き続けていた。失敗の原因らしい膝を叱責するように何度も叩いたりもしている。
「ふざけおって!」
 拳撃に圧倒されていたくせに、クアーは連撃を叩き込まれなかった僥倖も忘れ、左の拳を突き上げるようにクレオの腹に打ち込んだ。身体が折れて下がった顔に巻き込むような右拳を叩き込む。
 あっけないほど見事にクレオは吹き飛ばされて、こちらの足元に戻ってきた。
「だ、だいじょーぶなのか?」
「……痛い」
 目尻に涙が溜まっていたが、細まっている瞳が射抜くように鋭いのは、戦意を失っていない証拠なのだろう。降参を進言するのは、レオネの身によくないことが起こりそうだった。
「おら、立てや兄ちゃん」
 クアーが怒鳴りつけるが、クレオは無頓着に地面を叩いたり小突いたりしていた。そうして、仰向けのままクワガタみたいに軽く曲げた両足を上げて見せる。
「いや、いい」
 クアーといわずとも、訳がわからなかった。地面に背中をつけた上で腹まで見せて、降参の仕草としか取れないというのに、クレオの目は剣呑に輝いているのだから。とりあえず、レオネは自分の足元で寝転がるクレオに訊ねた。
「ふざけてるのか?」
「真剣だが? 足場は安定しているし、奴の腕よりも長い足が二本、自由に動くんだ。負ける要素があるのか?」
 訊ねた自分も馬鹿だが、クレオはもっと馬鹿だろう。そう確信して、自分は離れることにした。馬鹿に馬鹿にされた熊が、えらい剣幕で近づいてきているから。
 だが、クアーはクレオの足が届く距離の直前で立ち止まった。そりゃそうだ。どこを殴ればいいのだ。飛んで体重ごと肘を落とすことはできるかもしれないが、おそらくはクレオの二本の足が迎撃するのだろう。確かに、目の当たりにすると攻めにくそうな構えだ。
 眠たげな目の青年が上げていた口の端が落ちていき、静けさが増していった。身動きの取れないクアーと、仰向けで睨み合うクレオが静寂を高めていく。
「ここだぁ!」
 ようやくクレオというクワガタ虫の攻略法を見つけたクアーは、叫びながら右足を引き、触覚のようなその足を叩き折ろうと、右の下段回し蹴り放つ。
 速かったのはクレオだった。クアーの動きを読んでいたのだろう。尺取虫が身体を伸ばすように跳ねて、両足をクアーの軸足に伸ばす。右足でクアーの足首を抑え、交差させた左足の爪先をクアーの軸足の膝裏に差し込む。そして例の裏拳のように、交差した足を解す勢いを利用して全身を回転させ、クアーの左側面に回りんだ。
 今度はうつ伏せになっていた。
 軸足を狙われて回し蹴りを中断されたクアーがそちらに向き直ると、クレオは四足になって馬がそうするように後ろ足を伸ばし、クアーを蹴り上げた。
 肉厚のクアーが宙を舞った。
 吹っ飛ばされたクアーを受け止めた眠たい目の青年が、目を開け広げる。どこか嬉しそうに笑ってから、胸部を蹴られて咳き込むクアーに進言した。
「クアーさぁん、あいつ、格が違いますわぁ。今日も野宿にしときません? あなたも言ったように、明日のことも考えないと。……って、聞こえてねぇや」
 青年の腕の中のヒゲ男は、気絶したらしい。力なく項垂れていた。
 なぜなのか、笑えた。声にもならない、恐らく顔も笑顔とはいえない、奇妙な笑い方である。細かく息を吐くように、レオネは笑っていた。
 ほぼ無傷で打ち倒している。酒が入っていなければ、それこそ一打すら許さず倒せたに違いない。
 これが、自分の知るクレオなのか?
 闘器に乗っている時の彼ならまだしも、生身で闘うクレオを始めて見、レオネは、寒気にも似た喜びを味わっていた。本当に喜びなのかすら、よくわからない。
 拍手が起こった。一拍子ごとに間を置いた、冷やかすような拍手ではあるが。
「お兄さん、あんた強いんだねぇ」
 眠たい目をしたあの青年であった。失神したクアーを幼い貿易商の足元まで運び、もう一度クレオの傍まで寄ってくる。両腿に取り付けた直ぐ刃の剣を抜いた。
「悪いが、オレの相手もしてくれないか」
 眠たい目に戦意があるのかないのか、口元は笑っていた。レオネには判断が付かなかったが、クレオは手を上げて大鉈を要求してきた。
 やめてくれ。
 すると、山神の助けか、遠くから笛の音が聞こえてきた。続いて怒声がする。
「こらそこ、何をしているかぁ!」
 見回り役らしい。青年はため息を一つ吐き出し、剣を鞘に収めてくれた。
「邪魔が入ったみたいだな。まぁ、またいずれってことでよ」
 と手を差し出してきて、どうやら握手を求めているらしいのだが、クレオはぞんざいに振り払ってしまう。また剣呑なムードに発展するのかとレオネは戦々恐々見守っていたが、青年はニヤりと笑って背を向け、「またな」と、クアーを担いで走り出した。
「おい、私たちも逃げるぞ」
 クレオはしばらくその青年の背を目で追っていたが、もう一度強く言い聞かせると、ようやく頷いて、走り出してくれた。すぐさま足が縺れて転んだので、仕方なく肩を貸して走った。
 路地裏の隘路でゴミや浮浪者を時折蹴飛ばしながら逃げ回っているうちに、大路に出たわけでもないのに走りやすくなっていった。時折クレオの巻き添えをくって転んだり、クレオに吐かれたりしているうちに、辺りに家らしいものが見えなくなり、畑が多くなっていき、すでに国境を越えたと告げるかのように森が広がっていた。森の中に飛び込み、茂みに潜み、追ってきた見回り役が諦めるのをジっと待っていた。
 やがて、辺りに人の気配が失せ始める。
「ごめん」
「今頃なに言い出すんだよ」
「でもほら、ゲロつけちゃったし」
 そこかよ。張り倒してやりたいくらいの激情だった。万が一見回り役に掴まるようなことがあれば、これまで苦労して積み上げた上役との信頼もなくなってしまう。最悪、文官という職すら失いかねない。死んだも同然か?
 ただ、自分よりも筋肉質で自信過剰で適当で無駄に明るいクレオが、背中を丸めて地面ばかり眺めている姿を見せられては、握り込んだ拳も上げられない。
「チャンスだったんだよ。あのクソ親父を見返す、チャンスだったんだよ。一緒に派遣されれば、あいつの目の前で見返してやれたんだよ。あんたが付きっ切りだった兄貴より、母さんに育てられた俺の方が、って」
 風がざわめき、虫が、鳴いていた。
 どこかの昆虫学者の文献で呼んだが、一年という短い一生の中で添い遂げる妻を見つけ、子を産むための求愛行動であるらしい。けれどもその実態を知るまでのレオネは、季節を彩るために山神が寄越した賜り物だとしか考えていなかった。
 そう。一介の平民でしかなかった自分が文官になり果せたのも、そんな必死な思いを政治に反映させたいがため、その一念であったはずだった。
 名家の生まれであるクレオにも、そんなやりきれない思いがあったとは。
 たぶん自分は知っていた。いや、察していた。だから他の名家生まれの官吏たちなどより親しく付き合っているのだろう。元は昇格目的で近づいたにも関わらず、いつのまにかクレオの強引さに惹かれていたのは、ひたむきな一念が垣間見えたからであろう。
 結局こいつも、上手くいかない人生だとか運命だとかいうものに必死で抗っているだけで、下手くそなりに、不器用なりに、その思いを貫こうとしているだけに過ぎない。
 そう考えてしまうと、腹を立てて握り込んでいた拳が緩んでいく。
「まぁ、いいさ。面白い物を見せてもらったからな」
 言うと、物凄い勢いでクレオが立ち上がり、振り向いた。
「え、いや、あれだよ。おまえが本当に強かったこととか……」
「んなことたぁどうでもいい!」
 てめぇ。
「聞こえないか」
 耳に手をかざして森の奥に目を向けるクレオに、もう酔いの色はうかがえなかった。代わりにまた、山神の使いの如く切れ上がった鋭い眼差しを見せ、レオネの口を閉ざす。
 仕方なくレオネも耳を澄ますと、確かに何か物音がする。地震? 眼前の葉が微かに揺れているような。
「こっちだ」
「おい、待てよ」
 走り出したクレオを追いかけるのだが、森の、しかも夜の森の中だというのに追いつけない。酔いが醒めれば、彼我の体力差を改めて認識させられる。
 わずかに見失ったが、一直線に走っていたクレオの走路をなぞっていると、彼が立ち止まっていた。横に並ぶと、クレオは息を切らしている様子もない。
「……だ」
「な……なんだって……はぁはぁ」
 そのとき目前の、大きな杉の木の先端が左右に分かれ、巨大な影が現れた。
 濃紺の三日月夜の中で浮かび上がる絶対的なその質量は、闇に紛れるような巨体の中で二つの光源をともしてこちらを見下ろしていた。
「闘器だ」
 喉を震わすようにもう一度、クレオはそう呟いた。