西の森へ続く道は大きな通りなのだが、国同士を結ぶ街道ではないため、整備は杜撰なものだった。かろうじて均された道には荷車の轍が残り、あちこちに小石が散らばっている。どうやら比較的新しい闘器の足跡があったり、おそらく運車のものであろう。荷車と比べて倍以上もある轍が残っていたりもした。
ピジンはそんな道を、麻の外套をまとって邁進していた。夏季に外套、という組み合わせからくる物とは違う、疲労の汗を浮かべながら。
「あらぁ、ピジンさん。どちらへお出かけですかぁ!」
畑の中から野菜を直売してくれた女が声を上げた。ピジンは手を振り、「ちょっと国務で西の森まで。お仕事頑張ってくださいねぇ」とだけ伝えた。顔に泥を付けた女は呆気に取られた面持ちであったが、気を取り直して続けた。
「そうですかぁ! 頑張ってくださぁーい」
もう一度ピジンは手を振り、彼女とお別れを告げた。農民は大変だ。太陽が頭上に上っても終わりというわけにはいかない。相手が生き物だから当然なのだが、その割りに手に入るお金もスズメの涙ではやってられないだろう。
ピジン自身も何度もそんなことを考えた時期があったものだ。だから英雄の妻に――俗に言う玉の輿に乗ったというわけではないが、宮廷に入れたのは素直に嬉しかった。のだが、怠惰を貪るという宮廷の仕事にもすでに飽き飽きしている。日に干された麻の匂いが懐かしい。土の香りが心地よい。
ピジンは胸いっぱいに呼吸しながら、西の森まで足を進めていった。
道の終わりは、そのまま西の森である。常緑樹と落葉樹が混ざり合った壁がそそり立ち、境界線を引いたように、茂みや木立が林立している。その境が、そのまま国境だった。
つまり、焼畑だった。森を焼き払い、農作できるところまでがジャクメルの国である。つまりジャクメルは、西の森が続く限りは国土を広げることができる。とはいえ、貿易国であるため農民の数が絶対的に足りないのだし、土地を広げることに何の利点も見出せはしないが。それに、森を焦土と化してしまえば、当然狩れるであろう猪や鹿を激減させてしまう。西の森に住まうエルフたちの怒りを買ってまで、国を広げることもない。
西の森を改めて眺め、ピジンは自分が推し進めている国政を思い出してしまった。ただ森が好き。そんな気持ちにあれこれ理由をつけた結果、今ではそういったことばかりが頭に過ぎってしまう。自分も、宮廷に影響されたということなのだろうか。
ピジンはため息を吐きながら、茂みの中へと踏み出した。
境界線を引いていた茂みを越えると、樹木の葉に隠され、日の光りは極端に少なくなる。真昼ならばまだしも、傾きかけた太陽では森の中まで照らせはしない。日陰ばかりの薄暗闇を、木漏れ日がかろうじて照らし出していた。
目が慣れてくると、そんな中に一人の青年を発見する。息子と同じくらい年の頃の、着こなしが少しおかしい男だった。鉈を片手に、低い位置に生える枝を集めている。薪にするつもりなのだろうか。時折、辺りを気にかけるような仕草をしている。
ピジンは何も言わず、その男の隣を抜けて森の奥へと向かっていった。
「あれ、奥さん。どちらに行かれるんですか?」
青年は、酷くなんでもないような口調で語りかけてくる。先程、辺りを見回していたときに気付いていても良さそうなものだが。鉈を持つ手で汗を拭う彼は、まるで今始めてピジンの存在に気が付いたとでもいうように振舞っていた。
「ええ、ちょっと木苺を採りに、森の奥まで」
「お一人で、ですか? 危険だと思いますが。なんなら、自分がお供しましょうか」
「んふふ、自分、だなんて……まるで武人さんみたいね」
青年は、昔は武人を目指していたなどと言い訳をして、謙遜するように照れ笑いをしていた。けれど、鉈の握り方が少しだけ変わっている。ぶった切るために握り固める持ち方から、手首を使えるように余裕をもったそれに。
ピジンはしばらく談笑した上で、大きく微笑んで会話を打ち切った。
「でも、あなたのお仕事の邪魔するわけにも行きませんでしょう? 一人で大丈夫ですよ」
背を向けて歩き出すと、男は「そうですか」と諦めの言葉を吐いていたが、鉈を振るう音は聞こえてこない。「やっぱり心配ですよ」という、諦めの悪い言葉と共に、足音がついてきた。
充分かしらね。
青年に自分という人物をある程度認識させたことを意識して、ピジンは立ち止まり、肩越しに振り返って微笑みんで見せた。
「心配などなさらないでくださいよ。もっとも、戦地から大きく外れたこの国に、南の国からの野党がいるのだとしたら危険かもしれませんけどね」
足音はなくなったが、青年が立ち止まった訳でもなさそうだった。跳躍したらしい。こちらを押し倒すことはしなかったが、立ったまま羽交い絞めにされる。
「何を知ってらっしゃるんですか?」
「国王様からの言伝があります。シャナちゃんのお父様はご在宅ですか?」
冗談めかして微笑んでみたが、青年の目はクスリともしない。
件の青年、ルーバイスに連れられてそのまま森の奥まで直進すると、うずくまった闘器とそれが引いてきただろう運車が停留していた。この辺りは開けているが、逆裂きになった切り株などを見た限りでは、闘器がキャンプのために無理矢理切り開いた土地なのだと知れる。茂みなどの少ない所を選んだのであろうが、木の根や小石が地面には散乱している。
テントなど、どこの国の物でも似たようなものだ。形状や容積の違いこそあるが、薄布が雨風を弱める程度のものでしかない。厚手の敷布くらい使うのだろうが、寝心地が良いとも到底思えなかった。シャナはこんな環境で寝食を行っていたのであろう。ピジンは悲しい気持ちになってきた。
「ルーバイス君。女の子には優しくしてあげなきゃダメですよ」
「は? はぁ……」
「まぁ、そんなことはさておいて、シャナちゃんのお父様はまだかしら?」
「今、呼びに行ったばかりじゃないですか。もうちょっと待ってください。オヤジさんは部隊長だけじゃなく搭乗者も担ってるんで、忙しいんですよ」
「そうなの」
脇に立つルーバイスに微笑みかけ、仕方なく待たせてもらうことにする。急ぎの用事だとは伝えたはずなのだが、相手も忙しいのならば致し方ない。自分の夫も搭乗者ながら将軍として戦略から戦術まで担い、四方駈けずり回っていた。ピジンは諦めにも似た気持ちで佇むしかできなかった。
「ご婦人、まぁそう警戒なさらず、お座りください」
ルーバイスよりも幾らか年嵩な青年が、木のコップにブドウ酒を持って現れた。もう一方の手には敷布を持っており、地面に敷いてくれる。ピジンは礼を述べてからコップを受け取り、その敷布に腰を下ろすことにした。
「げっ、酒はまずいでしょう。親父さんに怒られますよ」
「ルーバイスは心配性だな。大丈夫だよ。それよりもお客さんに失礼があるほうがまずいさ。帝国の沽券に関わるだろう。
それではご婦人。私はまだ所要がありますので、この場は失礼します」
言うなり、その青年は一礼して踵を返し、行ってしまった。どうにも武人という感じがしない。宮廷で、女性の尻を追っかけながら重職の方の機嫌を取っているのが似合いの所作である。シャナといい今の青年といい、どうにも部隊の編成に疑問を感じる。
「あの方は?」
「え? 副長ですよ。オヤジさんが操縦に専念したら指揮が取れないでしょう? だから、その場での戦闘指示などは副長がやるんですよ」
「へぇ……あんまり武人さんには見えませんね。スケコマシの方が似合いそう」
自分と共に、去っていく副長の背を見守っていたルーバイスがこちらに向き直る。
「どうかしましたか?」
「いや、あの、なんていうか……凄い言葉を使うんですね」
「そうですか? それほど隠語めいたものとも思えませんが」
「いや、そうなんですが。なんというか、あなたの雰囲気に似つかわしくない」
そんなこんなでルーバイスとお喋りをしていると、彼の肩に手がかかった。厚手の手袋を付けているみたいな、大きく、ふしくれた手が。ルーバイスを引っつかんで、その手の主は自分に向きなおさせる。
「ルーバイス、一つ聞きたいことがあるんだが。おまえは急ぎの用事で私を呼んでいたんではなかったのか? しかし、いざ来てみるとおまえは、どこで捕まえたのか知らんが綺麗なご婦人と楽しそうに談笑している。これはどういうことだ?」
背中を見るだけでもルーバイスの狼狽振りは明らかであった。禿頭の、身長はそれほどでもないというのに筋肉質のその男に睨まれ、竦みあがっているのが見て取れる。
別に彼を助けるつもりはなかったが、ピジンも立ち上がった。
「私も一つ、お聞かせ願いたいんですが」
怯え、慄きながらも振り返るルーバイスと筋肉質な禿頭がこちらを見詰める中、ピジンは自らの疑問を氷解するべく、質問の内容を口にしていく。
「私はシャナちゃんのお父様との面通しを希望しましたのに、なぜこの方が現れるんでしょうか? 理解に窮します」
こちらの質問の意図が汲み取れていなかったのか、二人の男は互いの顔を見合わせて難しい顔をしていた。しかしどこかで合点がいったのか、禿頭の男がルーバイスを押しのけてこちらの前に立つ。「仕事に戻れ」と言われ、ルーバイスは国境付近に向けて走り出してしまった。しかし、すぐさま木陰に入り、気遣うようにこちらを盗み見ている。
「あなたが、私を呼びつけた方ですか。しかも、シャナのことをご存知だというのだから興味深い。お話をお伺いしましょう」
ピジンは男の視線を遮るよう、手の平を向けた。丁寧な口調には気を使うが、有無言わさず、断固とした決意を乗せて、ピジンは言葉を紡ぐ。
「いいえ。私がお呼びしたのはシャナちゃんのお父様であって、あなたではありません。事はジャクメルの国務に当たることなので、部隊長の方以外に軽々しくお話してよろしいものではないのです」
禿頭の男は、すでにない頭髪を掻くような仕草を見せて、一つ咳払いしてから呟いた。
「私が、部隊長です」
「嘘を言ってはなりません! 確かに、これから蹂躙しようとする国の使いなど、あなた方からすれば取るに足らない者かもしれません。確かに私のようなおばさんの言に耳を傾けるのも煩わしいかもしれません。しかし、こちらとしては国の被害を少しでも軽くしようと試行錯誤の末に導き出した答えなのです。重要なのです。
部隊長である、シャナちゃんのお父様以外には話すことはできません」
「ですから、私がシャナの父です」
「まだ冗談を続けるつもりですか。いかに温厚な私といえども時には心荒ぶる時もありましてよ。良いでしょう。あなたの嘘を喝破して差し上げます。まず第一に威圧的なその眼光、次に岩石のような輪郭、そして隆々としたその筋肉がシャナちゃんにありますか。何より特徴的なことを言わせてもらえれば、彼女には美しく豊かな髪がございます。それに対し、あなたは……貧しく荒れた土地を整備することで眩いほど輝く街道とすることはできようとも、一度荒らした土地は草木豊かな森へと戻りはしないのです! 自然は掛け替えがなく、だからこそ尊いのです。むやみに焼畑をして良いものではありません!」
油を塗ることで陽光を反射し、ある種の艶すら出しているその男の頭を見ているうちに、ピジンは西の森に対する宮廷への意見を思い出してしまった。確かに美しい街道は人の目に快いものかもしれない。しかし、森は人の心を豊かにしてくれる。その重大さをわかっていただきたい。
ピジンが我に帰ると、男は、もの悲しげに俯いていた。
「それでも、シャナの父なんです、はい」
「……髪は?」
「剃りました」
森のそよ風は良い。
嫌なことを全部、そっと持ち去ってくれるから。
ピジンの妻になったばかりの頃、宮廷では色々言われていたものだ。畑の清々しい香りがするだの、青々とした野草のような方だの。今でこそ、畑や野草の重要性を彼女らが辟易するほど説いてしまうという対処法を身につけたが、あの頃はこうやって森まで身を運び、風に涙を拭ってもらったものだ……
ピジンは木漏れ日を追うように視線を走らせて、緑葉の隙間から空をのぞく。日が傾き始めたとはいえ、まだ青い空は大きく、雄大であった。
そう、何もかも忘れてしまいそうなほど。
そよ風が、頬を撫でていった。
ピジンは外套の両側を摘み、スカートでそうするように広げて深々とお辞儀をする。
「ジャクメル王国国王の命によりこの地に参じた、ピジンと申す者です。このような良いお日柄にお会いできたのも何かのご縁。どうぞ、和平の交渉も今日のお天気のよう、穏やかな温もりを持ってお望み頂けますよう、お願いいたします」
「え? あ、いや――あぁ、もういいです、忘れてください」
「何を、でございましょう」
禿頭の男――部隊長を務めているシャナの父はどこか困ったように狼狽していたが、そんな曖昧な気持ちに自身でケリを付けたらしい。自らの頬を、音がなるほど強く叩いて、真摯な顔付きを見せる。
「それで、ご用件というのはどのようなことでしょうか」
「和平の交渉。それは、私がシャナちゃんのことを知っていると再三言い続けてきたことで、貴殿にはもうお察しが付いていらっしゃると思いますが」
シャナの父は鼻を掻くようにして、軽い調子で答えてきた。俄かには信じられない、とでも言いたげに。
「補給が受けられる、とでも?」
「はい。快く、とまでは行きませんが、国王もご承知のことです」
「とても信じられませんな。ここいらは共和国が支配する地域だと聞き及んでいます。しかし、我々はそんな共和国に敵対している身」
「共和国によって繁栄してきたのが我が国だというのは事実ですが、支配されている訳ではありません。それに、貿易で財を成す我がジャクメルが害を被るより、無害のまま戦争で疲弊した共和国に援助金を出す方があちらも喜ばれるでしょう」
「ほほう。共和国は、敵に組する者すら許すというのですか」
「組するわけではありませんもの。山神の使いが家畜に手を出さぬよう、山の小動物は狩らないことと似ているかもしれませんね。追い返す手段ですよ」
シャナの父が顎を擦って、頷いた。しかしまだ、相好を崩したわけではない。
「補給をしていただけるという言葉は了解いたしました。しかし、それが本当かどうかは――おいそれとは信じられませんなぁ。第一、シャナが帰ってきていない」
「ご自分の娘さんがこの旨を伝えたとして、貴殿は信じられますか? そんな上手い話があるわけがないと一蹴なさることでしょう」
「敵の部隊に補給をしてもらえるだけでも、充分に上手く行き過ぎてますよ」
「そうでもありませんよ。国王は、補給を受けただけでは飽き足らず、あなた方が暴れだしはしないかと危惧しております。そのため、補給地には国の近衛兵団が待ち受けております。その上、シャナちゃんは人質として捕らえられておりますから」
シャナの父が、顎を擦っていた腕を下ろした。笑っている。
「それはつまり、補給のために森から出てきた私の闘器を、いつでもタコ殴りにできるというわけではないですか? 罠、を張って帝国の部隊を倒し、共和国への心証を良くしようとしているように見えますがなぁ」
「ご想像にお任せ致します。ただ、仮に罠であれば、ここまで状況をお話しするでしょうか。用心深い、我がジャクメルの王ならなさらないでしょう」
「確かに用心深いようで。シャナから部隊は一つしかいない聞いているのでしょう? なのに、わざわざ国を挙げて罠を張ろうというのですからなぁ」
「そう思われぬよう、私が参ったのです。どうぞ、人質として捉えてくださいまし」
「しかしですね、どこの誰とも存ぜぬあなたが、果たして人質と成り得るのでしょうか? 私たちも命は欲しいのです。そのくらいの疑問は浮かぼうというものですよ」
ピジンは、自分が笑っていることを自覚せざるえない。自分の描いたシナリオ通りにことが運んでいるのだから。あとは、これで信じるかどうか。
麻布の外套に手をかけ「これは失礼しました。自己紹介がまだでしたね」一枚布である外套を脱ぎ去り、内側の巨大なタペストリーを見せ付ける。
「この国の英雄的将軍、ガリオル・ピジンの妻でございます」
麻布で織られた、コンドルの頭部を象ったジャクメルの国旗を掲げながら、ピジンは身に付けられる限りの宝石に装飾された自らの姿を露にした。
木の根がはびこる森の中、暮れていく日に背を向けて闘器が運車を引いて歩く。径が大きな車輪とはいえ森の中。緩衝材が少ないため、ピジンの臀部へ伝わる振動は激しかった。
そんな、揺れる運車の中に座する男たちが黙り込み、外套に身を包んで佇む一人の男を見上げていた。揺れる運車の中、絶妙なバランスを保って仁王立ちしている男を。
男は礼をするように軽く頭を下げてから、外套の一端を掴んでひるがえす。
「この国の英雄的将軍、ガリオル・ピジンの妻でございます!」
副長と呼ばれていた青年である。コンドルの頭部を象るジャクメルの国旗を両手で大きく掲げ、叫んで見せてくれた。歓声とも嬌声ともつかぬ声が沸きあがる。
「あらぁ、私はそんなにはしたなくありませんよぉ」
ピジンは笑いながら、国旗を丁寧に畳んでから自分の隣に座る副長に文句を言った。なのに彼は「いえ、これ以上でした。大したものです」と、風を押しているような気分にさせてくれる。ピジンと一緒になって笑っていた部隊の者たちも、副長の言を後押しする。
そんな風にピジンが苛められているのが我慢ならなかったのか、ルーバイスと名乗っていた青年が非難がましい声を上げている。ルーバイスは他の男たちを掻き分けて、最前列に座っているピジンと副長の隣まで辿り着いた。
「副長! 失礼の方がいけないんじゃなかったんですかぁ」
結局のところ、それはピジンを直接弁護するものではなく、彼自身の疑問であった。ルーバイスの剣幕は噛み付くほどであったが、副長は笑いながら軽くいなしている。
「何を言うんだ、ルーバイス。ピジン婦人が御所望なさるから、さっきの鮮烈な自己紹介を再現してあげただけじゃないですか」
「それもこれも、副長たちが影でひそひそ笑うからじゃないですか」
「でも、なぁ?」
副長はピジンの脇に置いてある大量の宝石を鷲掴み、運車内に座り込むみんなに見せ付けた。当然、ピジンが身に付けていた装飾品である。
「国旗をマントにしているだけじゃなくて、さらにこんな物を身にまとっての自己紹介だ。噂するなという方がどうかしてますよ。ね?」
と最後に、副長はこちらに向けて微笑んでくる。そのどこか幼い、自然な笑顔にピジンも思わず微笑んでしまい、それでも文句を言わずにはいられない。まったくこの青年は。女を小馬鹿にすることが上手い。自分も夫や息子がいない若い娘の頃ならばこの青年に惹かれていたのだろうか。いや、むしろ逆か? どちらとも判然としないが、お喋りをするのには楽しい男だと認めながら、文句を挟む。
「そんなに変でしたか? 信じてもらうには一番だと思ったんですけどねぇ。おばさんにはもう、若い人たちの感性はわからないのね」
文句というよりイジケになってしまった。それならばそれで、ピジンは俯いてヨヨヨと泣いて見せる。
「こいつは失礼しました。いやいや、信じましたよ。見事に。なにせ、我々も略奪行為なんて真似はしたくなかったんですよ。シャナなんて真っ先に反対して飛び出して行きましたからねぇ」
副長は笑い続けていた。よっぽど気乗りしなかったのだろう。ルーバイスもその点については頷き、それから首を左右に振ってまた、失礼だの失礼でないだの副長にからんでいた。ピジンもそれを見ながら笑い、時々涙を流して見せてルーバイスを狼狽させた。
要するに、ふざけ合っていた。
ピジンはそれなりの――事の次第では夫の全財産すら失ってしまうほどの覚悟を秘めて西の森まで赴いたというのに、今となってはこの有様である。打ち解け、ふざけ合い、笑い合っていた。宮廷の中で、これほど楽しく時を過ごせたことがあったかと思えるくらい、ピジンは心安らいでいた。敵のど真ん中だというのに。
だいたいにして、自分の持つ敵という感覚が緩いだけなのかもしれないが、それだけが原因とは思えない。ピジンが考えるに、あまりにも彼らが武人然としていないのだ。
普通に町に住んでいる真面目な青年だったり、宮廷のような社交場で女性の尻を追いかけているのが似合う男だったり、それこそ武の道一筋の頑固な男だったり。そんな人たちが不自然に一つの部隊として集まり、こなれて、仲良くなっているような。とても戦のために集まった男たちに見えないだけに、自分の気分が楽なのだと思う。
自分の推測が正しいのかどうか試そうとしたわけではないのだが、ピジンは思わず尋ねてしまっていた。
「本当に、あなたたちは武人なのですか?」
するとどうだろう。男たちの歓声嬌声が一時鳴りを潜め、沈黙が横たわる。そうかと思うと一人が無理矢理噴出すようにして笑い、周りの男たちもみんな、伝染したように笑い出す。先程までとは違う、どこか乾いた、空笑いを。
まずいことを訊いてしまったのだろうか。すみませんと謝るのも、彼らの空笑いを湿らせるに過ぎないと思い至るだけに、ピジンは何も言わずに黙するしかなかった。
「違うんですよ、元々は」
空笑いに終止符を打ったのは、沈鬱顔の副長だった。それでも微笑むのが彼のアイデンティティーなのだろうか。男たちは空笑いをやめ、副長の言葉を邪魔しまいと黙っていく。
「それを今、このご婦人に言う必要はない」
押し黙った運車内に、闘器と繋がる伝声管からこもった声がこぼれる。こちらにも沈鬱色が滲んでいるが、恫喝的な調子が強かった。
「しかし、部隊長……」
未だに口元を緩ませてこそいるが、副長は軍隊調で懇願していた。
「和平の肝となる情報が増えてはならんのだ。不確かに増えていった情報はしょせん噂と成り下がり、事の決定力を低下させる。確かに協力してくれる人も増えるかもしれんが、共和国中心――レイマス自体が動かなければ、本質的に意味はない」
伝声管から紡がれる台詞はどこか歯切れが悪く、声主の気持ちを代弁するかのように低い調子であった。けれども断固と自分を曲げぬ、強い芯が通っている。副長は奥歯を噛み締めながら、「はい」という、彼には似つかわしくもない素直な返事をこぼしていた。
そんな、悲しいやり取りばかりがピジンには、いかにも戦を生業とする武人めいて見える。戦争という原因が生み出した、苦しみを抑え込んで闘う武人に。
苦しいならば、やめれば良いのに。
楽しいことをすれば良いのに。
そんなことすら思いつかないのか。それとも、思い付いてもやめられないのが武人というものなのか。女である自分には、そもそも彼らとわかりあうことができないということなのだろうか。わからない。
わからないけれど、言っておきたいことがあった。
「歯車、というものはご存知ですよね」
運車にいる男たちが顔を上げることはなかった。けれど、ピジンが何を言うのか耳を傾けるのが気配でわかる。何かを期待しているようにも思えなかったが。
「たぶん私のような女よりも、良くご存知でしょうね。私が知っていることなど、本当に少しのことだけです。どうも複雑な仕組みとなると、理解できそうもありませんから。
けれども、少しだけ知っているで、聞いてもらえませんか?」
「今、話さなくてはならないことですか?」
伝声管からは幕を引こうとする、強制的な声音が聞こえてくる。
「他に、お話しすることがありますか? ないのならば、私のお喋りに付き合ってくださりませんか?」
「…………こちらの情報は、お喋りできませよ」
構いませんとピジンが言ってしまえば、シャナの父はもう止めようとはしなかった。運車内の男たちも、特に止めようとはしない。興味を抱いている様子もないが。
「私が知っている、歯車のお話ですよ。
貴方たちが住まう帝国ではどのようになっているか知りませんが、ジャクメルは、共和国と交易を持つようになってから小麦が主食となりました。でもこの小麦はイモと違って、一度臼で挽いてしまわないと食べられないんですよ。正確には、熱も通さないと。
まぁ、重要なのは臼なんですけど……臼って、意外と重いんですよね。女の仕事としてはそれなりに重労働なんですよ。だから、共和国は水車の技術も教えてくれて、ジャクメルでは主に水車で小麦を挽いています。
でも不思議ですよね? 水車って縦の回転なんですよ。でも、臼は横の回転をしている。そのことがどうしても気になって、昔、製粉をしている方に訊ねたんです。そうしたら、歯車が力の方向を変えているって答えてくれたんですよ。信じられます? こんな小さな歯車がですよ? 頑張ればできるものですねぇ」
話し終えたが、運車内の空気がそれほど変わったわけではなかった。だが、これ以上語る必要はないだろう。いちいち意味を説いても仕方がないことだし、それこそ沽券に関わるというものだろう。学び取ってもらうというのも、失礼な言い分だが。
「え、あの……もう、終わりなんですか?」
ルーバイスという青年があっけらかんと訊ねてくる。ピジンは微笑みながら頷いた。
「え、意味がわからないですよ。なんか、意味深なことを言ったんじゃないんですか?」
ルーバイスが粘ると、副長がわずかに吹き出した。伝染するように、運車内の男たちが小さく笑い出す。
しかしながら、伝声管からこぼれた台詞は、絶対的に場を支配して静まらせた。きつい口調が、副長に命令を下す。
「副長、その帝国の恥さらしを放り出せ」
初め、意味が取れなかった運車内は静まり返ったが、副長が立ち上がって伝声管から下った非情な命令を再度隊員たちに繰り返すと、また嬌声と歓声が巻きおこる。
続けて、シャナの父から副長へ命令が下る。
「副長。ピジン夫人に、教えて差し上げろ」
「自分からでよろしいんですか?」
「ああ。口の達者なおまえの方が、わかりやすい説明ができるだろうさ。無論、全てを語る必要もないがな」
副長が嬉しそうに返事を返すと、伝声管からは微かに微笑んだような気配が漂ってきた。副長もこちらに向き直り、辛い話なのだろうが微笑みながら切り出してくれる。
運車の後方では仲間たちによって投げ捨てられたルーバイスの悲鳴が、尾を引いて遠ざかっていくところであった。
「民族大移動、と言ってしまうのが現状なんです。当然、歴史が告げる通り、移動先にあたる所に在住する人々がいれば、争いは避けられない。今回の共和国との戦争は、つまるところそういうものなのです」
「つまり、副長さんもルーバイスさんもシャナちゃんも、正規の武人ではないと」
副長の頷きは笑みを湛えていたが、口元のシワが奥歯を噛み締めていることをピジンに教えていた。そして、もう開こうとはしない。
釈然としない説明であった。確かにピジンが疑問を覚えた要点については端的に説明してはくれたのだが、不満と新たな疑問ばかりが生まれてくる。
ピジンが黙り込んでしまった副長に再び視線を向けると、彼の瞳はナゾナゾを出した子供のようであった。これ以上知りたいのか? 答えはしただろう? とでも言いたげな意地悪な視線である。
「とりあえず、二つだけ聞かせてもらえますか? なぜ、大移動をしなければならなかったのか。もう一つは、なぜ共和国へ向かっているのか」
「住み辛い土地から住み良い土地へ……では納得できませんか?」
先程の、伝声管からの叱責を気にしているのだろうか。それとも純粋に試されているのだろうか。ピジンにはわからないが、副長は話してくれるだろうと思う。こちらが食らい付く限りは。
「あなた方の土地がそれほど厳しいのであれば、帝国という一つの文化圏を築き上げられますか? なにより、川があり森があり、暖かい日が昇る。これ以上の土地を望めますか」
「ほう? 帝国へお越しになったことがあるのですか?」
「ジャクメルは貿易の国です。貿易商の方が話してくれることもあるのですよ」
「なるほど。はい。確かに帝国は良い土地でしたよ。我々も、できることならこのような辛い旅を強いられることなく、あの土地で安住していたかったです。
しかし、蹂躙されてまで土地に執着しているわけには行かない。……いや、執着しているからこそ、この辺りまで遠征してきたともいえますが」
副長は望郷の念に囚われたのだろう。言葉を切り、運車の前方を眺めている。見えるのは運車を引く闘器の背中だけだろう。それを透かすようにして、遠くを眺めている。
話に戻った。
「順序が逆転してしまいますね。まずは何故、我々が土地を捨てたのか語るべきですよね。
ご存知でしょうが、我々の土地では、数多くの闘器が発掘されます。この辺りとは違い、ほとんど完全な状態で。その辺が帝国と共和国の闘器の性能差にも繋がるのですが、まぁ、これはいいでしょう。
問題なのは、数多くの闘器が発掘される土地ということです。そんな発掘現場で、闘器などよりはるかに大きな遺跡が見つかったんですよ。正確には、見つかっていたらしいんですよ。何せ国が隠蔽していたもので。
結局は、その遺跡ですね。問題点は。闘器とは比べ物にならないその遺跡が起動し、帝国の首都は壊滅しました」
ははは、と、悲しみすらどこかに置き去って、副長は笑っていた。健気に、笑っていた。
いつ頃、誰が、どうして、どのように。聞くというのは酷だろう。一交渉人でしかない自分が興味半分で訊ねるものでもないだろう。それこそシャナの父が言う和平交渉を行う者に委ねるべきだろう。
木々が少し、ざわめき始めた。樹上ではそれなりの風が吹いているのかもしれないが、木立に邪魔され、ピジンの頬に当たる頃にはそよ風に成り果てている。
彼らにも、この森が安らぎを与えてくれれば良いのだが。
そう願いながらも、ピジンはまだ、口を塞げなかった。どうしても気になる、最初に挙げたもう一つの質問を訊ねた。
「何故、共和国なのですか? この辺りに来るまでに、いくらでも住み良い土地はあるはずです。どうしてまた、予想される諍いまで引き起こして共和国の築いた文化圏まで踏み入ったのですか?」
「手厳しいですね。まるで邪魔者扱いだ」
「違いますか?」
「いえ、その通りですよ。私たちの国が引き起こした問題で、他国を巻き込むなど。ただ、せねばならないのです。世界を救うためにはね」
「うふふ。世界ですか。大きく出ましたね」
琴線にでも触れたのだろうか、副長の眼差しが鋭くなる。しかしそれも一瞬、まるで自らを叱責するように自嘲し、語り続ける。
「事実なんですよ。起動した遺跡は移動力を有し、闘器を生産し、破壊の限りを尽くします。手傷を負わせても自ら採掘を行い、資源調達して修理を施す。常識が通用しない兵器なのです。
そんな遺跡を止めるカギは――それがどのような物かは私たちのような一介の武人には公表されていませんが――それは、どうやら共和国にあるようなので」
何を言っているの? 南の帝国で発掘された兵器を止めるカギが共和国にある? まさか。そんなわけ。そもそも自己採掘、自己修復する兵器? そんな物があるわけ。……いや、あるから彼らはこんな大移動をしているのだから。丸きりの嘘? まさか。ここに至って嘘を吐く必要なんてない。でも、なら、なら……
「なら、なぜ? なぜそのことを公表しないのです。共和国だけじゃなく、この辺りの国すべてに。世界が危ないのでしょう?」
自分の台詞に冷ややかな物がある。そのことは隠しきれないとピジンは思う。こんな細かいところを気にかけてどうなるのか。副長の言うことが事実ならば、今の質問にも説明を願いたい。説明できなければ、信じる必要がなくなる。安心できる。
副長の笑い方も、冷ややかだった。諦めにも似ている。
「信じられませんか? 信じたくないのですか? まぁ、事実は動きませんが……
仮に共和国に至るまでの道すがら、付近の国全てに公表したとしましょう。信じてくれた国全てが我々帝国に味方してくれたとしましょう。北上するに従い勢力を増していく異国の集団に、共和国は手を貸してくれるでしょうか? おそらく敵愾心を強め、カギを貸してくれるだけでいいという我々の話に耳を傾けてもくれないでしょう」
「そんなことは……」
「少なくとも、お偉方はそう考えました。だから、公表は避けてます。効果だって上がっているんですよ。六日前の――共和国圏に入ったときにぶつかった初戦以外、両国とも境界線を引き、各地の小競り合いしか行われてません。
事情が事情だけに我々も退くわけには行きませんが、この状態を続けていられれば共和国のお偉方も折れてくれるでしょう。それまで、耐えればいい。幸い、遺跡の方は今、眠っているようなものなので」
そう言う副長の服は、汚れている。涙がこぼれそうなくらい。
洗濯はしているようで目だった泥などは付いていないが、染みや綻びが目に付く。きちと洗えれば取れるのかもしれないが、修繕すればまだまだ使えるのかもしれないが、今の状態では衣類の寿命もそう遠いものではない。
こんな風になっても誰にも助けを求められず、嫌だという略奪を選択してまで、彼らは耐え忍んでいるのだろう。何を言うのも失礼なようだが、火照る目頭が、ピジンに呟かせていた。
「……大変だったのですね」
副長は何も言わなかった。ただほんの少しだけ視線を下げるように俯き、口の端を引き上げるだけだった。部隊の男たちも、何も言わなかった。ただ黙って、遠くを見ていた。
「勘違いされておられるようだが」
伝声管からだった。シャナの父であり、この部隊を取り仕切る長である。この男だけは初めから武人なのだろう。そんな調子で続けた。
「英雄というものは、手柄を独り占めしたいのですよ」
「……え? え、あ、はぁ?」
ピジンが伝声管から漏れ出た言葉に当惑していると、副長や部隊の男たちから快活な笑い声が上がった。そして、温度の下がっていた運車内に喧騒が広がっていく。やれ、俺たちは世界の英雄になるんだ、とか、他の奴らにこんな手柄はやれねぇな、とか。隣でも、物静かに笑うのが似合っていた副長ですら、やけくそ気味ではあるが、大声を上げて笑っていた。
強い方々だ。
原因の発生までは良くわからないが、遺跡が動き出したことは、この人たちには何の責任もないことなのだろう。なのに汚れ役を一手に引き受け、悲しみにくれるのではなく笑いながら、仕方なく闘う。仕方なくも、闘い続けることができる。
これが、武人というものなのだろうか。
ピジンは、共和国へと派遣され、しばらく見ることすらない夫の顔を思い出していた。『何の罪もない奴らを殺しに行くよ』と、微笑みながら言ってのけた夫の顔を。
嘆息にも似た、安堵の息が漏れた。夫のあの笑顔の意味がわかった安心感もあるのだろうけれど、副長や運車内にいる彼らの笑顔が原因だろう。この息に含まれた意味などピジン自身にもよくわからないが、自分もまた、自然な笑顔が作れるようになった。
伝声管に向け、どこか清々しい気持ちでピジンは訊ねた。
「まだ私にも、何かできることがありませんか?」
副長が慌てたように「いえ、補給が受けられるだけでも充分ですよ」というのだが、ピジンは無言を通す伝声管の向こうにしつこく続ける。
「ありますよね? そうでなければ、奇襲が看破される危険を冒してまで敵国へ逃亡する者を見逃したりはしません。もっとも、あなたが本当に望むのであれば、ですけど」
沈黙は、大事なものを手放すためには必要なものだったと思う。
「……引き受けて、もらえますか?」
「構いませんよ。あの子は良い子ですから」
「……かたじけない」
禿頭の厳つい彼も、涙ぐらいは流したかもしれない。古代人が残した闘うための遺産に包まれ、見えるはずもないことではあるが。
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