■ disorder 秩序破壊者 ■

早稲 実

   6.秩序破壊者

 父の闘器が切断された。負けた。
 決着の瞬間は速すぎて良くわからなかったが、現在の黒い闘器の姿が、父の敗北を告げていた。左肩から左胸を切断され、括れた腰は辛うじて残っていたが、開いていた左足までも切断されていた。
 黒皮をまとった闘器は、倒れていた。
 シャナにはまだ、実感が沸かなかった。
 突然、人型を通り越してまるで本当に人のような、そのくせバランスの酷く悪い闘器が現れた。かと思うと、父と対決し、そして、黒闘器は左側を失って倒れている。
 身動ぎもしない。
 それはシャナも同じだった。そして、その事に気付いたシャナが見回した限り、この場にいるほとんどの者が茫然としていた。何が起こったのかわからない。理解できても、これからどうしたものかと動き出せずにいた。
 動いたのは巨人と呼んでいた、それほど人に近い、禍々しい闘器だった。膝を付く。首から上をなくしてはもう、闘えない。闘う必要もなかった。王はピジンの息子だと言っていたのだから、おそらくはこの国の兵士なのだろうから。
 しかし、またなぜ、彼がこの場に訪れたのか? 王の計略とは思えない。王も驚いていたのだから、それは間違いない。
 疑惑の男が降りてきたらしい。王の周りに生えていた人垣が割れた。誰もが恐れるようにして、その、武人の規定服とはとてもいえない格好をした男に道を譲る。シャナが見たときの作業着ともまた違った。ゆったりとした、しかしどこか色あせた、麻の服だった。腰に付けた凶悪な大鉈が似合うくらい、粗暴に肌蹴ていた。
 ピジンの息子は、脇目も降らずにまっすぐと、王の座る椅子へと向かっていった。急ごうともしない足取りは敵を倒した余裕か、本人の傲慢な気質か。王の眼前に立ったというのに、頭も下げずに口を開いた。
「ガリオル・ピジンの息子、クレオールです。褒美を頂きたく参上いたしました」
 王の態度は常の通り、ふてぶてしいほどの威厳を保っていた。
「ふん。少し、急き過ぎているとは思わないのか」
 しかしながら、この状況でも平成を装っていることの方が不自然で、自らの威信を懸命に守っているように思えてならない。
「急いておりますので。というのも、今回の作戦を終えると同時に文官を除名になる者がおります。褒美の代わりに、その者の文官解任を考え直していただきたい」
 臆面もなく、クレオールと名乗ったその男は告げる。鋭い眼差しで見下ろしながら。
 王は頷くようにして、黙考を始めた。
 辺りも、その経緯を見守っていた。シャナだけではなく、この場を制した者が何をするのか、王に対して無礼にも褒美を請求する者がどうなるのか、を。
 王の言葉は、辛辣だった。
「……できんな。和睦が成立する中途であの者を倒されても……意味がない。なにせ微細な補給物資でことは済んだはずなのだ。なのに、お主の出現のおかげで、荒れずに済んだ畑が損壊し、民衆は大きな痛手を受けた。この罪を流すことこそすれ、お主に恩賞など」
 辛辣ではあったが、事実でもある。周りは畑のみならず、踏み潰された民家なども少なくはなかった。
 意に介さず、クレオールは発言する。
「共和国への手柄にはなるでしょう」
「逸れた闘器を破壊したくらいでか?」
「経緯はわかりませんが、あそこに壊れた近衛隊の闘器が転がっています。闘ったのでしょう? しかし、敵機に損害は見当たりませんでした。
 一体ではどうにもならなかった敵を、一体で倒しました。自分を派遣してくれれば、それ以上の手柄を立ててジャクメルの手柄としましょう」
「軍隊行動すらろくにできぬ者が、何を言うか」
 王がキツイ口調で言い放ったが、クレオールが気にした様子もない。それどころか、自らの前に立つ人間が誰かすら忘れたかのように、ぞんざいに頭を掻いた。
 それから。
「言い方が悪かったみたいっスね」
 と、さらに悪くなった口調で告げ、腰に横付けした大鉈を引き抜くが速いか、王の首筋に押し当てる。
「……どういう了見だ?」
「いいから頷けって意味だよ!」
 咆えるクレオールを中心に、王を囲っていた警備隊もどよめき始めた。しかし、すでに国の最高権力者の首筋に刃物を押し当てられている状態で動ける者などおらず、警備隊たちは近づくことすらできずにいた。
 もっとも近いのはシャナだった。二歩? 三歩? そのくらいの距離ではあったが。
「小娘、動くなよ。おまえを殺した後でも、充分にこいつを頷かせることはできる」
 台詞がなくとも、その血走った鋭眼だけで、シャナには足を踏み出すことすらできそうもなかった。
 そうしてまた、注目は王の口に向かう。何を言うのか。国の体制を曲げるのか、否か。
「……頷けぬよ」
「死ぬぞ?」
「殺して、どうする? 百あまりの近衛隊がお主を取り殺すだけだぞ」
「そいつらも殺す」
「……一人で、革命のつもりか?」
「そんなつもりはねぇ……けど、成り行きでそうなるのも面白いかもな」
 刃を押し付けながら、クレオールは笑っていた。目を血走らせ、口の端をほんの少し上げた、醜悪な笑みだった。どこか、おかしい。
 王の言葉を待つため、辺りが静謐だったのが良かったのかもしれない。風の鳴き声が聞こえた。それはつまるところ、空気を切り裂いて飛んでくるケード・コックルであったが。
 クレオールは振り向きざまにそれを、大鉈で叩き落とした。
 躍り出てきたのは、父だった。警備隊がこちらに目を向けていた隙を抜けてきたのだろう。飛び掛るように斬りかかったが、クレオールは弧を描くように足を運んで避けた。
 立ち居地が入れ替わった。父が王を背に庇い、篭手と一体化した短剣ケード・コックルを構えてクレオールに立ちはだかる。
「なぜ、わしを助ける」
 王の台詞はもっともだった。父は振り返りもせず、右手だけになってしまったケード・コックルを構えてクレオールと対峙していた。
「恩には義で返さねばなりませぬ。例えそれが、敵の王とて」
「かたじけない……」
「それより、早く逃げてくだされ。私ではとても――」
 クレオールは剣を振るっていた。その横薙ぎの剣撃を父はケード・コックルの篭手部で受け止める。が、反動を利用して逆回転する斬撃には対応しきれなかった。衝撃を殺せず、身動きが取れないでいる間に、嵐のような大鉈が父の首が刎ねていた。闘器同士での初合とまったく同じ動きであったのに、父は身動きができなかった。闘器の性能差で、辛うじて反撃できていたということか。
 王は、椅子を蹴倒して走り出していた。
 その背中を追って、クレオールも駆け出す。しかし、王は警備隊の中に身を隠し、人の波がクレオールを押し返そうと、矢継ぎ早に刃を振り下ろす。宵闇の中で、大鉈が閃いた。クレオールの旋回が始まり、血の雨が降り出した。
 血の雨といえば、こちらにも振っている。がっちりとした、大きな父の身体から。その、頭をなくした首から。それはすでに骸と化して地に横たわるだけだったが、なんの冗談でか上下違わずに立っている父の顔は、少し笑んでいるように思えた。
 あんなに大きかった父が、今は自分の胸の中に納まってしまっている。

「シャナちゃんのため、かしらね」
「考えられますね」
 そう応えた副長は、よほど短剣に自信があるのだろうか。いや、考えるまでもないだろう、とピジンは首を振った。
「今の内に逃げることをお勧めしますよ」
「そうも言ってられませんよ。部隊長は、同時に私たちの親父さんですから」
 そうなのだろう。彼の部隊の者たちは、シャナの父がクレオに殺された瞬間から駆け出していた。ルーバイスなど、武器も持たずに走り出していた。
「あれは私の息子なんです」
「だから殺して欲しくない、とでも?」
「いいえ。その気持ちはありますが、言っても無駄でしょう。ただ、息子は強いですよ、とだけ言いたかったもので」
「わかりますよ」
 この場所からクレオの様子を見ていると、それが良くわかる。正確にはなんともいえない人の群れでしかないが、断末魔を上げている一角だけが妙に密度が低い。そしてその台風の目は、移動しながら死体の山を築き上げているのだから。
「けれど、それでも殺れる可能性はあるわけだから、その機会にかけますよ」
 そして、副長はゆっくりと歩き出す。人の群れの中へと消えていく前に、彼は振り向いた。優しい笑みを浮かべながら、陽気な口調で告げる。
「仮に息子さんが死のうとも、生き残ろうとも、自害などは考えないでください。そして、共和国と帝国のために、できることだけでいいです、働いてください。歯車のように」
 それだけ告げて、彼は人の群れの中へと消えていった。
 死ぬ覚悟まで決めている。多分、それは共和国と争うことになった時からの決意であろうが、今はまた、目前の選択肢の中から決死を選び出していた。そこまでした副長だが、彼が今の流れを変える役目を果たす歯車となり得はしないだろう。クレオを討ち取ったとして、手柄を認められるわけでなし。返り討ちにあったとして、悲しむ者もない。部隊の仲間たちが生きていれば涙してくれるだろうが、彼らもまた、ジャクメルの武人らに捕まり、処刑されることだろう。所詮、敵同士なのだから。
 悲鳴と罵声、剣呑な金属同士の叫び声が上がる最中、森を背にしたピジンには夜気が降りた。涼しく心地よい、夜の帳が。今まで陽気に赤みを帯びていた空は、澄ましたような青さをまとい、物悲しく辺りを包んでいる。
 今まで、自分が楽しく話していた者たちは、一体何者なのだろう。
 寂寥と共にピジンを襲った疑問に、答えは出なかった。
 あえて捻り出そうとするならば、敵の武人たちであり、そのくせ陽気な連中であり、かと思うと復讐という単語に疑問を挟まない、自分とは別の生き物であった。
 けれども、平和を求めて、こちらに頼みごとをするのだから……
 つまるところ、ピジンには答えを断じることができなかった。一つ、断定できることがあるとするならば、良い人たちであった。であった、と過去形で表現したほうが良いだろう。引き摺るわけにもいかない。副長の願いを叶えたいのならば。
 しかし……
 ピジンの前方で、息子を亡き者にしようと集まっていたジャクメルの近衛隊たちは、最前線だけを残し、いくつかの分隊に分かれて再集結をしていた。勢いだけではどうにもならないと判断したのだろう。たかが一人の若造を相手どるにはいささか大げさではあるが、現に人の命が湯水の如く消えていては致し方あるまい。
 致し方あるまい。
 仕方ない。
 戦争が起きると、よく用いられる言葉だった。夫も良く言っていたと思う。そんな諦めの言葉を使って、人の命を取りにいく。より多くの命を守るためだ。仕方ない。
 常套句を使って闘う武人たちの背をピジンは、今も昔もただ見ていただけである。こんな自分が戦争を止める役に就けるというのだろうか。組み込まれていない歯車がいかに懸命に回ろうとも、空転するばかりで意味がない。
 今の立ち居地でできることなんて、何もなかった。
 けれど、少し踏み出すだけで、やれることはあると思う。
「副長さん、ごめんなさいね」
 とりあえずは彼にだけ謝罪を呟き、ピジンは歩き出した。
 軍隊行動として、一人の乱暴者を始末しようと動き出した近衛隊の中へ。

 押したり、押し返されたり。
 クレオールと名乗った若者は、警備隊に動きに翻弄されるようにくるくる回っていた。風で遊ぶ、コンドルのように回りながら。その度に雨が降り、赤い礫が降る。礫の一つがシャナの隣に落ちてきた。水を含んだスポンジが潰れたみたいな音が、あちこちに舞い降りていた。人の顔を作っていた礫が、潰れていた。
 悲鳴も罵声も雑言も、今となってはただの歓声だった。赤く塗られた踊り子が舞い飛ぶための、激励の叫び。リズムを刻むように金物が鳴いている。
 シャナは小さな父を胸に抱き、横たわる大きな父の隣に座り込んでいた。
 時折こちらに躓き、武人の一人が派手に転倒したりした。彼の持っていた刃物が他人に刺さり、悲鳴が起こり、怒声が聞こえ、結局踊り子の方へと駆けて行く。シャナはクスリと笑ってから、取り落とした小さな父を拾って、また大きな父の元へと戻って腰を下ろした。
 踊り子が回る。くるくるくるくる。
 踊り子が飛ぶ。ひゅんひゅんひゅん。
 大鉈が閃きゃ、がきん、がきん。
 首が飛んだら、ぴゅーん、ぐちゃ。
 可笑しな劇が続いていた。長い時間、繰り返していた。
 けれどもそろそろ次の章へと進むのだろう。リズムを刻んでいた金属音が、曲の終わり際のように間断的になっていく。踊り子の周りの人数が減っていた。少し離れたところで、脇役たちが集まっている。幾つかに分かれて、固まっていく。
 踊り子も小休止のようだ。周りの人垣がいなくなり、踊り子自身は大鉈を地面に突き刺して、腰は下ろさないが寄りかかって荒い息を吐き出している。額の汗を拭う仕草は、降りかかった赤紅を塗りたくる作業と変わりない。
 第二章の幕開けは、巨大な地響きだった。
 何度も何度も聞いたことがあるが、今ここに至ってはそれなりに衝撃的な足音である。闘器の登場だった。万遍なく鉄装甲を打ちつけたジャクメルの闘器が歩いてくる。脇役の集団たちは踊り子から距離をとり、しかし囲んで逃げさせない。
 闘器からすれば後一歩、踊り子からすれば、十数歩の距離が開いていた。正面から相手を見詰めあい、大鉈を掴んで、踊り子は嬉しそうに笑う。
 動き出したのは闘器だった。大上段に構えて剣を振り下ろしただけだが、刃を立てずに剣を寝かしていた。押しつぶすつもりなのだろう。左右に避けられようと、闘器の剣は地面にめり込まず、左右に振ることができる。
 踊り子は走っていた。地を這うようにして駆け抜け、滑り込むようにし、寸でのところで闘器の剣の握りをすり抜けた。そうして立ち上がり、闘器の股下を駆け抜ける。抜けたところで立ち止まり、反転しながら闘器の踵の上に大鉈を叩き込む。装甲の合間を縫ってアキレス腱を叩き切った。
 気付かなかったのか、闘器が踊り子を追いかけて振り向いたとき、倒れた。踊り子はその背を駆け上り、搭乗孔にまで達する。剣を振り下ろすと、闘器は動かなくなった。
 勝ち鬨なのだろうか。踊り子が再び大鉈を振り上げると、同時に大声で怒鳴り上げた。勝利を宣言するには、脇役たちはまだ半分にも減っていない。だから、やる気の表れとでも解釈するのが良いのかもしれない。そう受け取ったのだろうか。脇役たちも手に手に持った武器を構え直し、隙なく踊り子の周りを包囲する。
 しかしそれは、逃がさないためには良いのかもしれないが、一向に誰も近づかないところを見る限りでは、踊り子を戦慄させることには繋がらないだろう。
 そんな睨み合いが少し続いていたが、意外に早くも新展開が訪れる。脇役たちの環が割れた。そこから、一人の女性が進み出てくる。
 ピジン婦人だった。
  そして、意外だったのは、ずーっとゆっくり刻んでいたシャナ自身の鼓動が突然、跳ねるように鳴り出したからだった。驚いて自分の胸元を見ると、父の首が、微かに微笑んでいる。
  父が最後の瞬間に何を考えて笑っていたのか知る由もないのだが、シャナは。
「きっと違うと思うんだけど……ごめん」
 父の首を父の身体の隣に置いて、ケード・コックルを右腕から剥がした。
 父の得物を片手に、別れを告げて走り出す。

 いける。
 そう思う自分は愚かだろうか。
 闘器の背で雄たけびを上げながら、辺りに残る近衛隊の数をざっと見渡す。六十くらいか? 半分にも至っていない。だというのに、こちらは虫の息である。怪我など、あの異国の衣装をまとった短剣使いにやられた頬の傷だけだが、体力が持たない。
 息が、続かない。
 叫び上げたのは、間違いだったか?
 いや、正解だったと思う。おかげで近衛隊は怯え、竦んでいる。そのまま動かないでいてくれ。できることなら、このまま眠らせてくれ。
 この行いは、間違いだったか?
 たぶん、間違いだろう。王に刃を向けたことも、黒塗りの闘器を両断したことも。
 だけれども、やらねばならなかった。文官の地位を賭した、親友のために。
 おそらくレオネなら、今の自分を止めるだろう。甘んじて刑に処するだろう。処刑台に上がっても、「おまえは悪くない」とかいって、普段見せないような笑顔を向けてくれるはずだ。
 だから、やらねばならないのだ。
 自分を支えてきてくれた者たちのために、自分は、英雄にならなければならない。レオネを、母を、自分を助けてくれたみんなを、幸せにするためにも。
 これしか、道を知らない。
 他人のために、譲るつもりもない。
 情けの壁など、とうに乗り越えた。
 歩き続けるしかない。
 自分に敗れた者たちのためにも。
 ダメなら、そこまでだ。
 行ける所まで行ってやる。
 だから、もう少しだけでいいからよ、おめぇらは動かねぇでくれ。
 クレオはいっそう目を険しくして、必死な思いで、近衛隊たちをねめつけていた。
 しかし、無常にも彼らは動き出す。こちらを取り囲んでいた武人たちの一角が割れた。誰かを迎え入れるように。
 膂力を持ちうる剛の者も、技芸を凝らす柔の者も、派遣されたはずだった。近衛とは名ばかりな、戦地に赴く勇気がない名家生まれのロクデナシばかりのはずだった。北の剛勇か? 南の柔雄か? いや、国境警備隊を呼びに行く猶予はなかったはずだ。
 何が出てくる。誰が出てくる?
 現れたのは南北の警備隊長ではなく、よく見知った母の顔だった。しかし、表情はいつになく険しい。
 クレオは動揺を隠し切れないまま、彼女が地に伏した闘器を昇ってくるのを見守った。鉄装甲を昇りきるまでに何度か転げ落ちそうになる彼女を助け起こそうと、駆け出そうとする自分を殺しながら。
 自分の前に立つ母は、長剣を一振り携えていた。逆手に握りこんでいるところを見る限り、使いこなせるとも思えないが。
「なんのようだよ」
「あなたを、止めにきました」
 他人行儀な台詞が耳に障る。何がしたいのか。大人しく殺されるとでも思っているのか?
 母は、訊ねかけてくる。
「あなたはなぜ、人を殺すのです?」
「はぁ?」
 すっとぼけた母の質問に、クレオは耳を疑った。同時に、母の正気を。
 血の見過ぎで、おかしくなったかもしれない。彼女は自分の足を刺し貫いた。
「な、なにするんだ母さん!」
 痛いはずなのに母は、ニッコリと微笑んで足の甲から剣を引き抜いた。
「まだ、母さんと呼んでくれるのですね。安心しました」
「そうじゃねぇだろ。何してんだよ」
 すると、母は真摯な眼差しをこちらに向ける。
「これは、虚偽を語るよう息子を育てた自分に対する罰です」
「違うって。今のは単純に、聞き取れなくて――」
 母が、今度は左の足の甲を貫く。
 クレオが走り出そうとすると、母は激を飛ばしてきた。
「動くのではありません! 私は、身体を傾けるだけで身を落とすことができるのですよ」
 身を伏したとはいえ、闘器の胴回りは相当に高い。頭から落ちない限りは死なないだろうが、距離が置かれ、彼女にまだ意識があれば、母は自決するだろう。
 舌打ちと共に、クレオは足を止めた。
「くそ! んで、何が聞きたかったんだ?」
「あなたは、なぜ人を殺すのか、です」
「自分のためだ」
 刺すかと思ったが、母は剣を動かさなかった。
「では、あなたの求めているものはなんですか」
「英雄の称号、名誉。そんなところだ」
「なんのために」
「俺を助けてくれた人たちに、俺に負けていった者たちに、お返しするためだ」
「他の方法では?」
「無理だ。知らないし、やりたいとも思わない」
「けれど、あなたが恩返ししたい者たちが、あなたの英雄像を思い描かないかもしれません。つまるところは、ただ自らの欲望ではありませんか?」
 言葉に詰まった。
 今まで、思い悩まなかったわけではない。だが、結局他人の心なんて知る由もない。ならば自分が最良と思った選択をするしかない。それだけだ。……それだけなのだが、彼女からその投げかけがあっては、口もこもる。
「かも知れないが……それでも俺には、これしかないと思う」
 母は笑った。
 何を意味した微笑だ? 理解できないのは、幸か不幸か。
「仕方ありませんよね。結局は自分で選ぶしかないのです。良かれと思うならば、やりなさい。仮に邪悪な覇道であっても。
 ただし、私も好きなようにやらせてもらいますよ」
 意外にも、母は自分の胸に刃を突き立てはしなかった。両手で握りこみ、こちらに相対する。笑ってしまう。腰を落とすのではなく、剣の重みで落ちている。
「は、はっはは……勝てると思ってるのかよ」
「自害されるよりはマシでしょう?」
 そりゃそうだ。これなら、彼女を殺さずに国を落とすこともできる。
 それが、間違いでないかはさておいて。
 楽しそうに、しかし力を込めているから歪んだ笑みで相対する母に、礼儀的に大鉈を構えて見せた。一見、ぶらりと佇んでいるだけのような、わずかに爪先を立てただけの構えで。しかし、腰を落とし、どちらに、どれほど足を交差しても旋回に繋げられ、クレオは自由に大鉈を振るうことが可能であった。
 母が、足を踏み出してくる。甲を貫いた足だから力が入らないのだろう。入れられないのだろう。歩くたびに膝が折れ、その度に持ち直してから次の一歩を踏む。遅々としており、一向に近づいてきやしない。
 それでもようやく剣が届く間合いで、クレオは一歩だけ左足を下げた。そこから回転する。引きつけて、確実に、長剣だけを弾き飛ばす。
 旋回の最中、辺りをぐるりと眺め下ろした。近衛隊たちは、動く様子もない。中には、自分が素直に母に殺されると信じている者もいたかもしれない。
 笑ってしまう。
 母が、思うようにやりなさいと言ったのだ。認めてくれると言ったのだ。彼女が認めてくれる限りは、自分は止まらないだろう。彼女が自分を憎もうとも、自分は止まらないだろう。母は言ってしまったのだ。行け、と。自分も言ってしまったのだ。行く、と。
 もう、止まれないだろう。
 例え口約束でも。
 いや、口約束だからこそ。
 母に向かう大鉈を止めたのは、風が裂かれる音だった。
 クレオは大鉈の軌道を変えることによって身体の位置をずらし、飛来する物体を避けた。
 篭手と一体化した短剣であった。
 薄い鉄板を踏み鳴らす音が近づいてくる。
 まっすぐに。
 クレオは足を踏み変え、旋回を続け、そちらに大鉈の刃を向けた。
 対象が低かった。空振り。殺られる。
 ……まぁ、それも良し。
 次の瞬間、自分を襲った衝撃は些細なものだった。敵は、身を屈めていた訳ではない。純粋に小さかった。
 ところどころ生地の純白が残るドレスを身にまとった、血塗れた少女である。しかし、形相はその汚れというべき血痕に似ており、すでに乾き、宵の闇に紛れてすでに黒かった。
 少女は体当たりをしてクレオを揺るがすなり、走りぬけ、ピジンの長剣を奪い取る。
 重いのだろう。
 腰を入れて、凪ぐ。その一つ一つの動作がやけに鮮明に見て取れる。
 母の足の血を吸った赤い刃が、こちらに向かってくる。
 クレオは、健気に剣を振るう少女の首を、刎ね飛ばしてしまった。
 少女を助けようと、飛び出した母もろともに。