■ disorder2 北の遺跡 ■

早稲 実

   2.

 麓まで来ると、遺跡はもう山でしかなかった。というより、全景を把握できなくて、急斜面の一角だとしかレンスには映らない。
 代わりとばかりに、主のテントは日が沈んでいても良く見えていた。木柱で八角形を作り、皮を張り巡らせただけの作りで、ところどころ、破れ目なのか接合が甘いのか中の明かりが漏れている。冬は厚着で誤魔化すのだろうか? それとも中は意外と暖かい? 
 気になるところではあるが、その前に後をつけてくる狼に干し肉を一枚くれてやる。テント脇に繋ぎとめられている馬を脅かさぬためである。皮袋から取り出した干し肉をさんざん彼に見せつけ、できるだけ遠くに放り投げた。
「ま、すぐ戻ってくるかもしれないけど、おまえのことは襲わないって。だから嘶いて話の腰を折ったりするんじゃないぞ。いいか? 鼻毛」
 人馴れしているのだろう。馬は頭を撫でても嫌がろうとはしなかった。嬉しそうとも思えなかったから、ただ単純に鈍いのかもしれないが。
 ともかくも、レンスは主のテントへと入っていった。
「おばんです〜。共和国で軍監しているレノンセンス・グラチノスと言う者です」
 中央に掘られた暖炉で、焚き火が揺れている。天井から吊り下げられたフックにかかる大鍋が、乳製品を煮付けて良い香りを立てている。揺れる明かりの元で、老人と少女がちょうど今、一人前ずつ膳に乗せられた椀を、音を立てて啜った。
 レンスは二人の意図的な無視に構わず、膳に乗せられたもう一つの皿に目をやっていた。肉。干していない肉が美味そうだった。味付けしているのか、ただ焼いているのかわからないが、干していない肉が羨ましかった。老人の方にはもう一皿有り、漬物、のような保存食の野菜がいくらか並べられている。
「呼んだ覚えはないがな」
 椀を置いた老人の言葉に、レンスは我を取り戻す。そういえば、自分もお腹が減っていた。狼のせいで行程が遅れ、乾燥食で行われるわびしい晩餐を諦めて交渉に出たのがいけなかったか。いやしかし、ご相伴に預かれる可能性は捨てきれないものであったのだが。
 ともかく、老人の冷たい一言が、レンスのささやかな希望を打ち砕いた。
「……諦めて交渉と行きますか……
 呼ばれるも何も、立ち退き要求ですからね。そんなわけで、この遺跡の採掘調査のために退いてもらえませんか?」
「応じられませんな」
「そうは言いましてもね。あなた方がここに来る者来る者射殺すものだから、うちのお偉方もご立腹なされちゃいまして。軍を動かすとかどうのと言ってるんですよ。というか、僕も軍人なもので、最終的な説得ってやつです。死ぬのは、嫌でしょう?」
「矢を番えて説得も何もないだろうに」
「だから、矢は置いてきましたよ」
「そのようですな。あなたの気配しか感じられませんでした」
 戯言なのか、迷わないでもなかった。それなりに護衛をつけた学者たちが何度も訪れているというのに、この老人はほぼ一人で殲滅していると聞き及んでいる。かといって、気配とかいう曖昧な感覚を信じるつもりにもレンスはなれなかったが。
 ともかく、こちらが裸一貫で交渉に来ていることは伝わっているらしい。そうでなければ、直ちに射殺されていてもおかしくはない。この老人相手に、こちらはすでに数十という単位で殺されている。今更一人増えようと、老人には関係ないだろう。
 よほど腕が立つと勘違いしてくれているのか、侮ってくれているのか。勝手な手違いで殺されても面白くないので、レンスは説明をしておく。
「そうなんですよ。ただ、僕が説得に失敗した場合、もしくは六日後にくる迎えと会えないような状況になれば、問答無用で軍隊を派遣するとのことです。よーするに、痛いのは勘弁してください。あなたがたも痛くなりますから」
「別の矢が狙っているということか」
 白髪を撫で付けるようにしながら、老人がため息を吐き出した。その腕も、胸板も、レンスよりも遥かに厚く、太い。見た目はすでに五十に差しかかろうというのに、飽きれるほどの健康体である。弓なんて古風な物を使い続ければ、そうもなるのだろうか。
 だが、恐怖はない。怯えてはならない。優位なのだから、ふてぶてしく、押さなければ。
「そうなんですよ。ね、移りましょう? どうせあなた方は遊牧民なんだし、こちらもそれなりの謝礼金くらいは出しますから。闘器を運んでくるよりその方が遥かに安上がりなんですよぉ」
「移るつもりは、ない」
「そうは言わずに。条約の上では、この辺りの採掘権はすでに共和国にあるんだから」
「一部の集団が行った談合でな」
「でも、キルト・ノィア・ソウラスでは最大の集団じゃないですか」
「だが、この辺りの一割でしかない」
「そこを突かれちゃうと、痛いなぁ〜」
 頭を掻いて、レンスは微笑んだ。精一杯脅して、退路を作って、最後にこちらが引いてみせる。普通ならどれかに反応を示してくれるのだが。
 老人は話しは終わった、とばかりにこちらを見もせず、椀を啜り出す。次に小皿から野菜の保存食を刺し、口に頬ってバリボリバリ。串文化とは凄いものだ。肉を焼いた串を引き抜き、そのまま食器として使ってしまう。原始的ながら、器用なものだ。
 ともかく、反応は何も見られなかった。少女に至ってはこちらを見もしない。不安がってこちらと老人へ視線を向けるくらいの愛嬌が欲しいものだ。
 英雄的に頑なで、断固としている。だから闖入者がいようと断固食事を取り、食事が終わったので断固ラッシーを飲む。もちろん一気飲みだ。わき目も振らずに、ヨーグルトと山羊乳の中間飲料を飲み干す。知識としては知っているが、どんな味がするのだろう。一口ご賞味させて欲しい。
 ともかく、反応は何もなかった。
「ま、仕方ありません。今日のところは成果なしってことで、下がりますよ。では、月明かりの祝福を」
 返答を期待していたわけではなかったが、背中に何も帰ってこないというのは物悲しいものがあった。だが、テントを出てから気付いたのだが、そもそもこの辺りにあの挨拶は通じないかもしれない。共和国圏でも最近協定を持った国では月神の教えは広がっていないし、当然のように今の挨拶は通用しないらしい。
「広がれば薄くなるのは道理だけどさ」
 空を見上げれば、共和国内のガス灯なみに明るい星々が横たわっている。その中で一際明るい月が、半身を隠したまま淡やかな光りを注いでくれている。
 別に、どこにいようと星の明るさが変わるわけもないのだが、建造物が少ない分だけここは、空に愛されているような気がする。
 なのに、月神の挨拶は伝わらない。
 どこか物悲しく、
 侘しい感じ。
 レンスはそのまま、テント脇に置き去りにした皮袋の元まで歩いた。すると、きちんとお座りして狼が待っている。そこでようやく皮袋を外に出しておいた失態にレンスは気付き、慌てて皮袋に走りよった。お座りしていた彼も慌てて逃げ出した。
 中身はそのまま。干し肉もちゃんと、五つ残っている。
 まず湧き上がったのは安心だったが、それよりもレンスを動かしたのは感動に近い感情だった。怯えた目でこちらを窺っている彼は、ただ本能に忠実な動物ではないのかもしれない。そう思ったのもつかの間、まるでペットを人間同然に扱う貴婦人たちの妙な笑い方を思い出した。
 気持ちは萎えたが、ご褒美くらいは上げても良いだろう。
 レンスは皮袋から干し肉を取り出し、狼に投げてやった。彼が嬉しそうに飛びつくのを眺めながら、レンスは自分の夜食を皮袋から取り出す。所詮、乾燥食のビスケットと水筒のワインだが。
 レンスはそのままテントの傍らに寝転がり、空を見上げながら、やたらと硬いビスケットを咀嚼した。ワインとは合わないが、水汲みは明日にしよう。今日は疲れた。
 夜空を眺めながら寝るのも悪くない。
「お、なんだ、こいつ?」
 もう餌を強請る必要もないはずなのだが、狼が近づいてきた。彼はレンスの隣に横たわり、何の警戒もなく目を閉じた。もう火筒の恐怖はなくなったのか。
「それとも、食い物をくれれば何でもいいのか?」
 彼は、抱き寄せると微かに抵抗したが、しばらく足掻いた末、ぐったりと舌を出す。
 彼は犬臭かったが、暖かい。明日はパリパリの血のりを拭ってやらなきゃな。
 レンスの寂しい日は、温もりで締めくくられた。

 目蓋も強烈な光りの前では、遮光布として機能しない。透かすように肉色の赤を晒し、安寧の無に等しい闇の色を追い出してしまう。
 うつ伏せになればまだまだ眠り続けることはできたが、生き物の内面よりは無常の世界の方がましだ、とレンスは目を開いた。彩色の苛みは耐え難いが、一時のうちに慣れてしまう。夜型の人間になるつもりはないのだから、つまるところ耐えるしかない。
 手を翳しながら空を見上げると、すでに太陽は頭上まで上り詰めている。寝過ぎた。地面が硬いのがいけないのだ。寝た気がしないから、より多く寝てしまう。
 そんなはずもないのだが、高度な算術的計算によれば理に叶わないでもない。良しとして、レンスはとりあえず辺りを眺め回した。辺りの景色は変わりない。草本と露出した岩が永遠に続く、草原のような世界のまま。ところどころ思い出したように潅木が生えている様もそっくりそのままだった。
 変わるはずもない景色を見回すよりも、些細な影の前線に目をつける。ちょうどレンスの右手にかかっていた。つまり自分は、テントの西側を寝床に選んだということになる。
 結局、だからどうした、という言葉に尽きるのだが。
 他に変化といえば、鼻毛がいなかった。誰かが狩りに出たのだろうか? 確認のためにテントの中へと足を向ける。老人がいれば交渉、少女が残っていれば、どうにかしてお近付きになりたいものだ。老人との交渉で役立つ情報が得られるかもしれない。
 扉代わりの布を開けると、老人が座ったまま寝ていた。ということは、鼻毛に乗っていったのは少女の方なのだろう。
 昨夜は、焚き火を焚いているとはいえさすがに暗く、内装までは良く見えなかった。しかし今日は、採光用とは思えない小さな穴すら太陽の恵みを取り入れている。じっくりと人様の家の内装を鑑賞するような悪癖はないが、レンスは老人の弓を探るためにざっと辺りに目を走らせた。
 とはいえ、探る必要などなかった。戦場ではまるで用途のない甲冑を貴人たちがそうするように、弓は老人の背後であるテントの最奥に飾られていた。奉るように。
 ただ、それよりもレンスの意識を奪ったのは、その、台に横置きで飾られている弓の奥である。テントを支える最奥の柱にかかる、やや灰色を帯びた人型の毛皮が目を引いた。キルト・ノィア・ソウラスではこれほどの巨大獣が生息するのだろうか。
 老人を起こさぬよう、忍び足でレンスは毛皮の方へと近づいていった。けれど、ちょうど老人の隣を横切ろうとしたとき、厳しいお声がかかる。昼寝の邪魔をしたからなのか。おそらくはそれ以外の理由で眼光は厳しい。
「何用かな」
「いや、昨日も言いましたけど、説得ですよ」
「移るつもりは、ない」
 ま、そうだろうけど。
 予想通りの反応なだけに、特にしょげかえる気にもなれない。
「そうですよね。まぁ、それは良いんですけど――いや、良くないんですけど――それより、この毛皮、凄いですね」
「触るなよ」
 すでに横切り、まさに触ろうとしたレンスに注意の矢が飛んでくる。剣呑な様子はないが、聞き逃せば本物が飛んでこないとも限らない。弓はレンスの足元にあるが、老人のあの体躯を思い出すだけで、触れるつもりは失せてしまった。
「いったい、なにで染色を? 見たところ、灰色はホコリみたいですが」
「地毛だよ」
 まさか。いかにこの辺りには雪が降るといっても、夏季ならば外でも寝られないこともない。迷彩を考えない動物がいるはずもなく……それとも老人は、自分の髪のことを言っているのだろうか。
 ただ、老人が呆けているにせよ話すつもりがないにせよ、この話は終わりだった。
 レンスはとりあえず老人の前に戻り、胡坐を掻いて座った。そうしてみるとわかるのだが、老人の胡坐は少しおかしいような気がする。
「お爺さん。それ、変ですよ。足首を太股の上に乗せちゃ、苦しいでしょ」
「これでいいんだ」
 本人が良いと言うなら良いのだが。レンスは気を取り直して本題へと移る。
「では、昨日は少し色々遠回りしましたけど、本日は単刀直入にお願いしたいんですが」
「移らんよ」
 硬い。
「いや、そんなことじゃなくて、もっと差し迫っているかもしれない危機なんですよ」
 老人は首を傾げるでもなく、少し眉を落とすことによって怪訝な様子を現した。
「普段は良いんですけど、雨が降ったら中で眠らせてください」
 この頼みごとは老人の予想範疇から外れていたらしい。大きく目を開き、理解に要する数瞬の後、快活に笑った。厳つい爺さんだが、良い笑顔を持っている。レンスも釣られて笑っていた。
「いやいや、失敬。しかし、テントの一つも持ってきておらんと?」
「いやいや、失礼。しかし、テント一つ持つ体力がないのですよ」
 遊びも嫌いではないらしい。こちらの返し言葉に憮然とはせず、どこか、笑顔を外しても柔和な表情をしている。それでも年季の入った身体に刻まれたシワは、刃物でつけたように鋭いが。
「情けない男だのう。雨が降ったらどうするつもりだったのだ」
「いえ、ですから助けていただこうと」
「良いことを教えてやろう。この辺りには一つ、有名な格言があってな、この土地は誰も待ちはしない、受け入れはしない、ただ一人で生きよ、とな」
「ほう、興味深い…………それで、緊急避難の件は?」
「ダメじゃ」
 けんもほろろ。

「――なんだってさ。けち臭いとは思わないか? 困っている人がいるんなら助けてやれって教わらなかったのかな」
 レンスは愚痴、というほど感情のこもっていない嘆きを口にしながら、水場で狼の毛を洗ってあげていた。だというのに彼は初め嫌がり、今でも仕方なさそうに媚びた哀願の鼻声を発している。
「そのくせ、最後は『ダメじゃ』だって。『じゃ』とか、そんな愛らしい老人が演じられるような顔じゃないことはわかっているくせにさ――よし、終わりだ」
 背を叩くようにしてレンスが開放してやると、彼は狩人に追われているかのように走り出し、銀と紺の中間色の若毛を風に靡かせる。こちらとの距離を充分にとってから、地面に身体をこすり付ける。
 ……狼というのは、身体の汚れを厭わないのであろうか? 
 愚問であった。
 綺麗、だとか、美しい、だとか。そんな感情は本能の中では末端に属する欲望であろう。ただ生き残ることに必要はない。そんな欲望を満たせる者とは、空腹やら危険からの回避などの、もっとも優先的に選択せねばならない欲望を満たしている者である。つまるところ、生活の安定があって初めて綺麗だの汚いだの言えるよね、ということである。だから、鳥たちは求愛行動に美しい羽を広げて見せるのだ。生活能力を有することを示すために。
 少なくともレンスはそう思っている。同時に、
 美醜に特別な価値を見出すのは人間だけだと思っている。強いから美しい。それはつまり強さに付随する美しさであるということ。日に当たることなく生活できる力を持つご婦人たちは、なるほどその道理に当てはまっていないでもない。しかし彼女らはとどのつまり、一人で生きることができずにその“美しさ”という根拠のない強さを磨いているに過ぎない。お家とか権力とかいうものに寄生するための強さを。
 しかしそれが、まかり通っている。
 先程の例えとは間逆に、貧民の中で美しさに秀でた者が権力者に愛でられ、一夜のうちに莫大な権力を有することが横行している。民衆も違和を覚えるどころか尊敬の眼差しで眺めるほどである。
 そんな不自然がまかり通る自然。
 それが、人間の作った社会という摂理である。
 少なくとも共和国はそうだ、とレノンセンスは水場に顔を映す。
 玉の輿、という制度とは微妙に違うのであるが、貴人たちの鑑賞物に成り下がっている自分という存在は知っている。病的ともいえる白肌と細い輪郭は、見ようによっては絹の紗のようではある。高い鼻も嫌いではないし、柳眉も気に入っている。けれど、根本的に小さいくせに下の方が厚い唇というのは、どうも……女性のようで。彼女らの言う涼しげな目元というのも、自分では眠たげな眼でしかなかった。
 レノンセンスはそのまましばらく水場に移る仏頂面を眺めていたが、何もかも、面白くない。不当にも周囲に愛でられる顔も、社会という不可思議な摂理も。
 レノンセンスは、水場に手を突っ込み、掻き回して背を向けた。
 そう、水場。
 主のテント近くでは綺麗な水が手に入るという情報が回ってきていた。だから池か湖、もしくは湧き水の類なのだろうとレノンセンスは踏んでいた。しかしながらいざ出向いてきてみると、そのどれでもない。辛うじて湧き水に分類できないでもないが、カテゴライズにどれだけ意味があるというのか。
 レンスの目に入ったのは、その辺りに生える岩とは異なる、石台からこぼれる流水であった。石台には溝があり、流れ落ちた水は石作りの四角い溝に溜まり、溢れることもない。おそらく排水もされているからなのだろう。
 とどのつまり、出力の弱い噴水のような物だった。遺跡の力なのだろうか。ただ循環しているだけではなく、不純物の除去まで行われているようである。
 老人はこの水場の利権を勝ち取ったがために、この土地から離れたくないのだろうか。
 そんな疑問を覚えないでもなかったが、意味がなかった。水場の出力は一定らしく、家族を養うくらいには問題ないだろうが、集落を存続させるためには少なすぎる。さらに、定住は遊牧するキルト・ノィエ・ソウラスの家畜を奪うことになる。現に、主のテントの周りには家畜らしき生き物の姿はなく、ただ鼻毛が一頭繋がれているだけだった。
 もう少し水場と向かい合って考察すれば、何かしら老人を動かすヒントが見つからないでもないのだろうが、レノンセンスはもう振り返りはしなかった。考え事をするには、気分が悪すぎる。
 とはいえ、今日の交渉はけんもほろろ。することもなく寝転がり、空を眺めながら朝食とも昼食とも就かない間食とるだけであった。干し肉を齧りたいところだが、自分はビスケットを選び、干し肉は狼の方へと投げてやる。ひょっこひょっこと駆け寄る彼を微笑みながら眺め、後はのんびり、薄雲の流れを頬で感じでいた。
 時は経ち……というのも大そうな言い分だが。
 ともかく、空が赤味を帯びた頃に、馬の足音が聞こえてレンスは目を覚ました。駆けていたわけでもないので、小さな音ながら、鼻毛は思いのほか距離を詰めていた。
「昼寝か? 良いご身分だな」
「できることがないものでね。暇というのも続けば苦痛だよ」
 返答してから刃物ちゃんの持つ、というよりは鼻毛の腰に括りつけられたウサギを眺める。もちろん屍骸であるが。二つとも、身体の中心線に矢傷が残っている。
 そして、彼女の背中には矢筒と弓が背負われている。
「上手いもんだ。本当に弓で?」
「侮辱か?」
「いや、褒めてるだけで他意はないよ。共和国でも自動弓一色になってるのに。あ、こっちは皮肉がかってるけど、当然他意はないから」
 彼女としては不本意かもしれないが、疑うような目付きも様になっていてカッコいい。これも美しいと同源か? 結局のところ自分も、社会という摂理の中にいる。
 ともあれ、初対面の時のように彼女はじっくりこちらを値踏みしてから、口を開ける。
「自動弓では次矢を番えるのに手間取る」
「大勢で放てば良い。そもそも矢なんてそうそう当たらないんだから、一杯放って幾つか当てる。戦力を削るための物でしかないでしょ」
「侮辱か?」
 そういう彼女は、鼻毛に括りつけている仕留めた獲物を視線で示す。
「…………いつから訓練を?」
「弓矢は、もう一人の父だ」
 生まれてきた時からってことですか?
「それでその歳には、お爺さんの代わりに狩りに行き、狙った獲物を百発百中なわけだ」
「愚弄するか!」
 もう日も沈もうとしているのに、今日の紅潮っぷりはわかりやすかった。しかしなにも、背に括りつけた弓に手をかけることはないだろう。レンスは両手を挙げて引きつるくらい愛想笑いをして見せた。興が冷めたと見える彼女は、ため息を吐いて弓から手を放す。
「どんなに訓練を積もうと、鍛を錬ろうと、必ず当たるものではない。外れるから、弓なんだ」
「……意味、わかんないんですけど」
「私にもまだ、理解できていない」
 彼女が寂しげにテントへと目を向けるものだから、発言者が誰かわかってしまう。
「それに、今日も三回ほど機を逃して矢を射られなかった」
 小声で独白するが、それは結局のところ外してはいない、ということでは?
「まぁ、いいや。規格外はいくらでもいるし。それより、昨日はラッシー飲んでたように見えたけど、乳製品はどこから?」
「近くにテントを張る者たちから。お爺ちゃんは顔が広いから」
 刃物ちゃんにちゃん付けで呼ばれている老人にそこはかとなく嫉妬しないでもなかったが、レンスは気持ちに踏ん切りをつけて、訊ねた。意外と突破口にならないとも限らないから。
「それって〜この土地は誰も待ちはしない、受け入れはしない、ただ一人で生きよ〜だっけ? とかいう格言に反してるんじゃない?」
 少し、彼女の目が開く。これは成果ありか? とレンスが期待したのも束の間、彼女は嘲うような小さな吐息を吐き出す。こちらが全文を知っていることに驚いただけだったらしい。
「格言が腹を満たしてくれる?」
 そりゃそうだ。
「それに、おまえは表面しか読んでいない」
 それだけ呟いて、彼女は馬を進ませてしまった。
「ちょっ、ちょっと待ってよ。それ、どういう意味?」
「自分で考えなさい」
 振り返りもせず、彼女はそれだけを残してテントに入ってしまった。もちろん、鼻毛をテントの支柱に繋げてからだが。
 惜しむらくは、彼女に老人ほどの可愛げがなかったことか。
 考えてね、くらいは言えないものだろうか。

「この土地は誰も待ちはしない、受け入れはしない、ただ一人で生きよ、かぁ」
 二度目の朝、というか、昼というか。レノンセンスは目を開けると上体を起こし、一晩考えたその言葉を呟いた。
 とどのつまり、一人で生きていけるようになれ、ということなのだろう。これだけ広大な土地だ。都合よくラッシーを分けてくれる家族が近くにいるとは限らないから。
 ただ、それはキルト・ノィア・ソウラスだから起きる現象であり、人々が群生する共和国内ではとても通用しない格言である。
 一人で生きていく。自立。
 確かに重要なことではある。
 けれども、それは利用するされるといった生活を効率よく回して自己の生活圏内を守り抜く、ということでしかない。誰かを待ったりもするし、嫌いな奴でも受け入れねばならないときだってあるだろう。人の中で一人で生きるには。
 生活圏の違い。それが結局のところ、レンスが導き出した答えであった。
 考え事を終わらせると、散漫だった注意力が一つの動く物体へと焦点を定めていく。近づいてくる、狼だった。彼は起きたばかりのレンスに身体を摺り寄せてきて、身体を擦りつけながらも皮袋を見詰めている。
「わかったよ」
 レンスは皮袋の中から残り少なくなってきた干し肉を取り出し、適当に投げてやる。彼の足はもう大分復調しているらしい。左前足を引き摺るような仕草はもう見られなかった。
 というか。
「本能に任せて生きてる彼でさえ、僕に食べ物を強請るんだぜ。そりゃ、狼が群れを作るのは知ってるけどさ、あの格言は嘘だよなぁ、鼻毛」
 振り向いて繋ぎとめられている鼻毛に声をかけると、レンスの前には皮の股引が仁王立ちしていた。
「変な名前をつけるのはやめてくれ」
 刃物ちゃんだった。彼女は、キルト・ノィエ・ソウラスの民が馬に乗るためにつける、足の付け根まである皮製の長靴下をまるでズボンのように穿いている。民族衣装の足先まである貫頭衣を加工し、ボディースーツのように引き締まった衣装に仕立て上げている時点で、彼女はここいらの人間からすら浮いていた。彼女にとって暮らしの大半が、馬に乗ることだと言うことを如実に現していた。当然のように、衣類のはためきを抑える馬具である、両腕一体の、肩当ともいえそうな長手袋も付けている。いや、身につけると言うべきか。肋骨の下部まで上体を守っているのだから。
「いや、別に君の名前じゃなくて、馬の方だよ」
「同じだ」
 彼女は憮然と立っているようであり、こちらの挙動を眺めているようでもあり、武人たちが間合いを計っているようでもあり。何がしたいのだろう。こちらが顔を見ようとすれば首が痛いほど近い位置にいるというのに。
「何用?」
「別に、用なんかない。ただ、おまえがこんな時間になっても起きないから」
 彼女が口篭るので、レンスが引き継いだ。
「なんか腹立つから脅かしてやろうと思った、ってこと」
 彼女が微かに顔を赤らめ、視線を外した。どうも、彼女は表情に乏しい生き物らしい。紅潮するか、鼻で笑うか、無表情か。三様しか見たことがない。まぁ、同じ紅潮でも昨日の弓に手を伸ばすそれとは違うらしいから、表現が三種なだけで感情は人並みに多岐に渡っているのだろうが。
「そんなものじゃない、普通。それよりどう? 座らない?」
 それで恥じらいが消えたわけでもないのであろうが、彼女は頬の赤味を消した。根が素直なのだろう。躊躇いもなく、隣に座る。だがしかし、なぜかこちらに視線を向けようとはしなかった。
「……しかし、どうしたの? また、突然」
「ここに居座った者なんてそうはいないからな」
「はぁ……要するに、異国の人間が珍しかったんだ。どう? 異国の食べ物食べてみる」
 皮袋からビスケットを取り出し、彼女に手渡す。形状に少し戸惑っていたようだが、レンスも皮袋から取り出して齧ると、彼女は物怖じもせずに齧りついた。
 一人で食べるよりも二人で食べた方が食事は美味いと言うが、会話が楽しくて味も美味しく感じるだけのことなのだろう。二人で黙々と乾燥食の頬張り音を立てる様は、草原の中を風が駆けるようで、侘しく空しかった。どこか壮観でもあるかもしれないが。
「美味くないな。硬くて、パサパサしてる」
 水筒を渡すと、構いもせず彼女は口を付けた。ワインはすでに底を付き、中身は水だから喉を鳴らして飲んでいた。関節キスなどという概念はないらしい。渡しておいて、ドキドキしていたのはレンスの方であった。喉は渇いていたが、返された水筒には蓋をする。
 そうしてそのまま、会話らしい会話も交わさずに、ただ黙っていた。レンスとしては彼女を懐柔したいところではあるが、蓋をした水筒が気になって仕方がない。良い切り出しが思い浮かばない。二人で靡く風や、蝶にじゃれつく狼を眺めている雰囲気に気持ちを裂くことすらできない状態であった。
 ふと思うのは、彼女が何を考えているのか。
 横向くと、彼女は何を思うでもない無表情をしていた。小さな顔の中で口を平素でもそうするように一文字に引き、睨むでも見守るでもなく、大きな瞳で狼を眺めている。これほど近くにいるのに彫像めいて見えるのは、彼女に表情が乏しいからか、それとも英雄譚の主人公を眺める心情でいる自分がいけないのか。
 手を伸ばせば届く、どころか、腕を伸ばせば肩を抱けそうな距離に座っているのに、彼女との間には大きな溝が開いている。埋めるために声をかけようにも、彼女は嘘吐きが嫌い。しかも、些細な冗談すら嘘と断じてしまうのだから、なんとも言葉を切り出しにくい。自分が二十五年生きている中の人生経験を探ってみるが、どれも陰惨だったり、虚飾に塗れた政治的謀略だったり。思い出すだけでも鬱に飲まれてしまいたくなる。
「可哀想な子」
 唐突に開いた口が差すのは自分のことであろうか。刺されて、破裂した風船のように疑問が流れ出す。捨て子の事か? 場違いな事か? 利用されてる事か? どれも言葉足らずな疑問は激しくも、口から漏れる前に力足りずで息絶える。
 レンスを動揺させることしかできない、密やかな感情で終わってしまった。
「おまえもそうは思わないか、あの狼――どうしたんだ?」
 動揺を殺しきれないでいるうちに、問いかけるために彼女がこちらを向いた。
「え、なにが?」
「変だぞ。その顔」
「いや、それはかなり傷つくよ」
「そうじゃなくて……何で笑ってる。痛そうな顔をして」
 そうか、自分はそんな顔をしているのか。と教えてもらってから、レンスは酷く納得しながら、両頬を強く引っ叩いて燻る感情を殺した。
「これでどう? ちゃんと笑えてる?」
「手の跡が赤くて、かなり変だ」
 新発見した彼女の四種目の表情が、こちらの顔が直ったことを教えてくれた。年頃の娘たちが普段そうするような、はにかんだ微笑みがそういっている。
「で、えと……なんで可哀想なの?」
 蝶を追いかけて元気に、というほど躍動感に溢れるわけではないが、少なくとも怪我の影響を引き摺らずに走り回る狼のどこが可哀想なのか。彼女は、わからないの? とばかりに無表情に戻ってしまった。
「生きていられる命が失われる」
「失われていたかもしれない命が、生き延びたんだろ?」
 吐息はため息なのだろうか。良い手本が近くにいないのか、彼女の嘆息は酷く短かった。
「なんでそう思える。愛玩動物として、意味も持たず、死なないだけでいられるのを是とするからか」
「う〜ん、それもけして悪い選択じゃないと思うけど。そうでもしないと生きられない事情があるとか……――置いといて。群れに殺されそうだったのに生きてたんだから、めっけもんじゃない」
 また、桃色吐息。そう見えるのはレンスだけで、彼女からすれば鼻で笑うのと同義なのかもしれないが。
 ともかく、彼女はそれからしばらく眉根を寄せて、どこか獲物を狙うように狼を睨みつけている。彼について考えているのだろうが、狩人の目であった。そして、そのままの目付きでこちらに向き直るものだから、まるで怒っているような顔で。
「親に反抗した子供を叱ったからって、親が殺すとでも」
「ごめん。親いないから、その例え、良くわからないや」
 目に色を失った彼女の顔つきは、五種目の大発見だった。

 拙い詫びの言葉を幾つか述べて、彼女は逃げるように去ってしまった。こちらは気にしていない、と繰り返し伝えたつもりなのだが、意を汲み取ってくれたとも思えない。
「勝手に、嘘吐きにされてしまったかな」
 時間に追い立てられた太陽が地平の彼方へ逃げる様子を眺めながら、レンスは小さく呟いていた。
 こちらにきてからというもの、酷く夕日を拝む比率が高い。昼から起きて、日が沈んでから間もなく眠る。目を開けている時間そのものが酷く短くなっているのだから、夕日が多く思えるのも自然なことではあるのだが。
 とはいえ、一日の終わりばかりを何度も見るというのは、居た堪れない。
 腰の辺りがむず痒い。
 忘れかけていた性衝動かとも思ったが、狼が身をこすり付けているだけであった。彼に感慨というものはないのだろうか。獣に風情を求めるのは、愚かな行いかもしれないが。
「わかったよ。けどなぁ、これで最後なんだぞ」
 皮袋から取り出した干し肉をしつこく見せていると、彼は鼻を突き出すようにして、こちらの手から離れる前に齧り付こうとする。慌てて手を引っ込めた。
 いつもならこちらが投げるまでは待つのだが、さすがに腹が減っているのだろう。考えてみれば、一つで一食分にもならない分量しかない。主食のビスケットの添え物でしかなかったはずだ。そんなものしか食べないで、すでに三日も経過している。彼も、そろそろ限界が近いのかもしれない。
 遠くに干し肉を投げてやると、彼は矢のように跳んでいく。後ろ足で跳ぶたびに一直線になる彼の肢体は鋭く、美しく、同時に剣呑な空気すら醸している。完治したのかもしれない。
 宵始まりの青さが世界を覆い始めるその只中で、肉を貪る彼はもう、狼として復活していた。
「けれど、餌を獲りにいこうともしない」
 これが刃物ちゃんが言っていた、生きていられる命が失われる、ということなのだろう。家出した悪ガキが、美味しいものをくれる怪しいオジちゃんについて行ったようなものか。
 自分が、彼を、狼として駄目にした。
 仮に、彼がこれから獲物を取れるようになったとしても、もう狼たちの群れの中に戻ることはできないだろう。それでも、自身に意味を持たない愛玩動物として生きられないでもないが、あれほど大きな獣が人の町に入ることを、果たして人間は容赦できるだろうか。
 とどのつまり、彼は、死んだのだろう。
 生き残るには……
 干し肉を食べ終えた彼が、近づいてくる。楽しそうに駆け寄ってくるいつもと違い、一歩一歩、地面を踏みしめるように、距離を測るように近づいてくる。
 たかだか一切れの干し肉だった。足りるはずもなく、お代わりを寄越せと、短く切るように、大きく咆えた。
「そうは言われてもね、もうないんだよ」
 彼はもう一度咆えて、唸り声をむけてくる。
 仕方なくレンスは立ち上がった。皮袋の口を開け、逆さにして中身を全部晒す。ビスケットが少々と、火筒を使うために必要な粉を入れた瓶が幾つか。まだそれほど暗くはないのだから、彼にも見て取れただろう。唸り声がいったんやみ、再発したときには明確な敵意を孕むそれとなっていた。
  試しに、一つだけビスケットを彼の足元に投げてやる。彼は鼻をつけて匂いを嗅いだようではあるが、齧り付こうとはしなかった。犬なら食べるのに。
 狼としての矜持が受け付けないのか、肉食獣の本能が食べ物ではないと断じたのか。どちらにせよ、彼はまだ生き残ることができるだろう。
「元はといえば僕のせいなんだしね。責任くらいはとるつもりだよ」
 レンスが胸の前に両腕を広げた。それは抱擁する仕草に似ていないでもないが、無抵抗を伝えるための仕草であるつもりだ。最後の瞬間に彼を抱きしめて、体温を感じられれば嬉しい限りではあるが。
 しかし、心の準備がすでにできたというのに、彼はちっとも近づいてこない。低い唸り声を続けるだけで、まるで動こうともしない。瞳は、警戒しているように見えた。
 ああ、これか。とレンスは胸元に入れておいた、親指くらいの太さの長い筒を取り出した。暴発しないよう、筒の尻に刺さる棒を固定する安全装置を確かめてから、適当に捨てる。
 唸り声はやんだ。だが、彼が殺意を捨てた訳ではないらしい。元気になった両前足に体重を乗せていき、腰のすぐ下で曲げた後ろ足は撓められている。
 まだ、来ない。もともと群生する狼の性だろうか。完璧を期すまでは走り出さないのは。自分が一人であるという不安も関わっているかもしれない。ともかく、彼はまだ来ない。
「ああ、わかったよ。これでいいだろ?」
 背中を向けて、レンスは両手を腰の後ろで組んだ。まるでお偉いさんが演説するみたいな姿勢だな、と微笑みながら、月を眺めていた。あの遥かなる高みに浮かぶ月におわす神々は、何を考えてこれほど不自然な生き物を作り賜うたのだろう。獣に比べて非力な力を補うために道具を作り、町を作り、他を排斥し、そのくせ人間同士では必要以上に交流を持とうとする寂しい生き物を。自然に逆らって新たな社会という摂理まで生み出し、そのくせそこからも外れようとした挙句に、人ですらない彼を生かすために自らを生贄に捧げようとする自分を――
 涛風の響き。
 背中が押され、地面に叩きつけられた。
 彼の足音はなく、ただ、飛びかかる時にまとわる風の音だけが聞こえたわけだ。
 振り返れば、滑らかなくらい白い犬歯と赤黒い歯茎が、彼が口を開いていることを教えてくれた。上弦の月は彼の銀紺の体毛を照らして輝かせ、現実を失わせるほど絵画的で、レンスは目を閉じ、肩にめり込む爪の痛さも忘れて微笑んだ。
 最後の映像としては、悪くない。
 裂く音だった。空間を。
 彼が痛みに叫ぶ呻きと同時に、圧しかかっていた重さは消えた。
「何を、してるの」
 目蓋を開くと、正面には、彼よりも月に愛されているらしい彼女がいた。極限まで細い三日月のような弓を片手に、矢を放った姿勢のままそう訊ねていた。大きな瞳は鋭く細まり、何でだろう、怒っているように見える。
「いや、責任を取ろうと思ってさ」
 けれど、失敗した。もう、しばらく彼は、人間に逆らおうとはしなくなるだろう。愛玩動物でいるより他、死なない道を失ったわけだ。
 座りなおして肩を竦めて見せると、爪に裂かれた箇所が引きつるように痛みを伝える。吐息が聞こえたが、それは彼女なりのため息なのだろう。それから彼女は、こちらの背に立ち、患部周辺を摩ってくれた。
「大したことはない。放っておけば直る」
「ありがと」
 ニュアンスの違いを感じ取ったのか、こちらが彼の方を一心に眺めていることで気が付いたのか。彼女は返礼の代わりに訪ねてきた。
「何が?」
「射殺さないでくれて」
 彼は遠くの方で、決まり悪そうにウロウロとしている。媚びたような鳴き声が悲しい。夜目はそれほど利く方でもないが、どうやら矢は刺さっていないらしい。掠めて驚かした。というのが本当の所なのだろう。
「外れただけだ」
 彼女は隣に座り、不満そうな表情を作っている。無表情と取れなくもないが、また、新しい顔だった。
「責任を果たす、とか言っていたが、おまえを殺せても群れに帰れるわけではない」
「どこかの群れが拾ってくれるかもしれないし、愛玩動物よりはいいかも、とね」
「つまるところ、無責任なおまえがいるわけだな」
「……ぁい」
 返す言葉もなく、レンスは項垂れていた。
 彼女の言う通りである。自分を殺せるようになり、人の愛玩動物でなくなるとして、彼はその後、どう生きる。群れもないまま孤高に過ごすことはできないだろう。火筒を捨てて背を向けるまで、こちらに飛びかからなかったのが良い例だ。群れであることに慣れすぎている。
 気付くべきだった。
 また、自分は彼を殺そうとしていた。
「それはそうと、腹は減っているか?」
 彼女の言葉はいつも突然である。理解を匂わせる前後が欠落している。
「そりゃ。それが原因で喧嘩してたんだし」
 彼女は懐から、布に包んだ一掴みほどの炙った肉を手渡してくれた。
「昼の礼だ。口に合うかどうかは、わからんが……」
 そして、視線を外す。その行為の理由を問いただすのは、やめておく。
 レンスは一口齧り、二口齧り、所在無く距離を開けて歩き回る彼に投げた。
「おまえ! それは、ないだろう……」
「いや、彼も腹を空かしているかと思って。ほら、彼、肉しか食べないんだよね」
 レンス自身は足元に転がるビスケットを広い、土を払って口にする。
 咀嚼音だけがやけに響いた。
 そして彼女が、聞き取れないほどの声で呟く。
「狼の分もあれば、食べるのか……?」
「肉料理大歓迎」
 毅然としていた彼女がどこか、頼りない足取りで立ち上がり、テントへと戻っていく。
「今日はお話しないの?」
「……いい」

「ごちそうさま」
 焼肉、汁物、付け合わせと、夜が来るたびに刃物ちゃんの料理の種類は増えていった。味の方はまぁ、新鮮な素材を使っているのだから、コレくらいはできて当たり前といったレベルではあるが。
 それでも乾燥食よりは上等であるし、なにより飢えの心配がなくなったことがレンスにはなによりありがたい。老人が眠りについた夜しか、食にありつけないのはいささか不満ではあるが。……普段は老人が作っているらしい。彼女はその様を傍で眺めているだけ。
 器を、狼を挟んで隣に座る彼女に返した。
「明日、帰るのか……」
「寂しい?」
「料理を作る理由がなくなるからな」
 今日は、こちらが器を返しても帰る様子がない。遠くを見ているような、星空を眺めているような風情で、まるで自分の物のように横たわる狼を摩っている。狼の方も、餌をくれる彼女に身を任せている。人であるなら、彼は充分にヒモとしてやっていけるだろう。
「そうだ。君がこいつを引き取ってよ」
「何を言い出す?」
「いや、そのね、君に言われた通り、彼は愛玩動物としてしか生きられないのは良くわかったんだけどさ、共和国ではちょっとね。彼より小さな犬だって、一度危険だと思われると殺されちゃうようなとこなんだ」
「帰らなければいい」
「そういうわけにも行かなくてさ……それに、僕が育てるよりも、君の傍にいた方が、まぁ、群れには戻れなくても狩りくらいはできるようになるかもしれないし」
 力なく微笑んで見せるのが精一杯だった。誰に見せる笑顔でもない、自分を騙すための微笑なのに、今のレンスにはそれすらできない。
 彼女は笑いもせず、誤魔化しもなく、しばらく黙った末に頷いた。
「ただ、一つだけ。この子は雌だ。そもそも名前は?」
 そうなのか? 狼をひっくり返して確認してもいいのだが、この期に及んでわざわざ彼女が嘘を付く理由もない。そもそも嘘が嫌いな娘だ。雌なのは信じよう。
 ともあれ、名前はどうしよう。ずーと、彼、彼言ってきたものだから、名前の必要性すら念頭に上がらなかった。
「……カレ、でいいか」
「安直な」
「名前なんて記号だよ。どこの誰かわかればそれでいい」
「嫌いな考え方」
 そして彼女は口を閉じて、カレの背中を摩っていた。小さく動かす口は「おまえはそれでいいのか?」と小声で訊ねているようではあったが、そもそも音になっていないようで聞こえやしない。
 そんな彼女の口が、突拍子もなく音を生む。こちらを見もしないが。
「共和国は、そんなに良いところなのか?」
「どうだろ。人がいっぱいいるけど、嫌いな人もいるし、一概に良いとは言えないな」
「他には、何かないのか」
 キルト・ノィア・ソウラスとの違い。常夜灯がなくとも、そもそも大きな建物がないからここはわりかし明るい。大きな建物も、人があまりいないから別にいらない。水道は通ってるけど、別にここだって水には不自由しない。遺跡の水場が補ってくれる。こっちの方が美味いし。
 座を結ぶように、レンスは宙に視線を泳がしていた。不動星の辺りで閃く。
「あ、お金がある」
「オカネって?」
「なんて言えばいいのかな? 物の価値を形にしたもの?」
 大きくは外れてないだろう。まったくその通りではないけど。
「して、どうする?」
「肉と乳を交換するだろう? 肉の代わりにお金を持っていっても変えてくれる。んで、肉と違って腐らない、かさ張らない」
「狩った肉をそのまま持っていけば良い」
 すぐさま反論する辺り、金のメリットは納得したらしいが、満足したくないのだと悟る。
 けれど、レンスの口は走っていた。
「でもね、持って行く手間、狩る手間、それらもお金が代替わりしてくれるんだ。だから――そうだね、君ならそういった手間を全て狩りに傾けることができる。それは、他の人ができない技術だからさ、肉を運ぶだけの人よりも大きなお金が手に入る。手に入ったお金を支払えば、料理が上手な人がご飯も作ってくれる。
 つまり、得意なことだけをして、人間は暮らしていける。余計な苦労をしなくて良くなる。好きなことをする時間が増えるというわけだ」
 彼女は黙ってしまった。不明瞭な物の利点だけを告げていけば、大概の人は押し黙るものだろう。反感はもちろんあるだろうが、納得せざるえないわけだ。
 詭弁だ。本当に好きなことができるようになるのは一握りの貴人たちのみで、多くは不明瞭に大きくなってしまった価値に追われるか囚われるかして生きていく。
 なんで、自分は雄弁に説き伏せてしまったのだろう。変動する価値と不当に釣りあがる価値に、良し悪しの決を下すこともできないのに。どちらがいいか? わかんないよ。そんな本音を出さずに、不自然な摂理に加担して、レンスは彼女の逃げ道を塞いでいた。
 何がしたいのだろう。なんでこんなことを説き伏せているんだろう。彼女が共和国に憧れてくれるように? そうすれば老人も動いてくれる? そんな期待なのか?
 そうであれば、まだ自分を好きになれるのに。酷い人間として。
 結局、結論を下せない自分がここにいる。
 押し黙っていた彼女が、ふいに口を開いた。
「好きなことって、なんなの?」
「……なんだろう?」
 良くわからなくて、レンスもカレを摩ることにした。

「それじゃぁ、行ってらっしゃい」
 レンスが微笑みながらそう送り出してあげても、彼女は何も言わずに馬を走らせた。
 颯爽と、悠然と。レンスが見送る彼女の背中は小さくなっていき、やがて、地平の彼方へと消えていく。
 レンスはそのまま辺りを見回し、潅木や剥き出しの岩、平地ばかりが続く一面と突如として沸いた岩山のような遺跡を眺め、微笑を消した。
 帰らなければならない。共和国へ。
 嫌いな人間ばかりではない。笑い合える友もいるし、信じられる部下もいれば、尊敬できる上司もいる。何より、様々な感情が溢れないでもないが、それでも愛している弟がそこにはいる。共和国に帰ることが、嫌なわけではない。
 だが、この土地を離れることは気持ちがぐらつく。
 自分がキルト・ノィア・ソウラスで祝福を受けていないことは知っている。彼女のような体力も、狼のような歯牙も、自分にはないのだから。とても一人では生きられないから。
 それでも、他人との接触をほとんどそぎ落としたこの土地が、レンスは気に入っていた。意地悪で頑固な老人も、愛想のない彼女も、甘えん坊なくせに気まぐれなカレも。自分を注視しないでくれる。ただそれだけで、レンスの心は安らいでいた。
「良い休暇になったよ」
 礼のつもりで、レンスは吐き出した。
 事実、老人の説得は任務の枠を超えた、レンスの利己的な判断で行われた計画である。遺跡調査は以前から行われていた。それを妨害する勢力に対する排除命令が下されていたのも事実ではある。しかし、キルト・ノィア・ソウラスへの闘器の進攻は確かに莫大な費用がかかる。かといって闘器を含まない軍隊では、どれだけ集めれば排除できるのかも見当も付かない。敵は老人一人だけ、という情報がどれだけ正しいのか。正しいとして、一人で調査隊の十を超える護衛を屠る老人をどのように排除するのか。老人が応援を呼ばないとも限らない。そもそも、闘器での戦闘を軸に訓練されている兵士たちが、どこまで身一つで闘う草原の民と闘えるか、推し量りようもない。
 ならば交渉した方が安上がりだろう、とレンスは結論を下した。命令が下されてから、闘器が長距離移動の準備を整えるまでに十分猶予をとり、その間に自分は単独、遺跡の主との交渉に赴いた。準備の指揮だって立ち会うのが本筋なのだが、そのために両親の葬儀があるなんてことを言ってみたりして休みをもらったのだから、休暇というレンスの言い分もまた、事実なのだ。
 交渉でことが上手く運べば万々歳。失敗しても、老人と他の人間の繋がりを知ることはできたし、戦力の方もおおよその見当は付いた。
 説得と諜報。できなかった工作も含めて、良い作戦だったと思う。
 ただ、この土地が戦場になるのかと思うと、自分の胸が痛むのがレンスの誤算ではあったが。
「若いの」
「どうしました? 老いたの」
 扉代わりの垂れ布を捲ってこちらに姿を晒す老人は、振り返ったレンスに苦笑いを漏らした。眼差しが厳しいのは生来のものであって、今の返し言葉に反感を覚えたとは考えたくなかった。
「確か、レノンセンスとか、言いおったな」
「レンスでいいですよ。本名を語るほど迂闊ではありませんから」
  老人の苦笑いが示す友愛は、その程度では揺るごうともしなかった。「まぁ、入りなさい」と促す素振りを見る限り、偽名でないくらいはあちらさんも見抜いているだろう。
  日に一度ずつ、累計六度目となるテントの中へ、レンスは入っていった。食器の位置と貯蔵食料の増減くらいしか様変わりしない内装は、やはり最奥に白毛の毛皮がかかり、神具のように刃物ちゃんの物よりも分厚い大きな弓が飾られている。
  囲炉裏を挟んで向かい合い、腰を下ろした。梁から垂れ下がる鍋吊るしの紐が、老人の友好的ながらも厳しい顔付きを両断している。
「まずは一杯、やりなさい」
  渡された器に、老人が水筒から弱粘性を持った白い液体を注いでくれる。ラッシー? 念願が、どういうわけか叶って飲めるのだなと、レンスは口をつけて飲み込む。発酵が進みすぎたのか妙な匂いがするなと思えば、件の乳製品が喉を通った時に焼きついた。
「っげふ……」
 小さく吹き出したが、乳酒であることがわかれば飲めないこともない。二口目には独特の臭みにも慣れてきた。とはいえ、老人のようにグビリと呑み下すことはできず、パンを千切って食べるように飲んでいた。
 喉を鳴らして飲み下していた老人が、言葉を切り出してきた。
「君は、今日帰るのかね。それとも君の仲間が迎えに来るのか?」
「仲間が来るんですよ。でも、武装はしてないんで、射殺すとかは勘弁してください」
「せんよ。仮に武装してくるのなら、手も足も出まい」
「でも、ここから離れるつもりはないんでしょう?」
「できうる限りの抵抗はさせてもらうよ。本気で追い出すつもりなら――いや、あの山を調べるつもりなら」
「やめましょうよ。老い先短いとは言っても、死にたくはないでしょ」
「そんな君だから、譲れんのだよ……軽く話すことで、自分に関わる全てを偽りのものにしようとしている」
 微笑み方は、穏やかだった。
 刃物に刻まれたようなシワも、今日はどこか柔らいで見える。別段、こちらの軽口に激情した様子ではなかった。むしろ、レンスに憐憫をむけているようにすら思える。
 老人は弛んだ糸を伸ばすように、居住まいを正して顔面を整地した。
「私がここに居座るのは、ただの意地なんだ」
「なんとなくは。物理的な利点は見出せませんでしたし、キルト・ノィア・ソウラスの伝承にも関係なさそうでしたので、個人的な理由かとは見当をつけていました」
 あちらが居住まいを正したので、レンスも口調を切り替えた。一応、真顔を作ったつもりではある。
 老人はこちらの言葉を咀嚼するように一考してから、語りだす。
「昔、少年だった頃、私は小さな村の、闘器を操る家系で育った。いつの年だったか、私の住む村は食料の蓄えが尽きてしまってな。狩に出ようにも、近くの森にはエルフが狩場を主張している。迂闊に入れば、射殺される恐れすらあった。それで、父はエルフたちが集まる彼らの祭りに闘器を動かし、根絶やしにした。
 ところが一匹残っておってな、そいつが今度は、森に隠れながら村人を殺すようになった。闘器で迎え撃とうにも、相手はどこにいるとも知れぬ相手。父は、寝床で射殺されていたよ。
 村人たちは憤り、操縦技術を受け継いでいる私に闘器に乗るよう命じた。どこにいるとも知れない相手を殺すために、暗い森の中へ追いやろうとした。
 私は拒否した。エルフのやっていることは、こちらが行った虐殺に比べれば大したことはない。森へ踏み入った者と仇敵を殺したに過ぎない。それより何より、私の操縦技術では森に隠れたエルフを倒すなど、とてもとても。
 そう言ったんだがな、村人たちは私から全てを奪ったすえに、暗い森へと追いやった。手元に残ったのは、虫食いだらけの防寒具と玩具みたいなナイフが一振りだ」
 老人には悲しむ素振りも見えない。長い彼の人生が、苦い記憶を風化させたのだろうか?
 レンスには判然としなかったが、一口乳酒を呑み下した老人は、構いもせず続ける。
「そこで、件のエルフと出会ってしまった。正確には、無断でエルフの小屋で休ませてもらっていたのだよ。件のエルフは、森に追いやられた私を取るに足らない存在として無視をした。そんな、小屋での一時の話しだ。
 エルフは自分の所業を悔やんでいる様子だった。同時に、それ以上の憤りも持ち合わせていた。だからかの、自分たちの一族が闘器によって殺されたことを、あろうことか私に喋りだした。その頃の私は、父がそのような殺戮をしていたことをよく知らなかった。知識も一人で生きていく技術も知らなかった。ただ、直面したばかりの孤独の恐ろしさに気が滅入っておったのかな。それとも、単純に罪の意識か。そのエルフに全てを話し、殺してもらおうと思った。
 彼は答えを保留した。そしてあくる朝、弓を捨ててしまった」
「なぜですか?」
「わからぬ……わからぬが――君はなんのために生きている」
 話の流れ方が変わったが、レンスは正直に答えた。
「弟の……家族のためです。それと、身の回りの者のために」
「なら、こんな危険な土地にまで出張る必要はないだろう?」
「周りの人たちも、誰しも、誰かを失うのは嫌だと思います。だから、僕はできるだけ多くの人を守りたい。できるだけ多くの人が笑っていられる世界を」
「そのために、素知らぬ他人を傷つけようと?」
 老人の問いかけは意地悪であったが、至極もっともでもある。レンスは負い目を振り切るために、わざと力強く頷いた。
 老人は笑った。
「良い心がけだ。
 だが、詰まる所に自分がいない。自分を省みない者が、他人を守ってやれるとでも? ――逆説的に君は、守れるだけ守る。その見返りとして褒め称えて欲しい。礼を目的にしているが、そんな気持ちを表面に出したくはない。そんな、体の良い看板掲げているようにも見えるぞ」
 何も言えなかった。体裁を整えているつもりなどなかった。しかしながら、そうではない、と言い切れるだけ自分を見詰め直していないのもまた、確かである。
 火を灯してもいないのに、囲炉裏の中の炭が崩れた。
 そんな、音にならないような老人の声であった。
「彼も、そうだったのだよ」
 レンスが話の切り替わりに対応しきる前に、老人は続ける。
「彼もキミと同じように、自分の心が何を求めているのかわかっていなかった。エルフは単独行動を好むからといって、孤独が好きなわけではない。気心の知れる仲間とは交流持っている。寿命が長いから、その輪を広げすぎないために単独であろうとするだけだ。
 だが、彼は目の前で全ての仲間が惨殺されたのを覚えている。殺意が湧き上がるだろうよ。そしてそのまま、心を凍結させた。死んでいった者たちのために。
 だから憎悪に突き動かされて人を殺し続けた。しかし私の言った何が琴線に触れたのかはわからぬが、彼は、凍結した心を溶かした。美しい物を愛で、鳥の囀りを楽しみ、食に喜び、人と触れる。そんな、当たり前の刺激に心を揺れ動かせるようになり、優しくなっていった。
 弓を捨てたのは反動でしかないよ。誓いの表明と言ってもいい。無駄な殺生しない。そのために武器を捨てた。それだけのことだと、私は思っている」
 乳酒を入れた器を、老人は傾けた。呑み干したようだ。
「その頃、少年だった私にもまた、生きる目的がなかった。ただ、自分を殺さないでくれたエルフがやけに嬉しくて、彼について生きることにした。それから五十年ほど一緒に渡りをやった。そして、ここだ」
 この遺跡の麓に辿り着いたということだろう。
「ここで、彼は言った。これは危険な物だと。彼も詳しくは知らないらしい。だが、エルフやドワーフみたいな長寿の生き物の中には比較的有名な伝説があるらしい。月の神と大地の人々が争った、ちょっとした神話が。
 それは同時に実話でもあるらしくてな、この遺跡がそれらしいと言うのだよ。
 五百を越える寿命を持つエルフたちが語り継いで、すでに神話の域にまで辿り着いてしまった昔の遺物。それがどのような力を持っているか、私には見当もつかん。だが、彼は怯えていたのだよ。私があげた玩具みたいな小ぶりのナイフで、熊すら屠る彼が。
 そして、遺跡が復活しないよう、人から遠ざけようとした。
 しかしな、もともとまともな森が少ないこの土地だ。エルフは目立つ上、敵視されている。彼はここに住めば、必要以上に人が集まってしまう。元の木阿弥だ。だから私が残っている」
「そして、何も知らないあの子に次の代を担ってもらおうと?」
「所詮、それが我侭に過ぎないのはわかっている。人には各々信じるものがあり、それに基づいて行動するのが正しい姿だ。だが、私の信じているものなど、この遺跡が危険なことくらい。人が使ってはいけないと思い込んでいるくらいだ。
 他の常識的な事を教えたとしよう。例えば、人の命は尊い。だが、私はここに近づく者で、この遺跡を復活させようと思っているものならば迷わず射殺すだろう。
 矛盾の正当化を教えるよりも、自分の信念を教えてから付随する常識やら観念を教えても良いかと思っての」
 老人は、はにかむように微笑んだ。どこか悔やんでいるようではあったが。
 仕切りなおして、もう一度こちらを見詰め直す。
「キミの言葉は耳に良い。信じていることもだ。だが、自分がいない。信じていることにどれだけ心を重ねてよいかすら、迷っている。心を決めてから、もう一度訪れなさい。
 応えによっては、この老いぼれは身を引こう。……条件は出すがな」
「条件?」
「娘をもらってはくれんか?」

 そういった老人の顔は、酷く楽しそうで、イタズラを楽しんでいる邪気が溢れる子供のようであった。
 話はそれでお終い。老人は「瞑想をするから」とレンスに言い、また痛そうな胡坐を掻いて寝てしまった。レンスはしばらく老人の言葉を反芻しながら乳酒を飲み干し、テントから出た。
 駆け寄ってくるカレは飛びかかるようにしてじゃれ付いてきた。レンスは尻餅を付いてしまう。カレを知らない人からすれば、襲われているように見えることだろう。とても共和国には連れ帰れない。刃物ちゃんも同じだ。伝説の英雄は伝説の中だから輝くのであって、現実に出てきてしまっては輝きを失うどころか、行き過ぎてしまった盲人でしかない。
 カレの後ろ足に皮袋の閉じ縄を括りつけ、テントの柱に結びつけた。すっからかんになった皮袋をどうしようかと考えないでもなかったが、適当に捨て置いた。土に返るか、腹を空かしたカレが食べるだろう。
 老人は、レンス自身の心が定まれば土地を明け渡してくれるらしい。全ては自分の心次第だった。武力行使はいつでもできる。
 レンスは、遠くに見え始めた迎えの馬車を待たず、そちらへと歩き出した。

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