■ disrder3 共和国の貿易商 一人目 クアー・カット ■

早稲 実

 
   1

 ん、んん、ぷはぁ! 美味ぃ……さすがは元老院議員さまの邸宅だな。でかい家じゃないが、いきなり注文しても冷たい水が出てくるたぁ。井戸があるってことか? 煮沸しなくてもいい井戸が? 
 そーいえば水が普段から飲める地域の奴らは、ワインでも簡単に酔っちまうって聞くな。おまえらもそうなのか? 違う? ほー、ならワインを持って来い。水を飲めるのはそれはそれで嬉しいが、ワインの方が慣れてるしな。話すにはその方がいいだろう。
 なに? 報告だろって? 構うもんか。ワシが許す。持ってこさせろ。あ、肴でもいいが、その前に何か腹に溜まる物を頼む。
 わかったから話せって? 話すわ! 言われんでも。そのためにワシが残ったんだから。
 あ〜、そうそう、あれはワシが、不謹慎な親類連中を追い払っていたときじゃった。何の話かって? まぁ、黙って聞け。ザールス様は坊ちゃんが生まれて早々に奥方様をなくされてな。その上、早すぎる今回の訃報。つまり、跡継ぎが不在の状態だった。いや、血筋のことではなく、大貿易商のとしての財産と権利だ。貿易って物は難儀なものでな、一度始めちまうと、どれだけ財を蓄えていても回していなけりゃ消えちまう。まして権利のほうは、成人を果たしてなければ与えられないってのは国の法。どちらも坊ちゃんが相続ってわけにゃ、いかんだろう。
 だからってあやつ、ゲルズは――ザールス様の兄だそうだが、失踪の報がはいった直後に葬式支度を始めやがった。喪服を着た小坊主どもが次々入ってきたかと思えば、花を飾るわ、祭壇を作り始めるわ。状況を理解できた時にはすでに、ワシは柄斧を掴んで振り回していたね。
 いやいや、殺しはせんよ。ただな、ゲルズは家まで追い掛け回してやった。なかなか痛快ではあったぞ。弟の財産だけで肥え太ったあいつが失速するたび、柄斧の先で尻をツンっとな。それだけで飛び上がって、大声で駆けていく。
 だが、帰り道は物悲しかったなぁ。
 おまえ、貿易に出る時のザールス様の警備隊がどんなものか知ってるか? 闘器が二機に、それを守るための剣士が四十。整備士や従者も戦列に加われるよう鍛えられてるから、総勢で百人隊くらいの戦力がある。どんな山賊も盗賊が相手でも、逃げるのではなく蹴散らしておった。それだけの力があるからこそ、若い坊ちゃまを残して自分が逝ってしまうことなど考えておらんかったんだろうなぁ……
 そう。つまりそういうことだ。
 それだけの警備隊に守られていながら、消息不明という報が入ったこと。そして、生き延びた者がその報告を正しにやってこないこと。つまりそれだけで、予測が立つというもんだ。全滅。百人隊と並ぶだけの戦力が、全滅。そんなことが本当に起きるものなのか、起きるとすればどういうものなのか。どちらにせよ、ザールス様とはもう合えないのかと思うと、ワシは物悲しい思いに囚われたよ。
 囚われたまま、帰宅だ。ワシはいったいどんな顔をして、坊ちゃんに合えばよかったと思う? お父上は死んだ、そう伯父に言われた坊ちゃまに。
 悩んだよ。そして、悩んでいる自分に嫌気がさした。ザールス様の死を受け入れている自分自身にな。
 だがそうやって、爪先ばかり見ながら歩いてるときほど時間は早いもんでな、気が付けばもう、花の飾られた玄関が目に飛び込んできたよ。だが、落ち込んでいる場合ではなかったな。玄関の鼻先に馬車が停まっていたからな。
 今度は妹の方か! と柄斧を握って玄関を潜ると、応接室の方で坊ちゃまと誰かが話しておる。当てが外れたわ。男だった。見慣れぬ、いや、どこかで見覚えのある男だ。小柄で、痩躯で、だが眉間にシワが刻まれてる、目がぎらぎらした男だった。その男の口からな、「これが一番だと思うがな。ザールスはすでに死んでいるんだから」だ。
 困惑していたが、ワシは一気に合点がいったね。
 あやつも敵だ。坊ちゃまに仇成す奴だ、とね。火にかけた鍋の水が泡立つように、吹きこぼれるほどに血が上ったわ。柄斧を振り上げて、叫びながら応接室に駆け込んだ。もう、中庭の花が咲く所だろうが、踏み荒らしながら突進した。
 だがな、応接間に入ったところで、ワシの首筋には刃物が突きつけられていた。
 隠れていたとはいえ、ワシの頭に血が上っていたとはいえ……相当な腕だと思ったよ。眠たい眼差しというより、糸目に近い男だった。だが、わずかに除く細い、線のような瞳からは、殺しに慣れた者の臭いを感じた。ワシとは違――ん、ごほん――兵士や山賊とは違う。羽虫を殺すように、何の感情も興すことなく人を殺せる男だとな。
 そう。ドィクタトルとテニスだったよ。

 ん? なんだこれは? ワシは肴よりも飯を頼んだはずだが? ……あ〜。繋ぎということか。ふん。クラッカーとクリームチーズねぇ……こんなものじゃ腹の足しにはならんわ。それどころか、子供の菓子ではないか! まったく、馬鹿にするのも――ん、んん……まぁ、悪くはないがな。
 なんだ、その目は。心配そうに見んでも分けてやるわ。ほら。それ以上はダメだぞ。おまえの弟のために疲れたワシが食うんじゃから――ああ、報告のことか。
 結局、坊ちゃんは奴の話に乗ったよ。ワシは納得できんかったが、坊ちゃんが行くというのなら、ワシは従うだけだ。
 奴が誰かって? 決まってる。あの、傲慢で尊大で鼻持ちならん、貴様の弟だよ。奴が何を言ったかわかるか? あの若造、たかだか一議員の癖にあろうことか貿易商ザールス・カットの唯一の後継者に、ヒニアル坊ちゃんに命令を下しおった。
「クアー・カットを貿易商とし、おまえ自ら南の帝国を調査してこい」とな。
 うん? ああ。クアー・カットがワシの名だ。ザールス様が何年か前に届けを出してくれたらしいのは知っておったが、姓を名乗るつもりなどないよ。ワシはあくまでザールス様の男気に惚れたのであって、肩を並べるつもりなど、さらさら。
 だから、というのもあるな。坊ちゃまの意思に口を挟まなかったのは。ザールス様はいつごろからか、忌憚なく意見を述べるよう言われていた。だからワシも、あくまで従者として意見や諫言をさせていただいたが、ならばこそ、坊ちゃまの意思には口を挟めん。ワシの言葉をザールス様の言葉と履き違いかねん。
 だからワシは、何も言わずに旅支度にかかったよ。家の守りを任されるようになってから仕舞い込んだ、この鎖帷子を引っ張り出したのよ。

 ったく。美味いには美味いが、やはり菓子じゃ腹が膨れんな。飯はまだなのか? ふぅむ。まぁ、こんな半端な時間じゃ、仕込みもできていないというのはもっともだが。まぁ、いいだろう。
 そんなことよりも坊ちゃんだ。坊ちゃんも腹を空かせているだろうに。あやつは料理ができるのか? いや、料理をしているところなど見たことがないが。! まさか、坊ちゃまに作らせておるんじゃなかろうな。
 ? あやつ? テニスに決まっておろうが。
 奴が坊ちゃまに付きそうように出て行ったから、ワシの仕事はドィクタトルに話をすることだと思っていたが――いや、外出を疑っているわけではない。警備隊を壊滅されてまで出てこんとは思わんからな。だが、明日、坊ちゃまが来るまでに貴様がきちんとあやつに話をするよう、つまり貴様に今回の旅の話を信じさせるために残ったのだ。
 信用している? ワシが? テニスを? はん! 馬鹿も休み休み言え。テニスが信用に足る男か? 目もろくに開けずに、歩きながらも寝ているような奴を信用できるか? 細い糸みたいに閉じた目蓋の奥で、奴は自身の損得しか考えないような男だ。如何にして信用できる。まぁ、だが気配の絶ち方から見ても腕は立つ。それに、今回の仕事の間なら坊ちゃんに危害を加えるようなこともあるまい。気をつけるのは、ドィクタトルに報告し、その後だ。
 それを信用していると言うって? 馬鹿な! あやつが開口一番にいった台詞を知らんから言えるのだ。あやつはな、会ったその場で何を言ったと思う? ん? いや、会ったときに吐いた台詞は、普通の挨拶だったがな。
 待て。ワシはそういうことを言いたいんじゃない。勘違いをするな。
 ともかくだ、あいつは挨拶をしてきたさ。二度目に会ったときにな。
 ワシと坊ちゃまはドィクタトルがテニスを伴って出て行ってから、旅支度を始めたよ。雨風を凌ぐための外套、下草を気にせず歩ける脛当てと、それと繋げられる長靴。ワシはさらに柄斧を持ち、坊ちゃまには短剣を持っていただいた。水と食料はわずかだけ携えて、あとはその場で自給することにしたよ。なんせ二人旅だ。それもドィクタトルの命なのだが、確かに荷物を運ばんのならば少人数の方が動きやすい。
 馬は、ドィクタトルが用意する手筈になっていたからな、ワシらは翌日にこの家まで訪れたよ。貴様がいたかどうかは知らん。明朝に玄関まで訪れると、テニスが馬を三頭従えて待っておった。
「おはようさん、じゃ、行こうか」
 これが挨拶だったんだよ。
 あやつが旅についてくるのはわかったさ。二頭でいいはずの馬が三頭いた。つまりこやつも付いて来るつもりなのだろうとな。ワシと坊ちゃまが馬に乗るのを見届けると、あやつは勝手に馬を進め出す始末。すぐにでも出発というつもりなのだろうよ。
 こういう奴なんだろうと思ったよ。これから長旅に出る仲間だというのに、まともな挨拶もできん、そんな奴なのだとな。思ったときには、頭に血が上っていたよ。
 まぁ、それでも坊ちゃんの手前。いきなり切りつけるようなことはせんかったがな。
 テニスはそのままワシと坊ちゃんを先導してレイマスの町を覆う門のところまで馬を進めたよ。門番に懐から出した何かを見せると、口を交わすわけでもなく門が開いていった。
 そして、外の世界というわけだ。
 門を出てもレイマス中枢都市であることに違いないが、坊ちゃんにとっては新鮮だったんだろうな。石畳やセメントの壁に守られた町しか知らない坊ちゃんにとって、土を均しただけの街道も、薄汚れた木造りの小屋も初めて見る物なのだろう。坊ちゃんはしばらくの間、辺りにきょろきょろと視線を巡らせておった。
 訊ねたよ。
「坊ちゃん。何故、ドィクタトルの申し出を断らなかったのですか」
 何故、訊いたかって? そうだな……ワシにもわからん。
 口を挟まずに従うつもりであったが、何故だか、訊いていた。不満はあったと思うぞ。だが、それを何故、あのタイミングで訊ねたのかはわからん。ドィクタトルの命令に従った理由など、坊ちゃんが旅に疲れて愚痴り出した時にでも、坊ちゃんの気を紛らわすためにでも聞けば良いと思っておったからな。まぁ、ワシの気が重いにも関わらず、坊ちゃんが楽しんでいるように見えたのが癇に障ったのかもしれないな。
 ったく……口は挟まんと決意していたくせ、心の奥底では子ども扱いだ。従者にもなりきれてはおらかったよ。
 ……もっと強い酒が欲しくなるな。まぁ、それは報告が終わったときにでも頂くとして、話を続けるとしようか。
 今、言った通りなんだろうな。訊ねた理由など。坊ちゃんの顔は、怯えるというほどのものではなかったが、驚いているようだった。馬は勝手に歩き続けていたが、坊ちゃんとしばらく視線を混じり合わせていたよ。
 きっかけは、鳥の囀りだったな。思い出したように坊ちゃんが口を開いた。本当に、今さら何を言っているんだ? って顔をされてしまった。
「議員の名前で、町を出られるんだよ?」
 意味がわからなかったよ。いや、町を出たいという理由の意味がわからなかった。ザールス様の血を引いておいでなのだから、町を出、外の世界に飛び出したいという衝動はわからないでもないが。だが、まさか、それだけの理由だとは思えなかったさ。
 それに、これから向かうのは南の帝国。国交もろくに開けていない、強大な国だ。さらに加えるなら、ザールス様の警備隊が全滅した土地なんだから。さすがに、ワシも口を挟んでしまった。
「ですが、危険なんですよ」
「貿易に危険は付き物さ。それに、クアーが一緒なら不安はないよ」
「しかし、ザールス様の警備隊ですら――」
 気付いたのは口に出してからだったね。坊ちゃんがわずかに俯いてしまったよ。慌てて謝ったんだが、あの時の坊ちゃまの顔は忘れがたかったな。顔を上げて、笑うんだよ。必死になって、笑っておられるんだよ。
「き、気にしなくていいよ、クアー。それに、まだ父さんが死んだとは限らない。これから南の帝国に調査に行くって事は、途中で父さんを見つけられるかもしれない。それに、もしかしたら、ただ情報が届いていないだけかもしれないし。案外、帰ってきたら、父さんも帰ってきててさ、クアーと喧嘩になっちゃうかもね。私の財産をどうするつもりだ、って」
 最後の言葉で全てがわかった気がしたよ。ドィクタトルと契約を結んだって。
 ザールス様の財産や貿易の権利が他に回らないよう、ワシを立てたのだと。血のつながりのないワシでも、養子に近い立場として姓をもらっているのは確かだ。だが、その程度では親戚たちの方へも財産が流れていくだろうし、坊ちゃんには貿易の権利が残らない。
 勘違いするなよ。坊ちゃんは権利や財産が欲しくてドィクタトルの話に乗ったのではない。ザールス様が帰ってきたとき、すでに財産が引き払われていては申し訳が立たないと思ったのだ。坊ちゃんが、ではなく、ワシの申し訳が、だ。
 ああ。幼稚だよ。幼稚で陳腐で甘ったれた計画だ。安否すら絶望的なザールス様が生きて帰られるのが前提な、計画とも言えん理想に過ぎん。だがな、それでも坊ちゃんは決断を下したのだよ。捲くし立てるように喋りながら、笑顔に涙を溜めて、ワシにその決断を話してくれたんだよ。
 坊ちゃんはそのまま、馬を走らせたよ。アブミで馬の腹を蹴って、先を行くテニスの脇を抜けて馬を走らせて行ったよ。涙を見せたくなかったんだろうな。しばらく先で馬を並足に戻して、目を擦っている仕草が見られたな。
 街道はまっすぐ。先を行くテニスと、その先を行く坊ちゃんの後にそって、馬はかっぽかっぽ歩いておった。その音に耳を済ませながら、ワシは自分を責めたよ。叱った。
 坊ちゃんは遥かに大人だった。初めての世界に目を落ち着けることもできなければ、父の死を乗り越えているとも言い難い。しかしな、ザールス様がいないというだけで死んだと決め付け、守るべきものも守れていない護衛よりはどれだけマシか。いや、立派な男と言って差し支えないだろうさ。
 そんな坊ちゃんを捕まえて、意思が失われるから口を挟まない? ちゃんちゃら可笑しいじゃないか。え? そうだろう? 自分の意思すら見失っていた者が他人の意思を尊重? 馬鹿馬鹿しいじゃないか。逃避だよ。ワシはきっと、何も考えたくなかったんだろうさ。何も考えず、ただ不満ばかりを撒き散らすだけの、楽な役回りに戻りたかっただけなんだろうな。
 ワシはな、それで、坊ちゃんにも口を挟むことに決めたよ。愚劣な意見ではないぞ。考え抜いた末で、諌めの言葉を口にする。その上で坊ちゃんがやると言うならば、ワシもやろうとな。
 そんな時だったよ。前を行くテニスが口を開いたのは。ワシが言いたかった、奴が始めて意味のある言葉を口にした台詞だった。開口一番では、なかったがな。
「あんたの坊ちゃんは賢いな」
「貴様が坊ちゃんと呼ぶな! ヒニアル様と呼ぶのが筋だろうが!」
 鼻で笑ったのが聞こえたよ。
「そのヒニアル坊は賢いって褒めてるんだよ。ガキに言うことじゃないがな、俺は、ドィクタトル様から護衛以外にも命令されてるんだよ。? 立場上、仰せつかってるって言うのが正しいのか?」
「知るか!」
「まぁいいか。だが、あんたには言っておくよ。あのガキが調査を放り出すようなら、殺すように言われている。当然、あんたもな」
 信用など、できるものか。