■ disorder3 共和国の貿易商 一人目 クアー・カット ■

早稲 実

 
 

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 ほ、ほほぉう。仕込みも始まっていなかったわりには,早かったな。いや、大したものが揃ったというべきかな? 
 このホロホロ鳥の照り焼きと子牛のフリットがメインか? サラダといえる物が見当たらないが、添えられたレタスとパプリカがその代わりといったところか。確かに、格式ばってサラダを用意せずとも、彩として置かれておりながらも栄養面としては十分に野菜が摂取できそうだしな。ふーむ……短い時間でよくぞここまで、料理長を呼んで来い。褒めて使わす。
 ん? そんなことより報告を続けろと? ったく。これだから毎日のように豪華な物を食ってる奴らは。食べ物に関しての感謝が足りん。肉や魚はもちろん、野菜だって植物の命をもらって食べているということを忘れちゃいかん。いただきます、の意味くらいは知っておろうに。私が生きるためにあなたの命を頂きますという、その感謝の気持ちを忘れてはならん。確かに月神さまが我々のために寄越してくれた命であるが、それが当たり前だと思っておるようじゃ〜〜〜〜…………
 それにしても良い腕だ。今度坊ちゃんにも食べさせてあげたいのぉ。ん? いやいや、わざわざ夕飯のために坊ちゃんに足を運ばせるようなことはせんよ。ワシが作って差し上げるんだ。そのためにも、後で厨房に寄っておかんとな。
 ふん。みんなそうだ。ワシが料理を作るというだけで、そんな可笑しな顔をしおる。言っておくがな、井戸端ではワシの方が近所の奥様方に教えてあげている側なのだぞ!
 いやはやしかし、この肉の美味いこと。タレに何を使っているのだろうな。フリットも大したものだ。心地よい衣の歯触りもさることながら、油を感じさせない手際にも舌を巻くのう。絞ったレモンの風味も良いわい。……それに、このスープ。さりげなく置かれたこのジャガイモのスープだが、肉の脂を忘れさせるためのこの、舌に刺すようなピリリとした味覚……胡椒か? ふーむ。手に入り難い香辛料を上手に使いこなしている。
 ふっふっふ……
 いやいや、気が触れたわけではないよ。ただな、さまざまな食材の味を充分に発揮しても、あの時のスープの味には叶わないと思ってな。そのことを知っておった坊ちゃんにはもちろん、ザールス様には恐れいったわ。
 なんのことかわからん、と顔にかいてあるのぉ。そりゃそうだ。ワシだって初めて食ったし、もう、今となっては食うこともままならんだろうさ。長旅の中で味わった、あの奇跡のスープには、な。
 いやいや、気持ちの問題ではなく、本当に美味かったんだ。信じられんのもわからんではないが、まぁ、聞け。あれは、レイマスの門を潜って二十日も過ぎた頃だった。
 初めは街道に沿って南下していた我々だがな、旅立って十日目くらいで、立ち寄る町などで南の帝国の動向を聞いたよ。なにせ民族総出の大移動だ。耳に入らないわけがないわな。おそらく、その原因の調査なのだろうと、旅の目的らしいものが見えてきたよ。手に入れていたのだろうな、ディクタトルは。大移動の情報を。
 ともかく、南の帝国が北上してくるというのに、そのまま南下するというのは馬鹿げておる。帝国の人間から情報を得るというのも、ドィクタトルが命じた調査とは思えんしな。そうだろう? 情報の交換であるなら、軍隊を動かせばいい。そうでなくとも、もっと大々的にレイマスの重役が行えばよいのだ。少数で旅に出ていることを考えれば、途中で帝国の人間に見つかるというのは上手くない。と言っても、ほとんど坊ちゃんが考えたことであったがな。
 ワシが提案したのはその後だ。どのような道を通るかで、ワシは山道を進言した。街道を用いずに央海を船で、というのも考えられるが、わしらには船を使えるものなどおらんかった。ザールス様のコネならばどうとでもなるのだろうが、それが逆に賊を呼び寄せる篝火にもなりかねんからな。
 それで、山だ。南北に連なるタイハイ山脈に沿って南下すれば、大人数で移動してくる帝国の者たちとも遭遇したりはすまい。山賊の心配もあるが、なぁに、やつらは貿易商やその警備が、山越えで喘ぐ頃に現れる。山の空気は薄いからな。腕の立つ剣士であろうと、慣れていなければ剣を構えているだけで息を切らす。
 妙に詳しい? ふん。気にするな。
 つまり、初めから高いところを移動している奴らを山賊が襲うことなどないのだよ。まぁ、そもそも荷を運んでいるわけでもないワシらを狙うような小者なら、たかが知れてる。
 そんなわけで、馬を山麓の民が飼いならした家畜と交換したよ。確か……リャマとか言っておったかな? 若干小さい、毛の短いカモシカのような動物じゃったわい。結局わしらは、カモシカと呼んどったがな。
 迂回に二日、山脈の高所に作られた道とも言えぬ道を辿って八日。ワシらは地図上では帝国領と呼ばれる地域に足を踏み入れたわけだ。
 すでに夜だった。高いところにいるせいなのか、青白い月がやけに大きく見えたものだよ。ワシらは南の指針星を目印に、平らな道をひたすら真っ直ぐ南下していたよ。
 貴様のような奴は知らんだろうがな、山脈といっても、必ずしも山が綺麗に一列に並んでるわけではないんだよ。まぁ、貿易商たちが通り道だけを書き記したいい加減な地図しかないんだから、行ってみるまでわかるわけもないがな。真っ直ぐ続いていた山がいきなり両手に聳えてることもある。そしてまた、その二つの山の奥では一つに繋がっていたりもする。
 ワシらが進んでいたのは、そういった台地だった。いや、山に囲われていることからすれば、盆地というのが正しいのかもしれん。おそらく、世界一高い盆地だろうな。
 ともかく、斜面と呼べるほどの坂もなく、平地といっても差し支えないところだった。空気が薄いのを除けばな。
 大きな湖があったよ。平地でも見たことのないような湖がな。だが、地平線が見えそうなくらい遠くでは、やっぱり山が聳えている。……不思議な景色だった。水があるから草も木も生えておるんだが、押しなべて低い。潅木、といってしまえばそれまでなんだが、幹が太い物も縦に伸びようとせず、ねじくれておる。草むらかと思えば、一本の草だったりもしたしな。
 それに、色が荒んでいる。葉の緑も、幹の茶色もどこか薄いんだ。時折姿を現す小さな花も、可哀想なくらいに淡い色合いだったのぉ。昼の日差しが強すぎるのが悪いのかもしれんな、あれは。気温が低いのにも関わらず、乾燥した空気と相まってちりちりとワシの肌を焼きおる。たぶん、日差しのせいだ。
 ただ、代わりとばかりに、向き出しの岩が妙に色を持っておる。硫黄のような黄色い岩石は想像できるかもしれんが、赤、青、緑というのは、山に馴染みの深いワシにも信じがたかった。あんな高さまで登ることなど、まずなかったからな。
 おっと、夜の話をしておるんだったな。悪かった、悪かった。夜も夜で壮観だったぞ。月が大きく見えることは言ったとおりだが、星々もまたしかり。それどころか、空気が薄いせいかな、見たことのないような星々まで現れおる。そして、それらが湖に反射した様子など、そりゃぁもう……
 いやいや、違う違う。そもそも何の話を――そう、芋のスープがな、あん? 調査の報告? それの話でもあるんだから、黙って聞かんかい。
 つまり、山の中に盆地があって、そこに大きい湖があって月や星が映り込んでいて綺麗だったんだ。あん? いきなり淡白になった? 細かく説明しとると貴様がさっきみたいに遠い目をして、欠伸をするだろうが。だから割愛したんだ。
 あん? 欠伸はしてない? 月や星の話を聞いてたら、キルト・ノィエ・ソウラスの夜空を思い出しただけだ? ふん。貴様みたいな青びょーたんが、あの北原野などに行ったことがあるはずなかろーが。嘘をつくな。
 それはそれとして、話を戻すぞ。
 ワシらは、そんな夜を映し出した湖を眺めながら、南に向かって南下していた。先程も言ったとおり、その当たりはすでに帝国領でな。帝国を成す五民族の一つ、タイ・ヤウント族とかいうのが暮らしておったそうだ。まぁ、昔の話らしいがな。五民族が合同して帝国を築き上げてからというもの、山間で暮らす者たちの大半も下山したらしい。
 それでも、辺りには時折、石造りの小屋が建っておったわ。石を積んで湖の水を通した水路まであった。だが、人の姿はどこにもない。恐らく山間に残った者たちも、下山した者たちに従うように移動したんだろうな。生活感が残る家もあったが、人の気配はまるでなかった。
 日が暮れても、ワシらはしばらく歩いておったよ。無論、ドィクタトルの命令に忠実であったからではないぞ。全ては坊ちゃんの思いだ。ザールス様を早く見つけ出したい。それがほぼ不可能だとわかっていながらも、坊ちゃん自身自覚していたのだろうが、進める時はできる限り進んだ。幸い、月も満ちようとしていたしな。
 そして気が付いたんだ。山が増えておる、とな。
 驚愕したよ。足を止めて慌てて地図を開いたが、月明かりだけじゃ詳しくはわからん。ライターで火を起こし、手近な枯れ枝へと燃え移らせた。当たりに転がってる物は、何でもかんでも乾燥してたわ。松明など用意する必要もなかった。
 ワシらは三人で、地図を覗き込んだよ。南半球だからだかなんだか知らんが、南が上にきている地図はとにかく見辛いものだったがの。そして、目の前の尖った黒い峰を見詰めなおした。誰も口に出さなかったが、気付いておったよ。だから押し黙ったんだ。誰だか知らんが、喉をならして唾を飲むのが聞こえたよ。
 山が一つ、増えている。
 その時ワシらがいた台地のヘリの辺り、東の山と南の山を結ぶ線上に一つ、峰が突き出していた。今までは南の山の陰に重なってよく見えなかったのか、意識をむけていなかったからか。盆地の中央にある湖を迂回する途中、それが南の山とは別のものであるとようやくわかったんだ。
 不気味だったよ。測ったように角ばった峰といい、そこから伸びている均されたような斜面といい……自然が作り上げた物とはとても思えんかった。
 空気が少ないせいか山の夜は酷く冷えるが、あの時の震えは寒さからじゃなかったよ。
「行ってみよう」
 その時の坊ちゃんの言葉に口を挟むなど、ワシにはできんかった。

 雲一つない夜空が、不気味に思えたほどだ。
 小さな物は拳大、大きな物は人が丸まったくらいの大きさの石が積み上げられた、巨大な建物だったよ。いや、建物と呼ぶのが正しいのかどうかすらわからなかった。石を積み上げた、とにかく大きな築造物だったんだ。
 暗くて詳しくはわからなかったが、遠くから見た感じでも、計算しつくされた四角錘のようだったよ。満月が照らし出す薄明かりの世界で、それは不思議な威圧感を持ってワシらの前に立っていた。
 遺跡かもしれない。そう思ったよ。
 古代人たちが残した超技術の塊なのかと、な。心が震えたよ。なんで、なんて聞くなよ? 認めるつもりはないが、ワシだってカットの姓をいただいている。いや、そうでなくとも、長年ザールス様の下で働いていたんだ。貿易の中にある、金儲けとは違う野心が疼いたんだよ。冒険心、とでもいえばわかり易いか?
「……凄い」
 坊ちゃまの声だったよ。感嘆というやつさ。
 そりゃそうだ。遺跡があるってことは、その辺りを掘り返すだけで闘器が出てくることなんて容易に想像が付く。それに、闘器の数倍もあるこの遺跡が未だ何らかの力をひめているとするなら、ワシらは月神と肩を並べるほどの力を得るということになる。
「凄い。まさか、人がこんなに大きな物を作れるなんて……」
 そう続いた坊ちゃんの言葉を聴いて、ワシは慌てたよ。坊ちゃんがあまり信心深い方ではないのは知っていたが、まさか古代人たちの偉業まで信じていないのかと、な。
「いや、坊ちゃん。これは――」
「ねぇ、凄いと思わない、クアー? この辺りには帝国の民が住んでいたんだから、古代人の遺跡のわけがない。なのに、こんな――、現代を生きてる人間が作ったものが、こんなに精巧に、こんなに雄々しく!」
 坊ちゃんは夢中になっているせいか、ワシの言葉は聞き逃してくれてたよ。助かった。
 ? 坊ちゃんの言った台詞で初めて気が付いたんだよ。遅いか? 普通、そう思うだろうが。まぁ、貴様は実際に見たわけではないから信じないだろうが、つまり、それほど信じられない建築物だったんだよ。
 だが、まぁ、言われてみれば坊ちゃんの言う通り。帝国の民が住み着いているなら、遺跡が完全な形のまま残っているわけがないわな。盗掘で荒れ果てているか、調査や実験のための小屋が近くに建てられているはずだ。
 だが、周りにはそれらしいものがない。辺りには建物がないものだから、余計にその四角錘が異様なもの――いや、むしろ神聖な物に見えてきちまったわけだ。
「たぶん、神殿か何かとして作られたんだろうね。あ、入り口かな」
 声に出すなり、坊ちゃんは入っていってしまったよ。ワシは「あ、」と、口にするのが精一杯だったな。
 その四角錘の異様さにではないぞ。ワシが考えること考えること、先読みでもするように坊ちゃんが言い当てることにだ。そして、物怖じせずに入っていってしまえる胆の太さに、ワシは唖然としてしまったのだ。
「っは! 古代人の遺跡だとでも思ったのかい?」
「ふん! 悪いか」
「いや……それが普通だよ、旦那」
 喋り終えてから唾を飲んで、テニスは思い出したように坊ちゃんの後を追ったよ。その後ろ姿を見て、ようやくワシも付いていかなくては、と四角錘の壁に空けられた穴に入り込んだよ。
 意外にも、中は明るかったことが驚きだ。人一人がようやく抜けられるトンネルが続いたかと思うと、中は広かったんだ。それに、四角錘の面の上部はほとんどがらんどうでな、夜空が見えとった。上の方はどうやら、辺だけを丸太で結んで作ってるらしいな。
 そう、丸太だ。あの辺りはねじくれた潅木ばかりだというのに、太くて長い丸太を使って四角錘の頂点を作っておった。つまり、この建物を作る上で、山麓からぶっとい大木を切り倒して運び上げたっつーことだな。いくら神を崇める神殿といっても、これだけの労力は普通かけられねぇ。レイマス中枢都市の月神神殿だってこれほどのものじゃねぇ。
 まぁ、な。確かにその時に気付いたわけじゃねぇさ……
 ああ、そうだよ。目敏いどころか、ワシはただ、なんで明るいのかもわからずに夜空を仰いで立ち尽くしていたよ。それが普通だろ? 次から次に信じられないことが起こる。それでも、それは古代人の失技じゃないって前置きされてるんだぜ。
 まるで、自分がただの馬鹿みたいに思えてきちまう。文明先進国に住む市民証を持った文明人? ちゃんちゃら可笑しいぜ。あの遺跡のトンネルを潜ってみな。超技術を持った古代人でもないただの昔の人が、どれだけ偉大だったかを痛切に思い知らされるだろうよ。変な話。テニスも同じように立ち尽くしていたことで、ワシは安堵していたんだぜ。
「見てよ! クアー、こんな物があったよ!」
 そんな中で、坊ちゃんは違ったよ。先人たちの英知に飲まれることなく、夜空を仰ぐワシらとは反対に石の床を探っていた。そして後付けされたらしい木の板を引き上げて、石の床の中から一つの小石を見つけてワシに見せてくれた。
「……確かに、ワシの顔形に似ていなくもないですが……」
「笑いを取ろうとしなくていいんだよ、クアー?」
 しかし、ワシにはわからんかったよ。その、シワみたいなヒダを持つ石がなんなのか。丸くて、ごつごつした、普通の石のようにしか見えんかった。
「聞いてない? じゃぁ、とりあえず湯を沸かして」
 その台詞で、今日の寝床が決まったようなもんだったからな。ワシがライターを枯れ草に、その種火を手近なところに転がる枯れ枝に燃え移らせてる間に、テニスなんかは素早く薪になりそうな物を集めてきおったわ。休むとなれば、普段細めていた目もキラキラ輝くのだから妙な男だ。いや、ただ弛んだ男といっても良いわな。
 四角錘の外で繋いでいたカモシカから、鍋と干し肉をとってきたのもテニスだったわ。そんな時だけ良く働く男だったな。
 水は湖でとってきた物だったと思う。詳しく覚えていないが、あの時の水源はあの湖だったしな。鍋が煮立つまで坊ちゃんは、残った水筒の水で例の石を洗っておったなぁ。
 そして、おもむろに幾つか鍋に入れる。飯が食えると思ったテニスは、まだ神秘に付き合わされると思ったのだろうな。明らかに落胆していたよ。だが、ワシは逆にわくわくした。光り出すのではないのか、と思っての。
 放り投げられた石は、一度、鍋底まで沈んで、ゆっくりと浮かび上がってきた。そして、本当にゆっくりと、緩慢にだが、膨張していく……それだけだったよ。
「ねぇ、茹で過ぎなんじゃない? そろそろ調理を始めてよ」
 その坊ちゃんの言葉で、俯いていたテニスが顔を上げたよ。ワシはなんのことだがわからないまま、調理を始めたさ。浮き上がる、恐らく軽石に似た物なんだろうな、とか考えながら、アクでもとってくれるんだろうか、とか思いながら、いささか落胆しながらも鍋に浮かぶ石を見ながらスープを作ったよ。干し肉をいれて、岩塩で味を調えたさ。その日は珍しく坊ちゃんが器にスープをよそってくれたが、ワシの器にも、テニスの器にもその軽石が入っておった。坊ちゃんが意外と不器用なのかと思ったわな。
 そして、神秘だったんだよ。
 器に浮かぶスープを避けながらスープを啜ると、美味いのなんのって。岩塩で味を調えたのはワシだが、味見をしなかったのがいけなかった。知ってれば、あれほど驚きはしなかったものを。
「むっほ!」
「どうしたんだよ、旦那。立ち上がるほど不味いのかい? ズ、ズズー。うぁ!」
「なんだこの口の中に広がる甘みは。それでいてしつこくなく――」
「いや、旦那。細かい説明はいいよ。わかる! 美味ぇよ、これ。腕を上げたな」
「ワシじゃない。なんだ、このさっぱりしていながらも深い甘みは……」
 不覚にも立ち上がって震えていたワシに、坊ちゃんは嬉しそうに呟いたよ。
「芋だよ」
「芋! いや、確かにこの、さっぱりとしていながら風味のように香る甘さは芋が持つ――噴かしたジャガイモが持つ特有の甘みだが……スープ自体にまであの甘みが何故?」
 坊ちゃんが、まだ手に持っていたあの石を、こちらに投げてくれた。シワのようなヒダが無数についた、あの軽い石を。
「それが、芋なんだよ。
 干し椎茸、ってあるでしょ? あれは水で戻すだけで、水自体に椎茸特有の微妙な味が付く。その上、戻したそれは干す以前の椎茸よりも断然味が濃い」
「乾物、ということですか……しかし、ジャガイモの乾物なんて見たことも聞いたこともないですよ」
「今、クアーが手に持っているのがそれだよ。乾燥している上に空気が薄いという、この高所。そんなこの地方が、水気を抜くには最適なんだよ。二晩、岩の上でジャガイモを寝かせるだけで、昼夜の温度差によってジャガイモの水分は外に滲み出してくる。その状態で人の体重をかけるようにして水気を切っていき、さらに一晩待つ。次の日もジャガイモを踏んで水気を出す、ということを繰り返して二十日くらい。水分を完全に失ったジャガイモは石のような硬さを持ち、何十年も保存が可能になるんだってさ。
 この地方じゃ、お金よりも重要視される物で、財産として親子何代も引き継ぐこともあるらしいよ」
 この石が、芋……そして坊ちゃんは、これが財産として引き継がれるほどの物だと言う……ワシはその石ころみたいなジャガイモを月にかざすように持ち上げたよ。透けるわけもないが、透かして見るといった風にな。無骨でごつごつで見るからに小石なんだが、器のスープは妙に美味かった。握り潰そうと力を込めてもみたが、それはすでに乾物というよりは化石に近かったよ。砕けないほどではないがな。
「……坊ちゃんは、またなぜ、このようなことを知っているのです」
 考えて見れば、ようやくそんな疑問だったよ。確かに学問ではワシなどより遥かに優れていたが、まだ十三だ。いかに賢くても、知識の総量は知れているはずだった。
 そして、さらに考えれば、わかる答えだったのかもしれんな。
 坊ちゃんはやや俯いて、それでも楽しそうな表情を作ってこういったよ。
「父さんがね、帝国との貿易の隠し玉だって。あれは美味いぞ、ってね」
 薪として使っていたねじくれた潅木が、大きな音を立てて爆ぜていたな。
 ワシは石だと思って避けていたジャガイモに口を付けると、甘く、美味く、英知を食っているような気分になったもんだが、食は進まんかったよ。

 次の日は寝過ごしたよ。目を覚ました時にはすでに、日は高かった。
 食は進まんかったが、それでも美味い物は美味い。それに、四角錘には大量にジャガイモの乾物が隠されていたからな。食料の心配をしなくていいのは久しぶりだったしな、食欲を無視してもたらふく食っていた。それで、寝坊だ。
 ワシが起きても、テニスはまだ寝ておった。大の男のくせ、外套を布団のようにかけるのではなく、中に閉じこもるようにして寝ておったよ。子供のように親指の爪を噛みながらな。
 坊ちゃんはとっくに起きていられた。四角錘の中心に立つ、太い石柱を眺めておられた。食い入るように眺めておったな。
「やっぱり、これは……」
 何かを呟いておられた。その台詞を吐き出した唇はまだまだ幼いのだが、表情には一人前の男の風格が漂っておられたな。目元など、貿易に出かけられるときのザールス様にそっくりだったわ。
「あ、起きたんだ。おはよう」
 ワシに気付いて笑いかけたその顔は、年相応に幼かったがな。
「坊ちゃんも人が悪い。声をおかけになってくれれば飛び起きたものを……もしかして、お疲れになりましたか?」
「大丈夫だよ。むしろ、調子がいいくらいさ」
 首を横に振ってから、坊ちゃんはまた笑顔を見せてくれた。前の晩のワシの失言など、聞き流してくれたようだよ。顔色も良い。
 おかしなものだよ。町の中でも武芸の類に興味を示さなかった坊ちゃんだから、この旅はさぞ過酷なものになるとワシは思っておった。だがな、初めての野宿に辟易するどころか、文句の一つも口にしない。ワシやテニスが山の薄い空気に息を荒げなら進んでいても、目をキラキラさせながら付いてくるんだよ。いやそりゃぁ、どだい体力が違う。坊ちゃんに合わせて足を止めることもしばしばだったがな。それでも、旅を進めるごとに坊ちゃんは元気になっていったんだ。これも、血なのかもしれないな。
「では、ワシはテニスを起こして、すぐさま出立の容易をします。坊ちゃんもご用意を。それに、すでに人がいないとはいえ、神殿の中を勝手に拝見するのはよくありませんよ」
「そうだね。神殿としても使われていたんだろうし」
 引っかかりのある言い方であったが、あまり信仰の厚くない坊ちゃまが素直にいうことを聞いてくれたので、ワシは気にも留めなかったよ。ともかく、テニスを足で起こして、欠伸をしているあやつを横目で睨みながら出立の準備を整えたよ。
「そうだ、クアー。どうせならここに荷物を置いていったら? 帰りがけにジャガイモも持っていけば、しばらくは食べ物のことだって気にする必要がないし」
 一宿一飯ならいざ知らず、神殿の食料を大量に持ち帰るというのはどうかと考えたがな。だが、旅をする上では食料は貴重だ。移動した帝国の人間がどこにいるかも良くわからない状況では、どうせ帰りも山道だ。だから、ワシは頷いたよ。荷物を背負った山登りはさすがに辛い。
 そんなわけで、鍋や包丁なども置いていったから、準備はすぐに整った。得物と防具、それに外套。他には火を起こすためのライターと、幾つかの水筒ぐらいしか持たなかったからな。
 ワシらはまたトンネルを潜って四角錘の外にまで出て、出発することにしたよ。カモシカは置いていった。帝国領の本土は樹林の中だ。カモシカには辛いだろうさ。ならばこの辺りで繋いでおくのが良いだろう。小さな草なら生えているから、縄を長くしておけば飢え死ぬこともあるまい。
 出発とは言ったものの、初めの移動は四角錘の裏側に回ることだった。さっきも言ったと思うが、四角錘は台地のヘリにあるからな。東と南の山を繋ぐ線上に。裏側が斜面であり、そのまま下っていけば帝国領の本土に辿り付ける。
「へぇ〜。やっぱり、どの面にも入り口があるんだね」
 坊ちゃんはまだ四角錘に目を向けていたが、ワシの意識は裏側の斜面に向いていたよ。
 下りは一日もかからないだろう。その気になれば、麓くらいまでならその日のうちに辿り着けるだろう。そこまで降りてしまえば、すでに帝国領だ。いや、確かに台地も帝国領だったが、山間の辺境とはわけが違う。本当に帝国が治めていた領土に足を踏み入れるということになる。
 胸が高鳴ったね。疼いたよ。ワシの中にもある冒険心が。帝国の民が全ていられなくなるほどの大移動をした理由が、そこにあると考えればな。同時に、不安でもあった。広い帝国領のどこに、その元凶があるのか見つけられるのか、とな。
 四角錘の角を曲がると、平坦な地面が緩やかながらも下り坂に変わる。そして台地のヘリに立った時、ワシらは目を見張ったよ。地図では、熱帯林があるはずだった。
 いや、あったよ。山間の草花とは違う、強い緑を鬱蒼とさせた熱帯林がな。だが、その一部が禿げ上がっている。まるで測って作ったかのように、綺麗な円形に。それが帝国の首都であったというのは後になってから知ったよ。
 だがな、首都であるとはとても思えなかった。まっ平らだったのだよ。そして、掘り返されていた。いや、正確なところは離れすぎていてなんともいえないが。しかしな、掘り返した田畑の土の様子に、酷く似ておった。
「……行ってみよう」
 四角錘を見つけた時とは明らかに違う口調で、それでも坊ちゃんは自らその台詞を口にしたよ。
 斜面を降りるのと正反対に、風に乗って舞い上がったコンドルが鳴いていたな。