■ disorder3 共和国の貿易商 一人目 クアー・カット ■

早稲 実

 
 

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 ったく。なんだその面は。なんでそこから話を始めない、だって?
 確かにな。ドィクタトルへの報告なら、ここから話すだけでも充分だろうよ。もっと掻い摘んで話すことだってできるさ。ただ、それは坊ちゃんの役目だ。ワシがやらなくちゃならんのは、貴様にこの旅で起きたことを信じさせ、あの若造が坊ちゃんの話に耳を傾けるようにさせることだ。
 腹芸でレイマスを統治する元老院議員。そして、その兄と名乗る初対面の男。そんな貴様を確実に動かす妙案など、ワシには見当も付かん。だから、な。ワシが見、聞き、感じたことの全てを話す他、何ができると言うのだ。
 だからワシは、事の起こりから喋っている。全てを知った上で、この抑えがたい怒りを抑え、貴様に話している。その怒りを察しろとまでは言わん。だがな、この四十に差しかかろうという老骨の愚かさを少しでも哀れんでくれるなら、あの若造に伝えてくれ。
 坊ちゃんの言葉に耳を傾けろ、とな。
 それだけで、坊ちゃんを今回の旅に駆り出した件は不問としてやろう。
 うるさい。偉そうなのは生まれつきだ。

 山を降りると、うだるような暑さだったな。
 湿気、熱、足元から湧き上がるようで覆い被さるようでもある緑葉の臭い。渦巻くような不快さが取り巻いてるように、ワシには感じられたな。レイマスでは夏季に差し掛かっていたのだから、季節が逆転する南半球では冬季ということになる。そういった知識が、むしろ邪魔になるほどの熱気だったな。
「いや、この辺りならそもそも季節の概念なんてないよ」
 袖を捲くり上げた腕で汗を拭った坊ちゃんが、そう言っていたよ。だが、ワシはそれ以上問いかける元気がなかった。テニスも似たようなもんだ。時折ぬかるみに足を取られて近くの木に手をかけておったわい。
 いつごろからか、坊ちゃんが先頭をとるようになったよ。武具を背負っていないという軽さはあったが、それでも信じられないほどしっかりと足を運んでおったな。ワシは顎を出しながら歩いておったよ。
 山麓で一晩明かした後、ワシらは一直線に帝国の首都に向かったよ。森の天井から微かに覗くことができる太陽が、中天をいくらか過ぎた頃だな。森が開けた。地図の上では、そこが帝国の首都だったよ。
 荒れ果てた、という言葉じゃ言い尽くせないな。木材、コンクリート、石。何に使われていたか知らんが、そういった素材が剥き出しだった。そして、それらが土と混ざり合っていたんだぞ。
 信じられるか? まさに掘り返されたんだよ。何か大きな力に根こそぎ掘り返されていたんだ。闘器に鍬を持たせても、そんなことはできやしねぇさ。いや、できたとして、首都全部を根こそぎにするのに、いったいどれだけの闘器が必要なのか……見当すらつかねぇな。
「やめてくれよ、旦那。そんな声で笑うのは」
 そんなテニスの声が耳に入ってきたよ。それでようやく気付いたが、ワシは笑っていた。間断的に、力なく、笑っていたんだよ。
「そうだね。とりあえずクアー、落ち着こう。この中に父さんがいるかもしれないんだ。早速調査にかからないと」
 言って、前に踏み出そうとする坊ちゃんの肩を掴んでいたよ。足を踏み入れるべきではない。あの掘り返された土地に、足を踏み入れるべきではない。直感的にそう思ってな。
 帝国の民が逃げ出すのも頷けるよ。あれは到底、人のできることのではない。人の領域を遥かに超えている。あの光景は……
「クアー」
 振り向いた坊ちゃんが、ワシの顔を見て怯えたようだったな。その時の自分がどういう表情をしていたかなんて覚えちゃいないが、きっと、そういう顔つきだったんだろうよ。
「行ってはなりません」
「でも」
「あれは、大破壊の跡です」
 知らんか? まぁ、普通の者が知らんのも無理はないがな。だがエルフやドワーフみたいな長寿の亜人の中に伝わる伝承があるとか、月神の神殿の奥には月神の本当の姿を書き写した書物があるとかいう噂くらい、聞いたことはないか? まぁ、そういった神話があり、その全ては驚くほど酷似しているのだよ。ザールス様が各地と貿易しながら亜人と関わりを持ち、密かに集めていた伝説の類だ。
 超技術を持っていた古代人と、月神が争った戦いの神話だ。その際に月神が振るった一撃が、元は大陸であったそこに央海という湖を築いたという。
 それが大破壊さ。帝国の首都と央海を比べるにはまるで大きさは違うが、それでも、あれほどの破壊の跡を見せ付けられれば、月神の怒りとしかワシには思えん。今でも、そう思っておる。
 坊ちゃんもその神話を聞いているはずだった。それでも、踏み出していこうとする。だからワシは、両手で坊ちゃんを引き止めていた。
「おいおい、旦那。ここまで来といてそりゃないぜ。それに、調査をしない場合がどうなるかは、言っておいたはずだよな」
 横から口を挟んできたテニスが、坊ちゃんの肩にかけるワシの手首を掴んできたよ。その瞬間にワシは腕を払った。教えといてやろうか? 突き出された腕ってのは、肘を曲げさせないように押し出せば、そのまま肩に衝撃を送ることができる。強く押せば、間接を外すこともな。
 テニスもさすがだったよ。肘を曲げられないことを悟ったのか、身体が反応したのかわからんがな。ワシが与えた衝撃を受け流して、身体ごと後ろに跳んで距離を開けた。ワシは坊ちゃんから手を離して、背中に折り畳んでいた柄斧を手にしたよ。初めからそうするべきだったと思ったな。
「へぇ〜。やるのかい?」
 テニスは両腿に括りつけていた、短剣とも小剣とも付かない長さの剣を抜いた。右の剣をこちらに突き出し、左の剣で身体の中心線を守るような、低い構えだった。
 テニスが強いのは、初めて見たときから知っておったよ。たぶん、ワシよりもな。だから、単純にこちらの長所を生かす戦い方しか思い浮かばなかった。リーチの長さを生かして、初撃で殺すくらいしかな。上下に避けるしかないなぎ払いにしか、ワシは勝機を見出せなかったよ。それでも、なぎ払いが当たるかどうかは賭けだった。
 ワシもテニスと同じように低く構え、出方をうかがった。大降りのなぎ払いが外れれば、こちらに勝機はない。最速の一撃が出せるように身を撓め、伸び上がるように切り伏せるしかなかった。坊ちゃんが不安そうにすぐ後ろで見守る気配はあったが、テニスに勝つためには構っていられないというのが実情だった。ワシは、テニスだけを見据えていた。
 テニスは摺り足で、特に動いているとも思えないほど微妙に距離を詰めていた。こちらのぎりぎり射程外で不用意に踏み出して見せたが、気迫のない一歩に騙されるほど、ワシの腕は鈍っちゃいない。またしばらく、対峙していたよ。
 汗を吸った服が肌に張り付いていくのがわかったよ。それでも、気持ちがそちらにむくことはなかった。共に、顎の先から汗が滴り落ちていたな。
 周りの風景に赤みが差し始めた頃、テニスが動いた。距離を詰めるのではなく、横に。ワシはその場で足の裏を地面に擦りつけながら、構えを崩さずにテニスを追ったよ。睨みつけていた目に汗が染みたりもしたが、閉じなかった。
 テニスが手首を捻ったよ。するとどうだ。テニスの左手の剣が夕日を照り返して、ワシの目を焼く。それでも目を閉じることはなかったが、血を被ったかのように両目が映し出した景色は赤く燃えた。その奥で、残像のようにテニスが動くのがわかったわい。
 ワシは踏み出しながら前に伸び上がって柄斧を振ろうとした。だがな、身体を押し出すように伸ばした右膝が地面に落ちた。踏まれていた。誰に? と狼狽したが、後ろにいたのは当然坊ちゃんだった。気付いたのは倒れながらだったがな。
 うつ伏せでは分が悪すぎるから、わしは片腕を地面につけて身を捻り、仰向けに倒れた。それから起き上がろうとしたが、すぐさま坊ちゃんが馬乗りに乗っかってきたよ。いや、それでも充分に跳ね除けて立ち上がれるが、その気は失せていた。テニスがその気になっていれば、倒れた時点でワシは死んでいた。それに坊ちゃんの潤んだ目を見て、戦うという気力もなくなっていたよ。
「なんで、こんなことになるんだよ」
 もう、その涙目を見ているだけで、ワシは何も考えられなくなっていたな。とうとう、泣かせてしまった。頭にあるのはそれだけだ。口だけが、ただ惰性で喋っていた。
「テニスという男は、坊ちゃんを亡き者にしようと」
「知ってるよ、そんなこと」
 まさか、知っておられたとはな。それでもワシに打ち明けるわけでもなく、楽しそうに旅を続けておられた。凄い。そう思うと同時にな、テニスが酷く憎らしく思えたよ。こんな幼い坊ちゃんに言わなくても良さそうなものを。
 だがまぁ、結局のところ、そんなことは坊ちゃんの涙の前にはどうでも良いことだったよ。坊ちゃんは啜り上げながら、それでも涙を拭うのも忘れてワシを睨みつけていた。
「そんなこと、どうだっていいじゃないか。僕がドィクタトルの言う通り調査を行えばいいだけの話じゃないか。何がいけないんだよ。父さんが死んで、全てを失いかけた僕が今ここで、こうして外の世界で冒険ができる。調査が上手くいけば、貿易だってできるって話しなんだよ」
 両手で、ワシの胸板を叩いていたよ。いっそ、殴って欲しいくらいだった。頬のところを強烈に、がつーんとな。だから、口を挟んでいた。
「しかしワシは、坊ちゃんを守るよう、ザールス様から言いつけられております。神の領域に踏み出すのを黙って見ていることなんて」
「神なんていない。いるもんか!」
「しかし!」
 ようやく、ワシは殴りつけられた。軽い拳だったよ。幼いといっても良い。辺り所も悪かったからな、ワシの顔は向きを変えることもなかった。それから坊ちゃんは、ワシの胸倉を掴んだ。鎖帷子がささやかにだが、音を立てたよ。
「いないんだよ! それともその神が、クアーになんかしてくれたのか。そんな都合のいい奴がいるんなら、何で人は飢えて死ぬんだ? 争いなんか起きるんだ? 帝国の住民は神に見はなされてるのか? そもそも、何で父さんが死ぬんだ……神なんていない。いるもんか……」
 両手でワシの胸倉を掴む坊ちゃんは、寂しそうだったな。とうとうそのまま泣き出して、頭をワシの胸に付けている様子なんか、まるで縋っているようじゃないか。
 ワシはどうすれば良かったのかな……坊ちゃんの頭を抱えてやろうとしたが、手は動かなかったよ。柄斧から手を離すことまではできたんだが、坊ちゃんを抱くには、ワシは両手は汚れすぎておる気がしてな。
「もういい、ヒニアル。おまえも少し休め」
 抱き上げるようにして、ワシの上から坊ちゃんを運び出してくれた。そんなテニスの後姿に頭を下げるくらいしか、ワシにはできんかったよ。

 熱中症。
 坊ちゃんを寝付かせてから戻ってきたテニスが、ぼそりと教えてくれたよ。軽い熱中症だとな。不安や怠さがまとわりつき、頭痛を引き起こして、死に至ることもある。
 高温多湿なあの場所で、ワシは大量に汗を欠いていた。そのくせ、坊ちゃんの分の水まで持ち、坊ちゃんのためにそれをほとんど口にせんかった。他の二人に比べて年嵩なわしがそれだけ無理をすれば、おかしくもなる。
 テニスは笑いながらそれだけ呟いて、坊ちゃんの方に戻っていったわ。
 若造のくせに、しゃらくさい奴だわい。
 結局ワシは自分の分の水を飲み干し、ぼっちゃんの分の水を頭っからかぶった。夜になって幾らか熱さも鳴りを潜めたが、湿気は高いままだった。水をかぶっても一向に涼しくなりゃせんかったわい。
 しばらく、月を眺めておったわ。この辺には雲がないのかと思うほど、澄み切った夜空だったよ。月が満ちるまであと少し。明るい夜だった。
 目の前には、掘り起こされた地面が広がってたよ。石、木材、コンクリート――総じて瓦礫だわな。それらが大きさもまばらに、掘り起こされた地面に放り投げられておる。帝国の女の子の者かな。人形の首も落ちておった。
 確かに町があり、草木もあり、人が住んでいた。そんな様子が、粉々になって落ちていたよ。そこにはな。
 神はいない。そう、坊ちゃんは言っておられた。だが、人の手でここまでやれる物なのだろうか? ワシは悩んだよ。坊ちゃんを信じるべきなのか、神を信じるべきなのか。
 思い悩みながら、見上げているのはやはり月だった。淡く、青く、遥かな月を、ただ見上げておったよ。月は、ワシを見下ろしているようですらなかったがな。
 少し、雲が出てきた。月を隠すようにな。月明かりはまだ届いていたが、ワシは腰をあげたよ。坊ちゃんは調査を行うだろう。だが、次に太陽が昇ってからだろう。夜の内にドィクタトルが満足するだろう何かを見つけられれば、このまま引き返すこともあり得るだろう。だからワシは、まだ重たい身体を持ち上げて、死んだ帝国の土地に足を向けた。
 調査といっても、いったい何を調査すればよかったのか。はっきりわかってなかった。帝国領に入れば何かしらがあるのだろうと思っていたが、あるのは死んだ都市だった。
 だが、ワシが考えていたのは別のことだったよ。神とは、なにか。そんな哲学的な問題が、ワシの筋繊維で作られてる脳味噌でわかるはずもないが、考えとったよ。
 存在するのだろう。ザールス様が集めた伝承を聞き及んでるワシからすれば、それは信じるとか信じないの話ではなく、確定された事実だった。
 なのに、人は苦しみながら死ぬ。争いは起きる。ザールス様は消え、帝国の首都はあんな姿になった……貴様にわかるか?
 まぁ、いい。貴様が今悩んだところで、どうなるというものでもない。
 とにかくな、ワシはいることを前提に考えた。死んだ都市を歩き回りながら、大きな瓦礫を掘り返したりしながらな。
 神はいる。だが、帝国の都市はこんなありさまだ。神の怒りに触れるような何かをしたんだろう。もしくは、驚くほどの不信心だったか。ただ、後者はありえんな。一般的な信仰とは離れていたが、ザールス様も神の存在を確信しておられた方だ。そんな方が生涯をかけた貿易に出たときに消息不明など、神の所業としては酷すぎる。
 敢えて、なのかもしれん。
 そうも思えたよ。各地の伝承を探ることが、むしろ神の怒りに触れたのかもしれんと。帝国の民がどのようなことをしたか定かではないが、それならば合点もいく。見渡す限りに広がる、崩壊した景色もな。
 神は、確かにいる。そして、恐ろしく狭量な奴なのかもしれん。昔のことを掘り返されれば怒り、圧倒的なまでの暴力を振りかざすような神がな。
 雲は、移動しておったよ。丸くて、大きな月は、青白く優しく輝くが、ワシの心に語りかけてくるわけでもない。ただぽかんと、そこに浮いておったよ。
 背中に折って括りつけていた柄斧を伸ばして、ワシは精一杯ぶん投げた。だが、届くはずもないな。わかっていたが、それでも投げていたよ。
 柄斧は結構高くまで上がったと思うんだがな。徐々に失速して、一瞬だけ宙にとどまって、落ちてきたよ。ワシの力じゃ、それくらいが限界だ。柄斧を月に突き刺すことなど、できやしない。
 柄斧は遠くに落ちたよ。方向なんて考えてなかった。とりあえず、月に向かって投げただけだからな。だが、妙なこともあるもんだよ。土に刺さる音とも、瓦礫を砕く音とも違う、甲高い響きが上がったよ。金属音だ。
 駆けてみると、大きな塊が転がっておる。傍に落ちている柄斧を拾い上げて、ワシはその塊に触れてみた。表面は鉄のような金属に覆われていて、内側の素材は素焼きの皿のようにザラザラとしておった。中は空洞で、動物の脊椎のような物が無数の線に絡まれた状態で垂れている。
 暗くはあったが、それは闘器だったよ。それも、共和国の闘器だ。
「うわぁ!」
 坊ちゃんの悲鳴があがったよ。ワシがその塊を、共和国の物だと推定した直後にな。
 坊ちゃんとは、考えが対立していると思う。何をどう考えて坊ちゃんが神の存在を否定するのかは、どうしてもワシにはわからなかった。
 それでも、ワシは反射的に坊ちゃんを助けるために駆けて行ったよ。
 そんな時だけ、月明かりはワシの進む道をしっかりと照らしてくれてたな。
 入ってきた森が壁のように思えてくるほど駆けると、森の中から坊ちゃんが飛び出してきたよ。声をかけると、ワシの方へと向かってくる。だがな、近づくにつれてその足は鈍くなっていく。坊ちゃんがほとんど歩くくらいになったとき、表情からは怯えの代わりに戸惑いが浮かんでおったよ。ワシが眼前に立つと、目を合わせないように伏せてしまわれた。
 何故だろうな。気に病んでいてくれたのが、ワシには無性に嬉しかったよ。
 膝を付いて侘びを入れるべきなんだろうが、ワシは坊ちゃんの肩に手をかけた
「先程は失礼しました。ここからは、ワシの背を見ていてください」
 擦れ違うように坊ちゃんの横を通り、ワシは森の方へと踏み出したよ。背後で坊ちゃんが顔を上げる気配を感じたが、その顔を見るのは後にした。褒美はせめて、功を立ててからにしたかったからな。
 森から、テニスが吹っ飛んできた。キリモミしながら跳んできたが、途中で地面を切るように剣を突き出して、空中で体勢を立て直すあたりは大したもんだわい。ちゃんと両足で着地しおった。
「よ、よう。旦那。すげぇもんが、出てきたぞ」
 テニスに怪我があるようには見えんかった。ただ、酷く驚いているのは観察するまでもない。普段、眠っているような細い目が、見開かれておったからな。
「凄いもの?」
「あ、あぁ……魔物だ」
 森の壁が、モルタルを削りとるみたいに剥がれた。二、三本まとめて切り倒されたらしい。姿を現したそいつは、ああなるほど、魔物だった。
 月明かりの元に踏み出してきたそいつは、巨大なサソリだったよ。人ほどの大きさを持つ、巨大なサソリだった。ワシの頭よりも高い位置に尻尾を掲げて、大きな両腕の鋏を広げてこちらを睨んでおる。月よりも輝く、不気味な一つ目でな。
 きちきち きゅーん ぐわーん
 そんな音が微かにな、巨大な奴の体内から漏れておったよ。今にして思えば、闘器の起動音に近いかな。
 動き出したよ。突進、というほどじゃないが、速かったよ。八本足を起用に動かしながら、近づいてくる。
「気を付けろ、旦那。速くはないが、力は尋常じゃないからな。それに、硬ぇ」
「ほう……なら、貴様は退いていろ」
「おい、クアー!」
 ワシは踏み出した。テニスに退く気配はなかったが、踏み出す気配もなかった。おかげで、サソリの化け物は真っ直ぐワシにむかってきたわ。
 サソリの両腕の長さは、ほぼワシの柄斧と同じくらいであろう。尻尾が辛うじて、こちらよりも射程が長いようだったがな。ワシは柄斧を短く、柄の中間で構えた。
 間合いなぞ、関係ないんだろうな。そのまま突っ込んできて、両腕の鋏と高く掲げていた尻尾を伸ばしてきたわ。
 ワシはその前から動いておった。サソリが間合いに入る遥かに前から柄斧を縦に振り下ろした。空振りは想定どおりだ。柄斧の重心が落ちていく勢いを利用して前に踏み出しながら、今度は柄斧の柄尻に握り替え、遠心力を殺さぬまま叩き込んだ。
 尻尾を切り落としながら、サソリの背中を押しつぶせたよ。鋏はワシの両肩に触れるか否かの所で止まってくれた。
「旦那ぁ〜……あんたには、怯えってもんがねぇのか」
 背後で声を上げるテニスに振り返り、笑い飛ばしてやったね。
「あるさ、そのくらい」
 そのテニスの背後にいた坊ちゃんがまた、えらく嬉しそうでな。ワシの名を何度も呼んでくれたよ。その無邪気な笑顔を曇らせることだけが、ワシには怖いんだ。
 あん? 死んだら、坊ちゃんも悲しむだろう、って? サソリの話を聞いておいて、突っ込むのがそこなのか、貴様は。
 なんにせよ、ワシは死んだりせんよ。

 その日は結局、帝国首都の調査はそこまでにして、森の中で休むことになったよ。金網も鍋もない、外套一つの野宿になったな。言ったろ? 道具はほとんど、あの山の上の四角錘に置いてきていた。
 廃墟となった首都から形の残っている材木を担いできて、薪を作った。湿った土の上では倒木も枯れ木になってなかったからな。車座になって干し肉を焙りながら、ワシが一人で調査してきたことを話した。欠伸をしながら眠りに付こうとしているテニスにも、サソリの件でワシを見直してくれた坊ちゃんにもな。
「鉄、かどうかまでは判断できませんでしたが、金属の外装を付けた闘器の残骸でしたね」
「それじゃ、父さんの」
 身を乗り出してきた坊ちゃんの言葉を引き継いで、ワシは最後まで語ろうと思った。
「かも、しれません」
 だがな、坊ちゃんは喋らせてくれなかったよ。焚き火の光を照り返す瞳で、ワシに嬉しそうな笑顔を向けるんだ。
「可能性は大きいよ。だって、帝国の闘器の外装は布とか皮とかが多いって父さんが言ってたよ。仮に共和国産の闘器だとするなら、父さんのもの以外は考えられないし!」
「なればこそ、この辺りが引き際かと思っています」
 拳を握り締めて震わせていた坊ちゃんの動きが、そこで止まったよ。「え?」って、吐息みたいな疑問を吐き出しながら、目を丸くしておられた。
 立ち上がったと思ったら、ワシは怒鳴られておった。
「まだ神なんてものを信じてるのかよ、クアー!」
 怒鳴られたといっても、怒りではなかったのかもしれんな。坊ちゃんの目は、テニスに刃を向けた時とは明らかに違ったよ。怒りと悲しみが交じり合ったものではなく、もっとこう、愚かなものを見ているような、飽きれた目をしておった。
 また、疑問がぶり返したよ。神とはいるのかいないのか。おそらくいるんじゃろうが、信仰するほどのものじゃないのではないか。そんな者の顔色を窺うように調査を断念するのか。神の全てを信じるというのが、自分の全てを否定することのようにも思えてきた。
 だが、ワシは敢えて言ったよ。坊ちゃんを見上げることもできない、いじけた言い方だったがな。
「それでもワシは……引き上げ時だと思います」
「何を言ってるんだよ、クアー。父さんの手がかりが、すぐそこにあるかも知れないんだよ。ここまできて。ここまで旅してきて、なんで諦めることなんてできるんだよ!」
 薪が爆ぜる音が、妙に澄んで聞こえたわい。遠くで鳴いていた鳥たちも、恐れるかのように静まり返っていた。
「俺も、引き上げ時だと思うぞ」
 すでに寝ているものだと思っていたテニスが、ぼそりと呟いたよ。目も開けずに外套に包まったままでな。坊ちゃんの目が見開かれていたね。握られていた手を突然離されたような風に。
「な、なにを言ってるんだよ、テニス……ふざけないでよ」
 坊ちゃんの声が震えておったよ。自らを包んでいる外套を剥がしていくように、坊ちゃんが睨み付ける中でテニスはゆっくりと身体を起こしたな。
「ふざけてるのはおめぇだ、ヒニアル。調査なら充分だろ」
「どこがさ。共和国の闘器、かもしれない塊が転がっていました。それでドィクタトルさんが満足してくれるのか? あの人がそんなに甘い人なのかよ」
 坊ちゃんの声は大きくなっていたな。どこか、身振りも大袈裟だったよ。どこか子供なのかな。そんな動きの中に、確かに泣いている幼い頃の坊ちゃんの姿が浮かんだよ。
「甘いのはおめぇだよ、ヒニアル」
 テニスの声は冷たかったな。どこか軽い調子なんだが、冷たかった。諭す、というよりあれは、恫喝だったよ。
「正直、荒廃した首都を見ただけでも充分だったんだよ。理由や原因がわかるならその方がいいんだろうが、帝国の民はすでに移動して、北上してるって話だったじゃねぇか。俺らの調査なんかより、詳しい事情は帝国の人間にでも訊ねるんじゃねぇのか? 俺ならそうするよ」
「帝国の人間が嘘をつくかもしれないじゃないか?」
「根無し草が嘘を? そんな余裕がどこにあるんだよ。仮に虚言を弄したとして、そこから真実を探り出して利用するのが元老院の仕事だろ? 奴らに手柄を奪われちまうのはご免だぜ?」
「手柄がどうとかじゃないだろ!」
「そういう問題だ。それが仕事ってもんだろうが。それにな、俺たちは帝国の首都が壊滅した原因の一端を見た、のかもしれないんだぜ?」
「なんだって……」
「あのサソリだよ。あれが自然に生まれると思うか? クアーの旦那が甲羅を砕いた時の音を聞いただろ? 乾いた、短い、低い音。蟹の甲羅を潰した音にも似てるが、あれは陶器が砕けた音だった。……わかるだろう?」
 わかるのだろう。坊ちゃんは口を塞いだ。テニスの方は、話は終わりとばかりに起こしていた上体をまた寝かせた。両手を枕のようにして、足を組む。
 ワシにもさすがに理解できた。陶器でできた巨大な生き物。連想できるのは誰もが闘器だろうて。なぜサソリの形なのか、巨大と言っても人ほどの大きさなのか。そんなことはどうでもいい。わからんことだからな。ただ、少なくともあのサソリは古代人が残した遺物であったことは間違いないだろう。
「でも、あんなの一匹いたって」
 吐き出すように、また坊ちゃんが怒鳴った。縋るようにな。
「どうにもならんだろうな。大したことないさ。あんなの一匹じゃな」
 そう。仮にあれが帝国の民を大移動させた原因だとするなら、一匹であるはずがない。そもそも、あのサソリだけとは限らない。遺跡並みの何かが同時に動いていると考えるべきだろう。本当なら悠長に休んでいる場合ですらないんだがな、疲れきった時に襲われるよりはマシだろうさ。運に任せるしかない。
「でも!」
「いい加減にしろよ、ガキ。まだ俺たちが置かれている状況に気付いてないのか? それとも、気付いているにも関わらず、死んだ親父の姿を追いかけるようなガキなのか?」
「おい」
「言わせろよ、旦那。
 おい、クソガキ。てめぇは、いったい何をしたんだ? 重い荷物は旦那に背負ってもらい、宿地の設営は俺がやっていたな? 野党に襲われた時はどうしてた? 旦那の背中で隠れていたっけな。何もない所ではリーダー気取りで一人で前に出るくせ、何をするわけでもねぇ。安全確認も適当で、歩き出しちゃ大事なカモシカを谷に突き落としそうになってたよな? クソくだらねぇ知識をひけらかすばかりで、旅そのものに何か貢献したかよ。
 旦那は従者で俺は付き人か? まぁ、確かにその通りかも知れねぇが、こんな重大な判断までてめぇに任せっきりにできるかよ」
「おい、テニス」
「言わせろ、旦那。言っちまわねぇと俺の腹の虫が収まらねぇ。
 言っとくぞ、クソガキ。てめぇはただの飾りなんだよ。ザールス・カットっていう大貿易商の七光りに照らされた、ただの飾りだ。そんなガキが全てを決めちまおうってこと自体おこがましいんだ。わきまえるんだな、クソガキ」
 テニスは寝転がったまま、頭だけ上げて捲くし立てていたな。
 坊ちゃんの目は見開かれたままだったがな、一筋涙がこぼれると、あとは堰を切ったように溢れ出しとったよ。それでも瞬き一つもせずに、驚いたような顔で凍り付いておった。身体だけが怯えたように、震え、最後に蹲って泣き出してしもうた。幼子のようにな。
「……うぜぇ」
 細い目を向けていたテニスだったが、その一言だけを呟いて立ち上がり、先に歩き出したよ。今し方サソリを屠った、帝国の首都の方へと。
 ワシは動転したがな、どちらについて行くべきかなど、火を見るより明らかだった。迷いが晴れると、蹲った坊ちゃんを一瞥だけして、声をかけずにワシはテニスが歩き去った方へと駆けて行ったよ。
 坊ちゃんの泣き声が遠く聞こえる辺りで、ようやくテニスの背中に追いついたさ。
「また、俺を切ろうってのかよ」
 テニスは振り向きもしなかったが、声の調子には怒気が孕んでいた。坊ちゃまに巻くし立てた時とは別物の、背中に虫が走るような冷ややかな声さ。
「いや、礼を言おうと思ってな」
 鼻で笑うようにして、テニスは振り向いたのぉ。目は相変わらず細かったわい。
「っは。礼を言われることなんてしたかよ。傷に塩を塗りつけたようなもんだ」
「塩を塗り付けられれば、人は痛みの意味を知るのだよ」
「はん! 知って泣き叫ばれてもねぇ」
「その点に関しては、時間をくれとしか言いようがないがな。どちらにせよ、礼を言うよ」
 また、鼻で笑ったよ。口の端を持ち上げて、いつものように皮肉な、人を食ったような笑顔を向けてきおったよ。だがな、不思議と不快な気分にはならんかったわい。
 そのまま、ワシは去ってゆく奴の背中を眺めさせられてたわ。