■ disorder3 共和国の貿易商 一人目 クアー・カット ■

早稲 実

 
 

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 落ちてきた梢に腹を打たれて、ようやく目を覚ましたよ。坊ちゃんが泣き疲れてからもしばらく眠れなかったのがいかん。日はすでに高く上り詰め、また大寝坊だったわい。
 それに、森の様子が違った。山から下ってきた前の日は、熱帯林の中はどこもかしこもぎゃーすかぎゃーすか大騒ぎだったのにな。共和国領の森の中みたいに、何も知らない小鳥のさえずりが聞こえるくらいだったわい。そして時々、幹をなぎ倒す音が聞こえる。
 坊ちゃんは起きていたのだがな、木の根元に蹲っておった。涙は止まっておったが、輝きのない瞳で地面を見詰めておった。
「移動しましょう、坊ちゃん。さぁ、早く」
 腕を取ると、坊ちゃんは力なく立ち上がったよ。抵抗はなかったが、足元は覚束なかった。背負ってしまった方が良かったのかもしれんが、これから山を登っていくことを考えると、ワシの体力が心配だった。それに、坊ちゃんには自ら立ってもらいたかった。
 腕を引きながら歩き出すと、よろけながらも坊ちゃんは足を進めてくれたよ。だが、小走りといえるくらいに速度が上がったので手を離してみると、ゆるゆると坊ちゃんは失速していかれる。
 こちらが動いたからなのか、周りの動きも激しくなってきている。一匹や二匹ではないのだろうな。ワシらを囲うような形で、硬質な物が木にぶつかる音がしてたわ。切り倒されていく大木もあった。
「こんな所にいては、いずれあのサソリどもに捕まります。さぁ、立ってください」
 座り込んだ坊ちゃんは俯いて、ワシの声に反応したようにも見えなかったな。ワシは仕方なく坊ちゃんの腕を掴んで、立ち上がらせた。進む方向は決まっている。四角錘があった山へ向かう道だ。
 何故だろうな。そちらだけは、包囲が緩かった。罠かもしれない。とは思ったがな。人ほどの高さがある巨大なサソリだ。荷物を運ぶ馬よりも遥かにでかい。熱帯林の中では自由に動くこともままならんだろうさ。正直、今のペースでも逃げ切れるかもしれん。だから事前に、追い込むサソリとは別に、待ち伏せするサソリを用意しているのかもしれん。まぁ、サソリどもが罠を張るくらいに賢ければの話だがな。
 ともかく、逃げた。坊ちゃんは腕を掴んでさえいれば抵抗せずに付いてきてくれるし、後ろから迫ってくる木々を蹂躙する音もまだ遠い。まだ、絶望って言葉は遠かったな。
 雨が、一度降ったな。夕立のような、もっと強く、激しい雨だった。スコールと言うやつらしくてな、坊ちゃんが山を下る時に話してくれたわい。頭上の葉の天井に当たらなかった雨が直接肌に当たると、痛いくらいだった。もし直接当たり続ければ、ちょっとした怪我になってしまうんじゃないのだろうか? そんな風にすら思えたよ。水が木を打つ音で、後ろの伐採の音も小さく聞こえたもんだ。距離を取れたとは思えんが、妙に安心できた。
 スコールはピタっと止まりおったな。肌寒さすら感じるほどの雨だったが、終われば熱帯林特有の暑さが湧き上がる。小走りの速度だったが、その状況の変化だけでずいぶんと体力を持ってかれたよ。
 そうかと思うと、森が開けた。
 いや、抜けたんじゃない。開けていた。やはり罠だったよ。夜のうちに伐採を終えていたのかの。動きやすい場所まで作って、三匹もサソリが待ち構えておった。
 ワシはまだ木が残る所で坊ちゃんの腕を放して、語りかけた。
「ワシが引き付けておきます。迂回して、四角錘の方まで走ってください」
 坊ちゃんは頷くわけでもなく、その場で佇んでおったよ。サソリを目の当たりにしても、正気が戻ったようには見えんかった。背負っていた柄斧を組み立ててサソリに向きなおっても、ワシの背後では坊ちゃんが座り込んだ気配しかしなかった。
 もしかすれば、坊ちゃんが逃げてくれれば、ワシもまた森に隠れながら何とか逃げ切れたのかもしれんがな。ともかく、ワシが三匹のサソリを全部倒すしかないようじゃった。それも、後方から追いかけてくる伐採の音が近づく前にな。
 三匹はワシを囲むように、扇状に広がっておった。正直、厳しい。並みの人間が相手ならば、柄斧を振り回すだけでも包囲を突破する自身はあるんじゃが、サソリは異様に硬かった。一撃、一殺がせいぜいだろう。三匹の鋏と尻尾――計九本を避けながら戦う速さはワシにはないしの。一人では、どうにもならんかもしれない。
 ともかく、先手を取ることだった。ワシは初見のサソリを倒したように、二段旋風の一撃を正面のサソリに叩き込んだ。一度目の見せ金の縦回転で動揺させておけば、二度目の縦回転から伸び上がる柄斧を避け切れるものではない。サソリにどこまでそんな目くらましが通用するかは賭けだったが、見事に一匹目を叩き潰した。
 その直後にな、左右のサソリが拍子を若干ずらして突っ込んできおる。柄斧を引き抜く時間はなかったな。ワシは柄斧から手を離して、右のサソリの鋏と尻尾を転がって避け、そいつの腹の下に入っていった。仰向けのまま腰に携えた短剣を引き抜いて突き刺そうとしたんだがな、半端な体勢じゃ力も入らん。弾き返されたよ。
 サソリはワシの上で、左右に身体を揺すったな。そんな風にして、地面を突き刺すように尖った六本の足で、ワシを踏みつけようとしたんじゃろう。必死で逃げ回ったよ。結局、奴らの腹の下も安全地帯ではないらしい。這い出したよ。
 今度は一対一だったが、手に握っている得物がいかんせん、短剣だ。料理の時に包丁代わりに使っているぐらいだからな。手には馴染むが、破壊力など期待できん。
 右の鋏を避けて、左の鋏を辛うじて受け流し、尻尾が来る。動きだすリズムをずらしておきながら、左の鋏と尻尾の攻撃はほぼ同時と言ってもいい。ああ、そうだ。この鎖帷子が破れたのは、その時だったよ。紙一重で避けて、この有様だ。
 だがな、無駄な賭けじゃなかった。思ったとおり、あの尻尾だけは脆かった。柔らかいというほどじゃなかったが、短剣を右手で掴んで、その右手を左手で補強してな。殴りつけるようにしてやりゃ、斬れたよ。もう、尻尾の先は動かなかった。
 ああ。勝算がない賭けじゃなかったさ。帝国の首都で見た一匹は、柄斧で胴を潰したとき、一緒に尻尾も切り落とせたからな。鋏より速くて、自由に動く尻尾だ。その分は柔らかいと思ったよ。確証なんてなかったがな。
「弱点は尻尾だ、テニス!」
 叫んだときに、坊ちゃんに向かって走っていた一匹が、崩れるように倒れていったな。足を折ってへたり込んだサソリの向こうで、坊ちゃんを背に庇って立っているテニスが声を返したよ。
「あと、目も弱点だったよ、旦那」
 まだ動き回る、尻尾をなくした一匹には、ワシが柄斧を引き抜いて鉄槌を下してやったわい。

「なんで、戻ってきた?」
 ワシの柄斧を持って隣りを走るテニスに、訊ねたよ。ワシ自身は坊ちゃんを背負っていたから、柄斧はテニスに預けたんだ。
「? 知ってたから、ヒニアルを一人にして戦ったんじゃねぇーのかよ」
「目覚めてからだ。腹に落ちてきた梢は、明らかに斬られた断面をしてたからな」
 テニスは考える風にして、森の先へと目を向けた。木々も少なくなっており、すでに遠くには山の頂が窺える。サソリどもが斜面を登れるのかどうかはわからないが、木があるうちに離せるだけ距離を離した方がいい。そう判断し、坊ちゃんを背負って走っている。柄斧を持たされても、テニスは文句の一つも吐かなかった。
「何でだろうな。一人よりも三人の方が逃げ安いと思ったのかもな。失敗だったが」
 予想通りのことを言うわい。
 テニスがちらりと、ワシの後ろで小さくなっている坊ちゃんを見た。坊ちゃんはたぶん、目を合わせてはいなかっただろう。反対の方向を見ているのは、背中の感触でわかっていたよ。
「俺が戻れば、元気になるのかと思ったんだがな」
「自信家だな。坊ちゃんは貴様が消えたことぐらいでは、ここまで落ち込まんよ。貴様が思っているよりも、貴様がつけた傷が大きかったということだ」
 テニスがやや、俯いた。それでも速力は落としていない。もとよりそれほど速く走っているわけじゃないが、追いかけてくる伐採の音はずいぶんと遠くなっていた。
「謝るなよ」
「な……謝るかよ! なんで俺が謝らなきゃなんねーんだ」
「そうだ。それでいい。おまえの言い分は正しかった」
「……やめねーか? 本人を前にして陰口叩いてるみてーだ」
「恥ずかしいのか? だがな、坊ちゃんにはいい薬だろうさ。別段、今までの坊ちゃんが悪いわけじゃなかったが、今は致し方ない。山に入ってしまえば、坊ちゃんを背負ったまま登るのはいささか厳しいからな」
「生きていたいと思ってくれるのか?」
 地面は、少しずつ傾斜を持ちつつある。山頂は遥かに遠いが、それでも山麓にはずいぶんと近づいているのだろう。時機に大きな木もなくなる。そうなればサソリたちの速度も上がることだろう。
 山を登る、という段階でまだ坊ちゃんがこのままならば仕方がなかった。山は登れない。
「その時はワシも、覚悟を決めるまでよ」
「俺はご免だぞ」
 坊ちゃんがワシを引き止めるようにな、鎖帷子を少しだけ強く握ったようだった。