■ disorder3 共和国の貿易商 一人目 クアー・カット ■
早稲 実
 
 

   5

 ふう。一気に話したもんで、さすがに喉が渇いたわい。あのワインはまだ残っておるんだろ? おととと。そんなもんでいいわい。んぐ、んぐんぐ、ぷはぁー。貴様もどうだ? 
 ん? 早く続けろって? 坊ちゃんがどうなったかって? ……どうなったんだろうなぁ。何を考え、どう受け止めたのだろうなぁ。今になっても、ワシにはよくわからん。
 貴様はどう思う? テニスの言う通り、確かに坊ちゃんは無力だったわ。荷を運ぶ力もない。歩き続ける体力だってない。野党がでてもワシが庇ったし、宿地を決めても野営の準備はテニスが行った。坊ちゃんが行ったことなど、知識を語ることと物事の決定くらいだわい。
 ん? うむ……その通り。統治者や主人はそんなもんでいいんだよな。やはり貴様のような政に携わる者たちはそう思えるだろう。何に特化する必要もなく、ただ判断だけ下せばいい。飾りみたいな者。そう思われることは、決して悪いことじゃない。判断さえ、間違えなければな。
 ただな、その時の坊ちゃんは明らかに間違いだった。いや、誤っていたなら正せばいいだけだが、それ以上に坊ちゃんは、幼かった。テニスがクソガキ、と言い切ってしまうほどな。
 ザールス様への未練を断ち切り、あの場は逃げる。全ての作業をワシやテニスに任せ、自分は高みの見物でもするように判断だけ下す。そう、割り切ってしまうには、いかにも幼かった。
 まるで、両親の役に立ちたいとお手伝いをしている幼子のようにな。
 そんな幼子に、邪魔になるから黙っていろと言ったようなものだよ……
 それでも、な。山を登り始めてからは、ワシの背中から降りて自分から登ったよ。無力であることを受け止めたとも、せめて邪魔にならないようにと思い直したようにも思えんかった。生きる希望だって、ないに等しかった。
 おっと、気持ちの問題ではないぞ。森を抜けたサソリたちが、すぐ後ろにまで迫っておったからな。ワシやテニスは岩を落とすことで何匹も倒したがな、振り返れば斜面を覆うほどのサソリの群れだ。満月に照らし出されたサソリどもは、黒味がかった甲羅を光らせながら迫っておった。希望など、なかった。
 それでも坊ちゃんは、登っておったよ。二つの山の間にそそり立つ、先人たちが残した四角錘の神殿に向かって。
 何かあるとすれば、確信していたってことぐらいだ。

 四角錘を目の前にしたときには、すでにワシらは追いつかれておったわ。岩を落とすことに躍起になっていたのが悪かったのかもしれん。ワシは薄い山の空気に顎を出し、代わりとばかりにテニスが、岩を落とすために飛び回っておったわい。
 だが幸い、四角錘は眼前だった。あれの入り口はワシがようやく入れるくらいの大きさしかない。身の丈が人ほどもあるサソリだ。横幅は三人から四人分もあったわい。ちょっとした城代わりにはなるはずだった。失礼な言いようだが、戦力にならない坊ちゃんはすでに、四角錘の壁に取り付いていたしな。
「はぁ、はぁ――旦那、寝るな!」
 耳元に飛び込んできたテニスの叫びで、ワシは倒れていることに気付いたわい。目を瞑っていた。心臓が痛かった。胸が張り裂けるという言い回しがあるが、案外、あんな感じなのかもしれんのぉ。
 それでもワシは、寝返りをうつくらいの動きでだが、仰向けになったよ。足の方から、サソリが近づいてきおったわ。高く掲げられた尻尾を振り下ろそうとしておったのぉ。
 テニスが跳んできたよ。身体ごと。あの小剣にしては短い剣を構えて身体ごと、サソリの大きな一つ目に突進していた。引き抜いて、蹴り落とす。一匹殺すだけで、巻き添えになって何匹も倒せた。サソリが埋め尽くした黒い斜面に、一瞬だけ地面が現れたのぉ。だが、そんな一条の空隙もすぐさま埋め尽くされる。
 絶対絶命、というやつじゃな。
 四角錘まで逃げ込もうと、結局やつらに囲まれる。上手く四角錘から脱出できたにせよ、台地のどこかで囲まれる。帝国から共和国までは、遠すぎた。
「諦めるつもりか? 旦那」
 肩で息をしたまま、テニスはワシを立たせてくれた。といっても、胸倉を掴んで、だがな。年寄りの扱いもなっとらん奴だよ。 
 ワシも、荒い息をしていた。呼吸ばかりをしておった。それなのに、一向に空気を吸っている感じがせんのだよ。手足の感覚も鈍い。自分の身体が、まるで粘土の塊のように感じられたな。
 頬を張られたわい。
「旦那! しっかりしろよ、旦那。あんたが、あのクソガキを守るんだろ。俺一人なら、あんなクソガキは殺しちまうぞ? あんたがいて、初めてバランスが取れるんだろ?」
 張られた頬だけが、ジンジンと熱を持っておったわい。それが、どこか遠くで起こっているようでな。テニスの声も遠かった。
 サソリの群れの方が、現実味があったわい。
「しっかりしてよ、クアー。諦めたって、どうにもならないだろ」
 精悍で、澄んでいたが、坊ちゃんの声だったよ。思わず振り返ったら、坊ちゃんは四角錘の入り口の所に立っておられた。狭いトンネルのヘリにな。
「時間を稼いで欲しいんだ、クアー。あそこの、大きな岩の所まで走り抜けて、戦ってほしい」
 坊ちゃんが指した大きな岩は、遥かに下った所にあったわい。すでにサソリたちの本体とも言うべき集団がいたからな。暗い夜の海で顔を出す岩のようだった。
「なにを言ってやがんだよ、ヒニアル。死んで来いってのかよ」
 テニスは喘ぐように叫んでいたが、坊ちゃんの声は冷徹なまでに澄んでいたな。そして、無視をしていた。
「テニスじゃ無理なんだ。テニスじゃ、目を狙った一撃しか効果がない。サソリに正面から対抗できるのは、クアーしかいないんだ。お願いだ。頼むよ」
 テニスが何に怒ったのかはわからんかったよ。ワシより劣っていると言われたことかもしれんし、ひょっとしたら、ワシの命を慮ってくれたのかもしれなかったな。「あの野郎」と小さく呟いて進もうとしたテニスの肩を掴んで、ワシは押し留めたよ。
「もう一度、頬を張ってくれんか。思いっきりな」
「はぁ? 何を言ってやがんだよ」
「急げ、サソリどもがすぐ近くまで迫っておる」
「なんだかわからんが、恨むなよ」
 首が捻じ曲がったわ。身体も仰け反った。手の動きが見えんかったしな。頬の痛さも、先程の比ではなかったわい。中が切れたのか、口から血が出るのもわかったよ。
 ワシはその血を手の甲で拭い、坊ちゃんに振り返って見上げたよ。なんとも良い顔をしておられる。必死なワシらとは違って、小憎たらしいほど落ち着き払っておったよ。真っ直ぐ、ワシの視線を見詰め返しておった。
 割り切った、とは思えんかったよ。ただ、正面からワシを見詰めておった。ある意味必死だったのかものぉ。願い、という言葉で括れる思いではないのだろう。
「坊ちゃん。ワシからも、一つだけお願いがございます」
「なんだい?」
「行け、と。ただそれだけ、命令してください」
「わかったよ……行け、クアー」
 突き放すように、な。そういってくれたのだよ。ようやく、今まで切れそうで切れなかったものが切れたわい。まだ今も、ワシにも坊ちゃんにも残っているが、それは残滓だ。保護者と幼子からようやく、主従の形が変わったと思うたわ。
 ワシは柄斧を持ち直し、斜面に足を取られぬように低く構えたわい。
「俺も行くぞ」
 すぐ横で、テニスも同じように構えたな。
「ダメだ。テニスはこっちで手伝って」
「ふざけんな! そんなにてめぇだけが生き残りてぇかよ」
「そうじゃない。そうじゃないんだよ、テニス」
「なにがだ、クソガキ。てめぇって奴は――」
 ワシはテニスの肩を掴み、あやつがこちらに向きなおるよりも速く殴りつけてやったわ。
「ヒニアル様を、クソガキ呼ばわりするな」
「てめぇも!」
 立ち上がったテニスは、何かを言おうとしたんだろうがな。ワシの顔を見るなり、口を閉ざしたわ。少しの間だけ目を逸らして、近付いてきた。ワシの耳元で「借り一つだ。死ぬなよ」とだけ呟いて、跳んで行ったわ。
坊ちゃんとテニスが四角錘の中まで消えるのを、見届ける時間はなかったよ。
 最も近づいていたサソリの一匹をワシは、二段旋風の一撃で屠り、体当たりで突き落とした。死んだサソリが作った道を駆け下りて行き、時折別のサソリを斬り落として大きな岩までの起動を修整する。すぐに息が上がったわ。だが、自分の身体を見失うようなことはなかった。鈍い腕も、腰を捻って動かし、脚が動かなければ、身体を倒すことで前へ前へと進んだよ。サソリを一匹落とすたびに、ワシは覇気を取り戻して戦った。だが、それも長くは続かん。大きな岩の下にたどり着いた時には、さすがに呼吸をすることすら辛い状態だった。
 頑張ったほうじゃと思うよ。四十に差しかかろうという肉体で、あれだけ異形の化け物を屠ったんだ。サソリたちの目もこちらに引き付けられたし、充分だろうさ。
 柄斧を杖に、ワシは大きな岩に背中を預けたよ。あとは坊ちゃんがなんとかしてくださる。その何か、というやつを待つだけだった。もう、ワシは動けんかったよ。
 目の前のサソリが、尻尾を大きく上げたな。左右にもいたんだろうが、ワシの目が捕らえていたのは、正面のそいつだけだった。そのサソリは尻尾を上げ、両腕の鋏を大きく開いて、わずかに震えておったな。狩りの成功に喜ぶ獣のように。
 だが、その尻尾が振り下ろされる前に異変が起きたよ。
地鳴りだった。
 ワシの両側から、石が飛び出してきたよ。石の雪崩だ。左右にいたサソリたちはその表面にいくつも穴を開けながら、雪崩の勢いに流されていったよ。
 大量の石。小さな物でも拳大、大きな物は丸くなった人ほどの石だ。どこにあったかもわからない石が降ってきて、斜面を這い上がっていたサソリどもを一掃しおる。
 坊ちゃんだ。坊ちゃんが起こした奇跡だ。そう確信したよ。何をどうしたのか、そんな事はさっぱりわからんかったが、坊ちゃんが何かをしたことは、そん時のワシには疑いようもなかった。
 坊ちゃんだ。坊ちゃんが奇跡を起こした。その思いだけが、胸の中で踊り狂っておったよ。石の雪崩は前面にいたサソリたちを次々に打ち倒し、倒されたサソリたちが他のサソリたちを巻き込んで落ちていく。
壮観だったのぅ。
 死ねんかったよ。死んでなるものか、と思ったよ。坊ちゃんが何をどうしたのかは知らぬが、これほどのことまでやってくれたのだ。命を粗末にしとる場合じゃなかった。
 正面に立つ、ワシと同じように大きな岩に身を隠していたお陰で雪崩を免れたサソリが、とうとう尻尾を振り下ろしてきおった。
 自分で言うのもなんだが、器用な方ではないんだがな。
ワシは器用なことをしておったよ。
振り下ろされた尻尾を柄斧の長い柄で右に受け流し、その勢いを使って身体を反転しながら身を捻った。捻った勢いのままに左の鋏を弾き飛ばし、右の鋏は柄斧の石突で穴を開けた。柄斧はそこで手放して、腰の短剣を抜き、地面に突き刺さっていた尻尾を切り飛ばした。逆手に持ち替え、身体ごとワシは、サソリの目に突進したよ。目の前のサソリが崩れるように倒れた時、雪崩も止んでいたな。
 山の薄い空気の中でやけに輝いている満月が、そこに何もなかったかのように浮いていたな。