■ disorder3 共和国の貿易商 ■

早稲 実

 
 

   間章

 怖い。怖い人がいるよ。
 レンスは椅子の上で膝を抱え、声に出さずに震えていた。
 報告に訪れた男のことである。裂かれた鎖帷子を紡ぎなおした物を地肌に着込む、体毛の濃い男である。初めから、熊のようだと思っていた。
 しかしレンスの怯えは、その容貌のことだけではない。報告――というよりも、彼自身が旅で感じた体験談を聞かされていたのだが、後の方になると内容が武勇伝染みてきた。
終いには、背負っていた二つ折りの柄斧を組み立てては振り回し、壁に穴を開ける。柄斧から手を離したかと思えば、腰に佩いていた短剣を抜き、テーブルを斬り上げる。彼我の間を塞いでくれていたテーブルが二つに割れると、熊男は短剣を逆手に持ち変え、身体ごと突進してきた。
「――満月が、そこに何もなかったように浮いてたな」
 悲鳴を上げる暇すらなく、短剣はレンスの喉元に突きつけられた形で止まっていた。涙が出そうである。
「も、もう、勘弁してください……」
 誰かが入ってきた。室内の惨状に気をとられたらしく、しばらく無言であった。
レンス自身は突き付けられた刃から目を離せなかった。
「旦那ぁ、殺るならひと思いに殺ってやれよ」
 進入者が軽い口で、殺生なことを吐く。テニスであった。
「失敬な! ワシはただ、調査の報告をしているだけではないか」
「なんで短剣を抜いてるんだよ」
「リアリティじゃよ。それというのも、こいつが話し半分に聞いてるからな」
「レンスが?」
「そう、こいつが、だ。こいつが真剣に聞いてるようなら、わざわざ抜きゃせんわい。まったく、部屋が荒れたのもこいつのせいじゃ」
 こいつ、という台詞を熊男が吐くたび、目の前の短剣がレンスの眼前で何度も降られる。突きつけられる。その度にレンスは、背筋に流れる汗を感じていた。
 粗方の責任を擦り付けられてから、レンスの視野から刃が消えた。熊男は短剣を鞘に戻し、柄斧を背に括りなおしたのだ。それから、テニスに向きなおる。
「ん? そういえば、貴様はなぜ、ここにいるんだ」
「あ、そうそう。ヒニアルが腹減った、ってよ。昼は食ったんだけどよ、あのジャガだけじゃ旅が終わった感じがしないって言うからよ、旦那を呼び戻しにきた」
「な! あのジャガイモを食ったのか? ワシのいないところで?」
「しゃーねぇーだろ? 俺、金なんて持ってねぇーんだから。町に入ったら食材集めすらできねぇーよ」
「む、むぅ……言われてみれば、旅の最中にほとんど使い果たしたな。家に戻ればあるが、坊ちゃんのためにも、帰り際に買うべきなんじゃろうが……」
「あるじゃねぇーか、そこにいい財布が」
 ひぃ! テニスがこちらに指を差してくる。そいつは妙案、とでもいうように拳を手に落とした熊男の、不必要なまでに見開かれているドングリ眼がこちらを見据えていた。
「少し、貸してくれんかのぉ」
「は、はいぃ! これでどうか、怒りをお抑えくださいぃ」
「なんじゃ、人を化け物のように……ぶつぶつ」
 言いながら、熊男はレンスの財布の中身を確かめて、満足したのか自らの懐の中にしまってしまった。そして、テニスを伴って部屋を出て行く。
 と。気が付いた。
「あ、待って。あ、いや、あなたじゃなくて……テニス・クォーラー。キミは、部屋に残ってもらいたい。報告の続きを」
「なんじゃ、心配せんでも、晩飯を作ったらすぐに戻ってきてやるわい」
「え、あ、いや……ほら、報告っていうのは色々な角度から聞かないと」
「信憑性が欠けると? ワシの話だけでは信じるに価しないと!」
 え、あ、あああ……どうやら熊男の琴線に触れてしまったらしい。どうにかして、熊男にはご退場を願わなければ。そうは思うのだが、こんな時に限ってレンスの頭に浮かび上がるのは、策とはいえないものばかりであった。
 そして熊男の背後では、糸目のテニスがニヤニヤ笑っている。
「おい、どうなんだ! ワシの話が信じられないというのか?」
「いえいえいえいえ。滅相もございませんですよ」
「なら、何なんだ?」
 レンスが返答に困っていると、熊男の背後で嘲笑っていたテニスが動いた。熊男の肩に手をかけ、朗らかに話し出す。
「まぁ、旦那。レンスがここまでで充分だというんなら、それでいいじゃねぇーか。それに、ヒニアルには共和国内でも親戚たちに狙われてるんだろう? そいつらが強引な手段にでないとも限らないだろ? 傍にいてやれよ」
「む……うむ。確かに貴様の言うとおりだな。しかし、それをわかっていながら貴様、何故坊ちゃんを一人にしてここに?」
「だって俺、旅の付き人であって、ヒニアルの護衛じゃねぇもん」
「きっさま〜。坊ちゃん、待っていてくだされ。すぐに行きますぞぉ」
 そうして、熊男は部屋の外へと走り去った。レンスは深くため息を吐き出し、椅子に持ち上げて抱えていた両足を、ようやく下ろした。
「しっかし、ドィクタトル様の懐刀が情けねぇな」
 部屋の惨状など気にした素振りも見せず、テニスはレンスと向かい合う所にあるソファーに腰を降ろす。歩く過程で、素焼きの皿が踏みつけられ、耳障りな音を立てていた。
「誰にでも苦手はあるものだろうが。理を無視して暴れる輩が苦手なんだよ」
「おまえにも、護身術をおしえてやろうか?」
「いらないよ。それに弟に妙なことを吹き込むのはやめてくれ。力は、あるだけで使いたくなるものだから」
「身を守るためだろ? それに、権力しか知らねぇんじゃ、使いたくなったときに歯止めがきかねぇぞ?」
「そのために、私がいるんだ」
 猫背のテニスが、糸目を開いていた。視線の質感がぬめりとしているような、値踏みの眼差しである。目を逸らしたくなかったので、レンスの表情は不自然に硬くなる。
 テニスが、鼻で笑った。
「まぁ、いいや。どうせドィクタトル様が望めば、護身術も教えるし、暗殺だってする。それより、兄上であらせられるレノンセンス殿がワタクシに何を聞きたいのか、お聞かせ願えませんかな?」
「……訊ねたいか、だろ?」
「細かいことはいーじゃねぇか。ほら、どんと聞いてくれ。つっても、そんなに弁が立つ方じゃねぇからな。冗長になるのはあしからず」
 今度は朗らかに笑っていた。