■ disorder3 共和国の貿易商 二人目 テニス・クォーラー ■

早稲 実

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 とりあえず、まぁ、旦那の話はこの辺だろうな。聞いてもらったとおり、口よりも先に手が出るような男さ。深く考えるでもなく、決死の思いでな。
 おまえとは反りが合わないだろうが、敵になることはないだろうさ。……なんでって、おまえはまだ謳ってるんだろ? 目に付く全ての人を救うとかどうとか。……あん? 迷ってる? は! その年になって迷うくらいなら、初めからでかい口叩くなよ。唱えたんなら、ダメでも謳い続けろ。喉が嗄れても張り上げろよ。その世迷い言をな。馬鹿な奴だって、周りが苦笑いするくらいまでな。政治の世界でも市民一人一人のことまで考える。そういう馬鹿な野郎だったから、俺はおまえを殺したくなかったんだよ。だからよ、迷ってるなんて言うな。
 ……ふん。ようやくまともな面構えになってきたな? んで、次は何を聞きたいんだ? ――ああ、帝国のことか。ま、そりゃそうだ。俺や旦那の目的はその報告なんだからよ。
 端的に言えば、南の帝国は壊滅してた。俺たちが見つけたのは帝国の首都と呼ばれる都市一つだけだが、あの辺に人が住もうって気にはなれねぇだろうよ。
 そう、サソリだ。旦那もちゃんと、そこら辺の話はしてたんだな。見た限りでも、山を埋めつくすほどだった。潜伏してる奴らもいることだろうし、数は見当もつかないな。
 ……ああ。俺の見解から言っても、あのサソリどもが帝国の首都を壊滅させたとは思えねぇ。だが、どちらも何かしらの遺跡が関与して起こったことだろうよ。
 ……まぁ、その通りだな。ヒニアルが言った通り、タイ・ヤウント族が住んでた所にあった四角錘は遺跡じゃねぇ。あれは人が作り上げたもので、古代人のそれとは別物だったよ。だがな、旦那からも聞いただろうが、帝国の首都の荒れようはどうだ。荒れてるなんてもんじゃねぇ。材木や瓦礫も散らばってたが、遠めで見たらただの畑だったよ。でっかい、掘り返された畑だ。種まき直前の、まだ生気の感じられない、ただの畑にしか見えなかったよ。
 闘器じゃねぇ。人の手でも不可能。となると、遺跡くらいしか思い当たらんだろうが。
 他に思い当たる物といえば、月神の力か?

 正直、旦那ばかりを責められはしないよな。四角錘から出て山から眺め下ろした時点で、異変には気付いてたんだ。悪い冗談のようだったよ。
 山から見下ろした景色は、緑の絨毯ってやつだな。低い雲の間から覗く地面は、森だった。熱帯雨林、っていうんだろ? ずいぶんと広い範囲を見渡しているんだろうが、見渡す限り森だったよ。樹海、とも言うよな? 
 そういう、木々でできた絨毯の中に、ぽっかりと地肌が見える部分があったよ。ちょうど、煙草の火種を落として焦がしたみたいにな。話に聞く焼畑かとも思ったが、妙なことにそれは、見渡す限り一つだけ。
 ヒニアルが地図を開いてたからな。唖然としている旦那を尻目に、俺はガキの後ろから覗き込んだよ。帝国発行の正式な地図、なんて物が手に入るわけもないから、貿易商たちが行き来するためにでっち上げた地図だ。目印だけを書き記したそれに正確さなんて期待っできねぇが、おそらくたぶん、その焦げ跡が帝国の首都だったんだろうな。唾を飲むヒニアルの表情がそう教えてくれたよ。
「……行ってみよう」
 ま、行くしかないんだがな。わかってても、俺には口に出すことができなかった。吐き出すように呟いたヒニアルが進んで行くのを見て、慌てて付いていく始末だったよ。
 その日はすでに日が高かった。無理して体力を使わないよう、ゆっくりと降りて山麓で野営したよ。その途中、焼畑やら道やらが見えてきた。森ばかりの土地とはいえ、部分的に人の手は入ってるらしいな。山の上からじゃそれが見えなかった。山自体がびっくりするほど高かった、ってだけの事だったみたいだな。確かに、ただ歩いてるだけで息が切れたのは初めての経験だった。
 次の日。一応、ヒニアルが言うにはその日の内に例の首都、火種の焦げ跡に辿り付ける予定だったんだがな。正直、アテにはしてなかったよ。
 道、だったんだがな。だが、森の中に作られた、人が通れるってだけの道だ。いや、轍もあったから、荷車なんかも通ってたんだろうがよ。上を見上げれば緑の天井だし、地面も均されてるとは言い難い。つーか、雨とかが原因なんだろーが、ボコボコだったよ。摺り足が癖になってんのか、俺ばっかり足をとられてな。
 そーでなくてもあの暑さと湿気。意識が朦朧としてんのか、時々景色が白んだよ。荷物を旦那に持ってもらってるからって、ヒニアルが妙に元気なのが不思議だった。
 そんで、とうとう森が開けると、畑が広がってるんだ。
 いやいや、そう。例の、帝国の首都だよ。どんな事が起こったのか知らんけど、デカイのから小さいのまで、瓦礫が土の中に潜り込みながら半分だけ顔出してるんだ。そんな景色がどこまでもな。たぶん、壁に囲まれてるレイマス中枢都市なんかよりも遥かに広い範囲だったと思うぞ。
 わけがわからんかったよ。
 呆然とした。
 次には、な。そうなってしまった破壊があったんだろうって。
 それだけが漠然と、理解できたよ。
 熱いのに、寒気が走ったな。

 はっはっは。ん? 違うな。は、はは、ははははは。微妙に近いか?
 ただもっと暗い、乾いた感じの声で旦那が笑い出したな。
 いつでも自信満々で決め付ける旦那がよ、力なく笑い出すんだよ。やめてくれって、言ってたな。それでようやく、旦那は自分が笑っていた事に気が付いたみたいだったよ。
「そうだね。とりあえずクアー、落ち着こう。この中に父さんがいるかもしれないんだ。早速調査にかからないと」
 言って、前に踏み出そうとするヒニアルの肩を旦那が掴んでいたよ。ヒニアルが顔を向けると、旦那の顔つきが違った。野党と出会った時だってまだどこか余裕を残してたのによ、そん時の旦那はまるで、親の仇にでもあったような形相をしてたな。いや、そんなチンケな報復劇ぐらいじゃ例えきれねぇや。そもそもあのおっさん、顔が怖いからな。
「行ってはなりません」
「でも」
「あれは、大破壊の跡です」
 その大破壊ってやつがなんなのか、俺にはよくわからんかったがな。ヒニアルの驚きぶりからすれば、旦那の顔付きが普段のそれとは違うのが理解できた。断固としてヒニアルを行かせないつもりらしいが、そいつは困る。
「おいおい、旦那。ここまで来といてそりゃないぜ。それに、調査をしない場合がどうなるかは、言っておいたはずだよな」
 ヒニアルの肩に手をかける旦那の手首を掴んだらよ、かなりの速さで振り払ってきやがったよ。あのオヤジ、案外体術も大したもんだぜ。俺の肩を外そうとしやがった。反射的に後ろに跳んだから痛めたくらいで済んだけどよ。
 旦那は背中から、折り畳んだ柄斧を取り出して、一振りで組み立てて、構えまでとりやがった。
「へぇ〜。やるのかい?」
 時間稼ぎのために、わざわざ口に出したよ。さすがに慌てたからな。まさかこんなタイミングで旦那と戦う羽目になるとは思ってもいなかった。肩も痛めてる。正直きついさな。逃げちまうのが得策だろうよ。
 だけどよ、俺は両腿の剣を抜いていた。
 殺すことはできただろうよ。肩が痛んでいようとな。向こうは一本、こっちは二本。死ぬ気になれば暗殺できねぇ奴なんか、俺にはいないだろうさ。けどよ、勝ちは難しかったかもな。どちらも無傷のまま、旦那を納得させる勝ち方なんてのは。
 それでも退くことなく、俺は剣を抜いていたよ。理由を上げるとするなら、ザールスの人を食った笑顔が脳裏にちらついてた。ここで旅をやめれば、ヒニアルはどこにでもいるただのガキになっちまう。ザールスが作り上げたコネだってなくなっちまう。
 いったん退いてから旦那を暗殺する方が楽だったんだろうが、それじゃ意味がないからな。旦那を失ったヒニアルが正気を保っていられるとも思えねぇ。
 だから、俺は旦那と対峙したよ。
 ザールスのため? はは。違う。そんなんじゃない。ただ貧乏性なだけさ。ザールスだって息子に苦難を強いてまでコネを残そうとは思わなかっただろうさ。
 けどよ、俺は惜しいと思っちまった。
 だからよ、頭を捻れるだけ捻ったよ。
 正直、策を練るなんてガラじゃねぇ。いつでも正面から堂々――いや、暗殺だけどな――身に着けた技で相手を屠るのが俺だ。けどまぁ、そういった暗殺技術がまったく使えねぇ状況で、どうしたら件の勝ちを拾えるか。緑の天井を抜けちまったもんだから、直射日光ビシバシの壊滅した首都の端っこで考えてたよ。喉の渇きで、立ってるだけで苦しかった。
 考え付いたことなんて何にもなかったが、旦那が俺より消耗していることだけはわかったよ。形相こそ崩しちゃいなかったが、目の焦点がおかしかった。
 確かに刃物を持つ者同士戦闘だったら、刃に意識を向けすぎないのは基本だけどな。そういうんじゃねぇ。見るからに朦朧としてた。
 考えてみりゃヒニアルの荷物も持って、あの道ともいえない道を歩いたんだ。それに、年齢的なものもあるだろうな。いくらガタイが良くても限界は超えてるはずさ。
 日の出てる間は、根競べになったよ。そういう仕事は一番嫌いなんだがな。
 けどよ、なんでだか知らんけどヒニアルも旦那のすぐ後ろで頑張って立ってるんだから、俺が一番に座り込むわけにもいかんだろうさ。なんだか良くわからんところで意地の張り合いになっちゃってよ。初め、間合いを測ったりして真面目に戦おうとしていたのが馬鹿らしくなるくらい、何故だか俺はヒニアルを敵視してたな。
 いや、なんでって訊くなよ。暑さにやられてたんだろうよ。旦那はともかく、ガキに負けてられっかって。だから体面的には旦那と対峙してたけどよ、時々ヒニアルの方を見てたな。俺は。
 そしたらヒニアルもその気なのか、負けるか、って強気な眼差しで頷くんだよ。樹海の道じゃ先頭に立って歩いてたくらいだから、荷物を持ってないつってもそれなりに疲れてるはずなのによ。
 よーし、俺も負けてられないな、とか思ってたら夕暮れよ。景色が変わったせいか、唐突に旦那と戦ってることを思い出してよ。良い策も思いついた。西日がきつい位置に移動してよ、旦那には暗い森の方を見てもらう。そんな状況に目が慣れてきただろう頃合に、こう、クイっと手首を捻って剣を反射させて旦那に目眩ましだ。ほんのわずかな時間だろうが、視界が真っ赤になるはずだ。その一瞬にかけて、俺は跳んだ。
 死んだ。
 そう思ったね。
 目眩ましは成功したはずだ。旦那には俺は見えなかったはずだ。はずなんだが、旦那は前に伸び上がるようにして柄斧を振った。勘――いや、野性の本能つー方が旦那には相応しいかもな。俺は、胴からばっさりやられていただろうよ。
 けどな、そん時にヒニアルが動いたんだ。前に伸び上がるために旦那が伸ばした後ろ足の膝。その裏側を踏みつけて、旦那の姿勢を崩した。柄斧は俺の胴に当たる前に、旦那共々地面に倒れたよ。
 旦那はすぐさま仰向けに向きなおったが、俺が剣を持っているのを見てすぐ、戦意を失くしちまったよ。それよりも、自分の腹に馬乗りで跨るヒニアルと問答することに意識を持ってかれてたな。
 神がどうのとか言い合いながら、最後は一方的にヒニアルが旦那を殴ってたな。ただ、すまねぇが、そん時のことはよく覚えてねぇんだ。
 俺は、自分がこんなガキに助けられたことが信じられなくてな。
 それに、俺がまず得られないと思っていた勝利まで呼び込みやがったから。

「とにかく寝てろよ。旦那の様子は俺が見てくるから」
 わけわからん奴だが、それでもまだガキってことなんだろうさ。力なく項垂れて、頷いてたなぁ。
 そのまま眠りこけてもいいように、一応焚き火だけは熾しといたが……だめだな。湿度が高すぎるせいか、落ちてる枝も枯れる前に苔を生やしてやがった。湿気った皮を剥いで薪にしたんだが、ライターで長時間焙ってようやく燃え始めてくれたよ。火打石じゃどうにもならなかっただろうな。
 ん? おう。持ってるさ。旦那から借りたんじゃなくて、ドィクタトル様からもらった、俺の、ライターだよ。見るか? え? いい? ……じゃ、いいか。
 とりあえず俺は、火だけ起こして、旦那の様子を見に行ったよ。
 瓦礫だけの廃墟――つーには、いかんせん掘り返された土が多く見えすぎてたがな。
  旦那は、そんな所にまだ、死んだように寝転がってたよ。その辺の瓦礫と一緒さ。クズみてぇに見えた。
 意味なく熱く燃えてたあのオッサンと、同じ人間だとはとても思えなかったな。
「生きてっかぁ?」
「……坊ちゃんはどうした」
「…………泣き疲れて、今は寝てる」
「そうか……ワシのことは捨て置いて、坊ちゃんの傍に付いていてくれ」
 最後に「頼む」って付け足した旦那の顔は、表面にまだ汗が光ってたが、枯れた老木みたいにシワが目立ったな。じいさんって歳でもないだろうに。
「やなこった。俺はあくまで見張り役なんだよ。熱中症かなんかだろ? さっさと回復しちまえ。護衛なら自分でやるんだな。お守りなんて真っ平ごめんだ」
 悪態を吐いて笑ってやると、旦那は鼻で笑いやがった。
 安心できるほど力強い仕草じゃなかったがな。頼まれちゃ、仕方ない。俺はヒニアルの元に戻ることにしたよ。心配されて嬉しいような歳でもないだろうしな。
 森の中まで戻ると、ヒニアルはぐっすりだったよ。時々旦那の名前を呼びながら、涙も拭わずに眠ってた。ジメジメしてるし獣はうるせぇしで、とても快眠できそうな環境じゃねぇのによ。
 俺もそこら辺の木の根元に腰を下ろして、あとはただヒニアルを眺めてた。ほとんど生木ばかりの焚き火がパチパチやかましかったな。俺はぼんやり、ただ眺めてたよ。
 こういうのも、強さなのかもしれないなぁ、とか考えながらよ。
 いや、どこでも寝られるってことがじゃなくてな。
 ヒニアルは別に、何をしてたわけじゃねぇ。重い武器を持ってたわけじゃない。刃物を持つ敵と対峙してたわけじゃない。ただ立ってただけだ。そして、曲がる物を曲がる方向に押してやっただけだ。大した力が必要なわけじゃない。危険なわけでもない。
 けどよ、それができるかといえば、俺にはできないだろうさ。
 ただの偶然かもしれない。奇跡的な出来事だったのかもしれない。
 だが、それをやった、成したのは、確かにそこで涙ぐんで眠るガキなんだよ。
 ヒニアルだって何かの確信があって、旦那に膝かっくんをやったんじゃないだろうさ。おそらく、ただ止めたかっただけなんだろうよ。そんな願いを、あいつはあんな小さな身体で実現しちまいやがった。
 レイマスの貿易の一割に関与している男。考えてみれば、ヒニアルはそんなとんでもない男の息子なんだ。これも一つの天性なのかと思うと、怖かった。
 ヒニアル自体が、じゃなくてな。
 密命が、一つだけあるんだよ。害を成すようなら殺せって。何に……って? ドィクタトル様にだよ。そりゃそうだ。御者に歯向かうような駄馬なら肉にする。
 これまでのところヒニアルは、感謝こそすれ歯向かう恐れはなかったがな。むしろ旦那の方がな。ドィクタトル様の名を出す度に舌打ちしてたよ。けど、歯向かわずとも害になる可能性はあるんだって、その時ようやく思い至ったもんさ。
 一つの馬車に、御者が二人もいるのか? ってな。
 そう思うと、俺があのガキの首に刃を突き刺さなきゃならないのかと思うと、気が滅入ったな。怯えた。
 好き? 知らねぇよ。ただ、その時も似たようなことを考えてたな。だから俺は、別に眠たくもなかったけど、眼を閉じることにしたんだ。
 パチパチって、生木の焚き火が音を立ててたよ。
 森の、焚き火の明かりが届かないところでは、獣が咆えてたよ。
 そんな中で、できるだけ何も考えないよう、俺は眠ろうとしてたんだ。
 変な音だったな。薪として使えるように、生木を適当に折ったときみたいな音が聞こえていたよ。小さかったが、少しずつ大きくなっていった。
 遠かったんだよ。それが、近づいてくるんだ。
 辺りの樹木を薙ぎ倒してる音だと気付いたとき、ようやく俺は跳ね起きたよ。
「起きろヒニアル! 何かがくる」
 怒鳴られて飛び起きたヒニアルも、驚いてるようだったよ。倒木の音が一直線に近づいてきていることを悟ったんだろうさ。見渡す限り、何年もかけて太く肥えた大木だ。それが、間断なく折られてる。
「何がくるの」
「知るか! とにかく隠れるぞ」
 頷くヒニアルと一緒に俺は、近くの木陰に隠れた。いくら俺の夜目が利くといっても、獣と比べられるものじゃねぇ。だから、焚き火が見える程度しか離れないで俺たちは隠れたんだが……
 焚き火の近くにある木が折られたとき、失敗したと思ったよ。
 でかかったんだ。
 魔物だ。
 丈だけで人間ほどもある、巨大なサソリだったよ。仮にそこの土地ではポピュラーな生き物なんだとしたら、俺はもう二度と、南の帝国には来ないと誓ったと思うよ。
「うわぁ!」
 サソリを見たヒニアルが叫ぶとそいつは、焚き火の明かりを反射して光る大きな瞳を、ぐりんとこちらに向けたよ。
 一つ目のサソリは俺たちに向かって突っ込んできやがった。

 幸いなのが、サソリが賢かったことだな。
 辛かったのは、硬かったことだ。
「ヒニアル! 旦那の元まで走れ」
 俺が剣を抜くと、サソリはヒニアルに目もくれず向かってきやがった。まさか、俺が誰かを守るために剣を抜くとはな。今だから笑えるが、あん時はそれどころじゃなかった。
 速くはなかったよ。そうだな。二階から石を落とすくらいの速度か? 落ち着いてさえいれば、両手の鋏と尻尾の三方向だといっても、避け続けるのは難しくなかったろうな。
 落ち着いてさえいればな。
 動揺してたのさ。それでも右から来る鋏を屈んで、左からくる鋏は前に踏み出して避けたさ。上から降ってくる尻尾を体を捌いて飛び上がり、サソリの背に乗るまでは難なくいけたんだがな。剣を逆手に持って突き刺してみるとどうだ、切っ先がやつの殻に弾かれちまった。クズみてぇのがちょろっと欠けただけだった。
 それからは大変だったよ。振り落とされて、鋏と尻尾の乱れ撃ち。辛うじて全部を避けたものの、俺はどうすりゃいい? 何度か剣を向けたが、全部殻に弾かれちまう。
 背中を向けて走り出すほど距離も取れないまま、必死で避けながら、俺は成す術もなく後退していったね。
 夜の森だ。当然、足が救われたりもするわな。平衡を欠いた俺は見事に鋏の直撃を食らっちまったよ。剣で受けながら後ろに跳んで何とか衝撃は殺したけど、それでも力が半端じゃねぇ。一発で大木を破砕してるのを見てたから想像はしてたが、自分の身体が吹っ飛んだことには驚いたね。
 もうほとんど森を抜けてたのは幸いだな。幹にぶつかって気絶しないで済んだんだから。俺が着地したのは帝国の首都だったよ。振り返れば、旦那が立っていた。
「よ、よう。旦那。すげぇもんが、出てきたぞ」
 妙に精悍な顔つきに戻ってやがった旦那に、俺は笑いながら言ってたな。可笑しいことなんて何一つないんだが、腹の底が痙攣してるみてぇでよ。笑ってたようなもんだ。
「凄いもの?」
「あ、あぁ……魔物だ」
 掘り返された都市と樹海を隔てる、幕のように月明かりから森の中を隠していた木々がまとめて倒れると、サソリはその姿を現したよ。焚き火の明かりで見たときより、そいつは少しだけ小さく見えたな。それに、禍々しい感じがしなかったのは意外だったよ。
 ん〜、なんて言うんだろうな? 凶暴な雰囲気がなかったんだよ。鋏の間にある一つ目だけがギラギラ光ってるが、それも明かりの反射にしかみえねぇ。輪郭が、な。なんつーか単純なんだよ。生き物って感じがしなかった。
 サソリは動き出したが、まるきり勝てねぇって気もしなかったよ。俺が撹乱して、旦那の柄斧で仕留める。一番初め。体重を乗せて剣を突き刺そうとしたとき、わずかながらも欠けたんだからな。
 俺はその場で構えなおしたよ。剣は盾として使うために一本だけにして、衝撃は腕で逃がせるように剣の腹に手を添えた。
「気を付けろ、旦那。速くはないが、力は尋常じゃないからな。それに、硬ぇ」
「ほう……なら、貴様は退いていろ」
「おい、旦那ぁ!」
 旦那は何の躊躇もなく踏み出して行ったよ。俺が吹き飛ばされていたのは見てただろうに。サソリの力が尋常じゃないことくらいわかっているだろうに、な。
 サソリは、まっすぐ旦那に向かって行ったよ。旦那は、頓着せずに構えてた。腰を落として、柄斧を肩幅くらいに離して掴んで構えた。
 確かに長い柄斧を取り回すにはそういう構えが正しいんだろうさ。だが、腰を落としちまったら、鈍重な旦那がサソリの攻撃を避けられるはずもねぇ。違う。そう言おうとしたんだがな。
 旦那が動き出したんだ。
 まだ、サソリが間合いの遥か遠くにいるっていうのにな。刃を振り上げて、鍬で地面を耕すみたいに真下に斧を振り下ろしたんだ。けど斧の刃は地面すれすれをすり抜けるようにして旦那の背後に回る。その遠心力を生かしたまま旦那は、今度は柄の方だけを片手で保持して踏み込んでいった。
 三歩。いや、四歩くらいの間合いを、持ち方を変えることで一気に詰めちまって、サソリは背中に大きな穴を開けてたな。最初の回転をそのまま生かした一撃だからな。人が受ければ、地面に減り込むんじゃねぇか?
 サソリを倒したことよりも、その破壊力が妙に笑えたな。
 腹の底が痙攣してたよ。

 やっぱ、旦那がいるだけで野宿も変わってくるよ。土の選び方が違うんだろうな。そりゃ湿度が高いのはどこでも同じだけどよ、下に苔が生えてねぇだけでずいぶんと違うもんだったな。
 あん? どうやって夜中に苔の有無を見分けるか? 枝振りを見ればわかるんだとよ。あとはそこに日が通るんなら、日差しがあるってことさ。道理だろ?
 薪にしたって見事なもんさ。倒木だってあの辺だったら枯れる前に腐って水気が抜けねぇから、旦那は荒れた帝国の首都から廃材を持ってきて火をつけたよ。煙は出るくせ、火がでねぇさっきの焚き火とは比べらんねぇーな。
 飯作りにせよ、違うんだもんな。干し肉くらいしかないから仕方なくダラダラ噛んでたってのによ、旦那は近くの葉っぱで肉を包んで、焚き火の下に入れるんだ。葉に灰を塗しておけば火が燃え移らねぇんだと。それによ、葉の水分で肉が戻ってるは、軽く焙られてるみてぇでウメェはで。感心させられたよ。
 それに比べて、俺はどうなんだろうな。
 面倒臭ぇ面倒臭ぇ言って、結局何もできないだけなんじゃないのか?
 そりゃ、旦那より腕が劣るとは思わねぇ。旅の中だけでも、数え切れないくらい機会があったな。だが、おかしくなった旦那を止めたのは俺じゃねぇ。あの巨大なサソリを倒したのだって旦那なんだ。
 俺はいったい、この旅で何をしているんだ? 何ができるんだ?
 これじゃまるで、初めてレイマス中枢都市から外に出たヒニアルと、なんにも知らねぇヒニアルと同じだ。
 そして、何もできないでいるヒニアルでさえ、俺と旦那の戦いを止めてくれたんだ。
 そう考えるとな、妙に空しくなるんだよ。なぜ突然そんなことを考えたのかも、よくわからねぇ。別に、誰がどうだろうと俺は俺。そんなもんだろう。誰かと比べてなにがどうなる? 野宿が上手くなって、殺し屋として何か意味があるのか? わかっちゃいても、奇妙な無力感が頭ん中で渦巻いて、俺のことを放しはしないんだ。
 だから、目を閉じて、俺は眠ろうとしたんだよ。
「鉄、かどうかまでは判断できませんでしたが、金属の外装を付けた闘器の残骸でしたね」
「それじゃ、父さんの」
 何も考えないでいると、あいつらの話し声が耳の中に滑り込んできたよ。旦那は、ヒニアルが悲鳴を上げるまでは単独で掘り返された都市を探索してたらしくてな。そこで鉄外装の闘器を発見したそうだ。ま、当然、ズタズタのクズだったらしいがな。
「かも、しれませんね」
「可能性は大きいよ。だって帝国の闘器の外装って、布とか皮とかが多いって父さんが言ってたよ。仮に共和国産の闘器だとするなら、父さんの闘器以外には考えられないし!」
「なればこそ、この辺りが引き際かと思っています」
 ヒニアルが立ち上がるのは、気配だけでも知れたな。怒鳴ってたよ。
「まだ神なんてものを信じてるのかよ、クアー!」
 また、神がいるだのいないだの。
そんな物がいてくれたところで何をしてくれる。どうにかしてくれるのか? あの巨大な一つ目のサソリを。帰路とはいえ先は長い。わかっているから休息をとっているんであって、そうでなければ俺は、一刻も早くあんな場所から離れちまいたかった。
「それでもワシは……引き上げ時だと思います」
「何を言ってるんだよ、クアー。父さんの手がかりが、すぐそこにあるかも知れないんだよ。ここまできて。ここまで旅してきて、なんで諦めることなんてできるんだよ!」
 薪が爆ぜる音が、妙に澄んで聞こえたもんだ。遠くで鳴いていた鳥たちも、怯えるみたいに静まり返っていたな。
「俺も、引き上げ時だと思うぞ」
 意見だけは、言わせてもらったよ。
「な、なにを言ってるんだよ、テニス……ふざけないでよ」
 意外だったのかもな。俺が反対することが。ヒニアルの声は震えていたよ。俺は上体だけ起こして、目を開けたよ。目に入ったのは、一途なだけのクソガキだったがな。
「ふざけてるのはおめぇだ、ヒニアル。調査なら充分だろ」
「どこがさ。共和国の闘器、かもしれない塊が転がっていました。それでドィクタトルさんが満足してくれるのか? あの人がそんなに甘い人なのかよ」
 一度会ってるからな。印象で喋ってるんだろうが、そう的外れとはいえないよな。ただ、調査量だけが重要なわけじゃない。ヒニアルは、何もわかっちゃいない。帝国に調査へ行ったザールスの息子、が重要なんであって、調査の内容自体はおまけなんだから。
 まさか、そこまで口にしたりしないがな。
「甘いのはおめぇだよ、ヒニアル。
 正直、荒廃した首都を見ただけでも充分だったんだよ。理由や原因がわかるならその方がいいんだろうが、帝国の民はすでに移動して、北上してるって話だったじゃねぇか。俺らの調査なんかより、詳しい事情は帝国の人間にでも訊ねるんじゃねぇのか? 俺ならそうするよ」
「帝国の人間が嘘をつくかもしれないじゃないか?」
「根無し草が嘘を? そんな余裕がどこにあるんだよ。仮に虚言を弄したとして、そこから真実を探り出して利用するのが元老院の仕事だろ? 奴らに手柄を奪われちまうのはご免だぜ?」
「手柄がどうとかじゃないだろ!」
「そういう問題だ。それが仕事ってもんだろうが。それにな、俺たちは帝国の首都が壊滅した原因の一端を見た、のかもしれないんだぜ?」
「なんだって……」
「あのサソリだよ。あれが自然に生まれると思うか? クアーの旦那が殻を砕いた時の音を聞いただろ? 乾いた、短い、低い音。蟹の殻を潰した音にも似てるが、あれは陶器が砕けた音だった。……わかるだろう?」
 連想できたのか、ヒニアルは口を塞いだよ。
 わかるだろう? 陶器でできた、巨大な生き物。確かに主に発見されるのは人を巨大化させたものばかりだが、それが他の動物であっても不思議じゃない。奇妙ではあるが、古代人の考えることなんてわからんしな。
「でも、あんなの一匹いたって」
 吐き出すように、またクソ坊ちゃんが怒鳴った。縋るようにな。
「どうにもならんだろうな。大したことないさ。あんなの一匹じゃな」
 だが、あんなのが一匹いるだけで充分なんだ。結果はすでに、俺たちは目の当たりにしてるんだから。サソリが直接の原因である必要はない。サソリが闘器であり、古代人がこの辺りに何かを残している可能性がある、ということが重要なんだから。おそらく、何かしらの遺跡を、な。それに、サソリが一匹とも限らない。
「でも!」
「いい加減にしろよ、ガキ。まだ俺たちが置かれている状況に気付いてないのか? それとも、気付いているにも関わらず、死んだ親父の姿を追いかけるようなガキなのか?」
「おい」
「言わせろよ、旦那。
 おい、クソガキ。てめぇは、いったい何をしたんだ? 重い荷物は旦那に背負ってもらい、宿地の設営は俺がやっていたな? 野党に襲われた時はどうしてた? 旦那の背中で隠れていたっけな。何もない所では隊長気取りで一人で前に出るくせ、何をするわけでもねぇ。安全確認も適当で、歩き出しちゃ大事なカモシカを谷に突き落としそうになってたよな? クソくだらねぇ知識をひけらかすばかりで、旅そのものに何か貢献したかよ。
 旦那は従者で俺は付き人か? まぁ、確かにその通りかも知れねぇが、こんな重大な判断までてめぇに任せっきりにできるかよ」
「おい、テニス」
「言わせろ、旦那。言っちまわねぇと俺の腹の虫が収まらねぇ。
 言っとくぞ、クソガキ。てめぇはただの飾りなんだよ。ザールス・カットっていう大貿易商の七光りに照らされた、ただの飾りだ。そんなガキが全てを決めちまおうってこと自体おこがましいんだ。わきまえるんだな、クソガキ」
 そして、そんなクソガキが、俺と旦那の喧嘩を止めたんだ。
 旦那の足が伸びきった瞬間に膝裏に乗り、ヒニアルが俺の命を救ってくれた。その光景が頭ん中で繰り返しやがる。かと思えば、目の前のクソガキは涙を流し出す始末。
「うぜぇ」
 何もしてない、できない苛立ちを、ただガキに当り散らしてる。どうしょうもない人間なのは知ってたが、ここまで最低とはな。しかも原因ははっきりしてる。サソリに対する恐怖心だ。殺し屋が得体の知れない物が怖いっていってるんだぜ? 笑っちまうだろ。
 とにかく、今は一緒にいるべきじゃないと思ったよ。
 不必要にヒニアルを傷つけちまう。
 そんな自分に腹が立つ。
 適当に歩き出したんだが、後ろから旦那が付いて来たよ。ヒニアルを一人にしてどうするつもりなのかねぇ。少し怪訝に感じたけど、苛立ちが勝ってたな。
「また、俺を切ろうってのかよ」
 まさかな。わかってて、俺は突け放すように言ったんだがな。なぜだか、礼を言われちまったよ。
「っは。礼を言われることなんてしたかよ。傷に塩を塗りつけたようなもんだ」
「塩を塗り付けられれば、人は痛みの意味を知るのだよ」
 なんか難しいこと言ってくれるよ。ほとんど売り言葉に買い言葉で口を開いてたな。褒め言葉に対する照れ隠し? ん〜そうなのか? よくわからんが。
「はん! 知って泣き叫ばれてもねぇ」
「その点に関しては、時間をくれとしか言いようがないがな。どちらにせよ、礼を言うよ」
 時間をくれ、だってよ。時間を欲しいのはむしろ俺の方だったよ。俺は苦笑して、もう何も言い返せずにその場を去ったよ。