■ Fenrir-フェンリル- ■

鹿神 藍

――V.
「なるほど……」
 もう何度となく耳元で聞こえる声に、貴也は気がついていた。
 しかし彼は、そのままふて寝を続けていた。耳元で紡がれるその柔らかな声が、妙にくすぐったくて我慢していたとも言う。
 心地のよい温もりの中に横たわり、脳髄までとろけ出してしまいそうなまったりとした匂いの中に、貴也は見も心も静めていたのだ。
 閉じた目蓋の裏からでも感じられる陽光を全身に浴びたまま、うっすらと寒く汚れのない静謐な空気で肺を満たす。都会の忙しさから遠ざかり、一人だけ取り残されたような世界に横たわっている。
「水城貴也、一七歳。一人暮らし、現在は県立高校に通う二年生。趣味――日のあたる高いところでの昼寝」
 貴也の顔に降る陽射しを遮って、顔の上の何かから紙をめくる音がした。
「キマイラ能力……」
 声の主は一度、そこで言葉を切ると軽く笑った。
「――なるほどね。なお未確認の情報ではあるが、本人は酷く獰猛であるだって。こんなこと、誰が調べたんだろ?」
 なめられている。そう思って貴也は目を開いたが、頭を撫でる手の平に顔を顰めた。
 覗き込む顔の輪郭が、肩口で切りそろえた黒色の髪の毛に透けて見えた。顔はよく分からなかったが、形のいい赤い唇が笑っていた。
「あ、起きた?」
 しばらくしてまどろんでいた意識が覚め、貴也は誰かの膝の上に頭を乗せられていたことに気がついた。飛び起きようとしたが、頭を撫でる手に再び無力化させられてしまう。
「大丈夫、何も恐がることはないわ。私はね、キミの味方よ。決して怪しい人間じゃないし保健所の人間でも――って、ねえ聞いてる?」
 貴也を見つめる穏やかな彼女は、アンジェ遺伝子研究所の柳瀬奈緒と名乗った。
 奈緒の言葉に、貴也は鼻の頭に皺を寄せていた。自らの全身を這う神経は危険ではないと判断していたが、それでもきな臭いものだけは感じられた。
 野生の本能というやつだろうか。貴也は、他人とは違う感覚を持っていた。他人と違うと言うよりは、むしろ人が進化してきた過程で不必要になって捨てたものだ。
「あんた、何だよ?」
 訝しげな声が出た。だが、辛うじて奈緒に届いたかどうかの声しか出せなかった。
「っだから――!」
 奈緒が言葉をのんだ。
 一瞬だった。
 奈緒が何かを言おうとして、声を張り上げたその一瞬だ。
 立ち上がった貴也が、奈緒の体を宙づりにしていた。
 まるで空を凪ぐように突き出した貴也の手が、奈緒の細い首を鷲掴みにしていたのだ。絞め殺さないまでも、浅く喰い込んだ爪に彼女は苦しげに顔を歪ませた。
 奈緒の手からは、手にしていた書類が落ちる。
 恐らく、奈緒の目には貴也の姿を捉えることができなかっただろう。けれども、彼女の口を黙らせるにはちょうどよかった。
「だから……そんな研究所の人間が俺なんかに、何の用があるんだって聞いてるんだ」
 何人もの人を殺し、その手を血に染めてきた。欲していた、望んでいた力を手に入れたと喜び、自分が生まれ変わったんだと思い込んでいた過去が――貴也の脳裏に蘇った。
 しかし、ここで排除されるならと決意していた。自分を守る為、生きる為にと執拗に言い聞かせた。
「キミ、たち……能力者を――為に、私たちは……研究を――」
 途切れ途切れ、微かにしか漏れなかった吐息のような声。常人には聞き取れないだろう声を貴也は聞いた。
「助けるだって?」
 貴也たち能力者と呼ばれている人間は、奈緒たち研究者からキマイラと名称をつけられていた。その意味は、二十年前に爆発事故を起こした研究機関によって撒き散らされた、遺伝子を変換させてしまう、ナノマシンから生み出された副産物からきている。
「そうよ……助けるって……言っている――のよ」
 咽ながら奈緒は、自らの首を押さえつける貴也の腕を掴んだまま言った。
「簡単そうに言うなよ」
「……え?」
 聞き取れなかったとでも言うように、奈緒は聞き返す。
「助けられるなんて簡単に言うな! 助けられる必要なんてどこにもない! これは自分で望んだ力だ! 望んでいた力だ! あんたらに何が分かる? この苦しみが、痛みが、離れられない自分を、やっとの思いで認めることができた俺の気持ちが!」
 奈緒は自らの首を絞めつける手から、微かな震えを感じていただろう。激昂したはいいが、ぶつける怒りの捌け口がみつからないという貴也の感情の表れだった。
 同時に、貴也は言葉を吐き出しながら、自分の中にある矛盾に怒りを覚えてもいた。溜まっていた鬱憤が偽りを含み、そのまま自らの心に帰ってくるような気がして空しくなる。
 初めて会った相手に、いきなり本音などぶつけていいものではないことぐらい、貴也もわかっている。ただ、奈緒は初めて会ったキマイラについて話せる人間だった。現実から遠ざかっていくような肉体の悩みを、初めて真剣に話すことができる人間だったのだ。
 だからこそ――。
「初めて……初めて人を殺めたのは、確か中学の頃?」
 それに対して、奈緒は静かにそれでいて淡々とした口調で告げる。
 喉を締め上げる力は先ほどよりは緩まっていた。強く握ってしまえば、思わず彼女を殺してしまうかもしれないと貴也が思ったからだ。
「友だちを殺した相手を顔の形が変わるまで嬲り殺しにした? 深夜の公園で寝ていた浮浪者をその爪で引き裂いた? 駅から自宅へと帰ろうとしていたサラリーマンをその牙で噛み殺した?」
 奈緒の言葉が、貴也には先ほどまでの温かなものとはまったく異質のものに聞こえていた。冷ややかすぎる、全てを見透かされて冷笑されているような気分だった。
「――そんなものが、キミの望んでいた力だというの? そんなものが本当にキミの欲していた力なの?」
 貴也は反射的に奈緒の首から手を離していた。体重を支えるものを突如として失い、奈緒は尻餅をつく。
「あんたらに何が分かる? 研究者だか何だか知らないけど、あんたらに何ができるって言うんだ!」
 奈緒は首を手でさすりながら声を上げた。
「正直、何ができるかなんてわからない。でもね、これから詳しく研究を進めていけば、いずれキミたちを助けることができるとは思っているわ」
 貴也は奈緒から目を背けた。白い肌に赤々とできた傷跡が生々しいと思った。
「……それには、キミたちキマイラである能力者の協力が必要なのよ」
 とりあえず体から怒りに似た力は抜けたが、貴也にはどうしていいのか分からなくなっていた。
 この力を持って生まれたのが水城貴也であり、自分自身であるという認識がある。この力がなくなってしまうことが、現在の自分を否定することになるのではないかと彼は不安だった。
「水城貴也くん。キミのように能力を持った人間がね、今こうしている間にも次々と生まれているのよ。そうやってキマイラとして生まれてきた子供たちも、いずれキミのように悩んで知らず知らずのうちに人を殺してしまうかもしれないじゃない? それをさせない為には、やっぱり私たちの研究が必要なのよ。研究が進めばどうにかしてあげられる。私たちの研究はね、キミらのような能力者をこれ以上増やさない為に役立てて――」
「別に、いいんじゃないか?」
「……何がいいのよ?」
「だから、別にいいんじゃないかって。どうせ無気力なガキばかりなんだ。多少くらい、他人とは違う力を持ってたって」
 奈緒が息をのむのが貴也には聞こえた。それほど、彼の目は暗い色をしていたに違いない。
「いいじゃないか、簡単に人を殺せる力を持ってたって。いいじゃないか、簡単に人から逃げられることができる力があったって――」
「キミは能力について勘違いしてるんじゃないの?」
「勘違い?」
「力を持っているからと言って死なないわけじゃないし、傷つかないわけでもない。血だって流れるし病気にだってなるわ。所詮キミだってね、一介の高校生でしかないの。どんな力を手に入れたところで、それが変わることなんてないのよ」
 昔に読んだ小説に、こんな始まりのものがあった。
 ――生れ落ちた赤ん坊の小さな手の平には、地上の生命体の生活を脅かせるような力がしっかりと握り締められていた。
 紙の上だけの、文章の羅列。ただの作り話だと貴也は思ったことがある。
 ――それは簡単に人を殺せる力かもしれないが、簡単に言えば普通の人とは少し違う力を持っていたということだけだった。ナイフで刺されても刃が折れてしまうということはないし、銃で撃たれても高速で飛来する弾丸をはじき返すことなどできはしない。
 ひょっとすると、あの作者は自分たち能力者のことを見ていたのかもしれない。その作品の中で主人公たちはみな、作り物の命を持つ、魔物――キマイラと呼ばれていた。
「どう、試してみる?」
 そう言った奈緒は肩に下げていた鞄から、おもむろに銀色の銃を取り出した。護身用と見て取れるそれは、彼女の片手にすっぽりと収まるほどの小さな銃だった。
「これはモデルガンなんかじゃない、デリンジャーと呼ばれる本物の銃よ。装弾数はわずか二発だけど、そこに装填されるのはハイスタンダード二二口径モデルにあわせたマグナム弾。いくらキマイラが普通の人間より身体能力が高いって言っても、きっと無事ではすまないでしょうね」
 無機質な黒い銃口を突きつけられ、貴也は戸惑いの眼差しを奈緒に向ける。なぜ彼女がそんなものを持っているのか、という疑問も喉の奥にのみ込んだ。
「それとも、あたらずに避ける自信でもあるのかしら?」
 貴也は背筋が酷く冷えた気がした。
 理屈では、その人間離れした身体能力で避ければいい。自分の体にあたる前に、弾丸の射線上から逃げればいいのだ。
 だが、そんなことが自分にできるのだろうか。
 ――否、できるわけがない。
 貴也は眉間に皺を寄せ、対峙したスーツ姿の奈緒の動き一つ一つに神経を張った。
「ねえ、世界には秩序というものが必要だわ。もちろん、キマイラである能力者が人間と共存していく為にもね。でも、人間は素手ではキマイラに対抗できない。できることと言えば、能力者に怯えて敵と認識し、人間の社会から消す――迫害するくらい。警察は暴れだす能力者に対して、特殊部隊を結成するでしょうね。もしくは自衛隊が能力者の鎮圧をしなきゃならなくなる日がくるかもしれない。そんな日を、キミは黙って迎えられる?」
 今まで貴也の周りでは、彼と同じようなガキや武器も持たない連中ばかりだった。彼らが武器と呼んでいたものはナイフや警棒であり、喧嘩や脅しの道具に過ぎなかった。
 決して一撃で人を即死させることができるような、鉛の弾丸や銃や重火器ではなかったのだ。
 ここが銃のない国――それに助けられていただけだと、改めて思い知らされる。
 平和ボケした連中を強い人間だと勘違いで攻撃して、自分の力に自惚れていた。ただの思い込み――精神的な自分の弱さを隠す為の虚勢だったのだ。
「鏡で自分の姿を見てみるといいわ。けっこう情けない顔をしているわよ。そうね、例えるなら……まるで、捨てられた犬のようね」
 黒い銃口を睨みつけたまま、貴也は何も言い返すことができずに拳を握り締めた。閉じたままの口からは歯軋りが漏れた。
「――大半のキマイラは、その能力を発動させた瞬間に自らの欲望のままに意識をなくしてしまう。そうやってね、何人もの能力者が自らの肉親を自らの手で殺して孤児になっている。そんなことが日常的に現実に起きているのよ。でも、キミは違うでしょう?」
 奈緒の意図が見えず貴也が小首をかしげると、彼女は銃口を地に向けた。
「何もね、あなたにモルモットになれと言ってるんじゃないわ。あなたにはキマイラを捕まえるのを手伝って欲しいのよ。どうせ今も、これからも行くあてなんてどこにもないんでしょう?」

U<< ■ >>W