■ Fenrir-フェンリル- ■

鹿神 藍

――W.
 感覚が麻痺していた。後頭部から脳髄へと続き、脊髄までもが痺れたような感覚にまみれていた。痛みはない。ただ、脇腹から流れ出る血が酷く冷たかった。
 貴也が目を覚ますと、視界と平行に広がったアスファルトに砂粒が転がっていた。横たわった体や顔にめり込んだ砂だけが、妙に感覚を研ぎ澄まさせようと痛み出している。
 首に引っかかったままの無線からは、絶えることなく呼びかけている奈緒の声が聞こえていた。ただ貴也の耳からは遠すぎるのか、何を言っているのかまでは聞き取れない。
 かわりに聞こえたのは誰かの悲鳴――銃声――猿の喚き声だった。
 咄嗟に鉛のように重い体を起こし、貴也は音の聞こえた方向に目をやる。
 彼の気絶していた狭い路地の先には、ビルとビルとの隙間を埋める為にできてしまったわずかな空間が広がっていた。
 そこではすでに、白い戦闘服に身を包んだ保護班の連中が、怒り狂うような暴れ猿と化した能力者と交戦を開始していた。
 貴也には、その光景が非現実のものに映る。猿人間と化した能力者の姿は、キマイラの異名の如く魔物そのものだったからだ。彼は圧倒的な力で、人間を木立か何かのように薙ぎ倒していく。
 だが能力者も法律上は普通の人間であり、保護と言う名目上では、保護班の連中にも実弾を発砲する許可などありはしなかった。その為、連中が自衛の為に装備しているものも、自然と鎮圧用のスタンガンということになる。
 そんなものいくら撃ったところで、たいした効果はないと分かっていてもだ。スタンガンを受けながら猿は怯む気配は見せるものの、その暴走していく怒りを静めることなどするはずがない。
 ――いや、永遠にできないだろう、と貴也は思う。していることは猿の怒りと言う火に、油を注いでいるようなものなのだから。
 しかも貴也の使った顔面を狙って怯ませる方法をも、猿人間は勉強していた。しきりに体を左右に揺らし、一定の場所に狙いがつかないように動き出していたのだ。
 つまりこれが、彼ら人間が能力者に対抗できる現在の術の全てだった。
 だからこそ奈緒は能力者の仲間を欲していたのだ。たとえ自らが――無断で銃を持ち出したことで処分されても。
「ウィザード! 早く保護班を引かせろ、全滅するぞ!」
 貴也は無線を手に取ると叫ぶように言った。
 その間にも丸太のような猿人間の腕が、白い戦闘服を捉えてアスファルトに叩き伏せていた。さらに一瞬の間もおかず、猿人間は別の戦闘服へと飛びかかるように襲いかかる。
 今度は二人分の戦闘服姿の頭蓋を鷲掴みにすると、猿人間は戦闘服を着た人間同士、互いの頭を叩きつけて潰して見せた。辺りには猿人間にぶちのめされる鈍い音と、ガスマシンガンの発砲音が絶えることなく続いていた。
「貴也っ――大丈夫なの?」
 不安そうな無線からの声。
「なあ。これが終わったらさ、二人で休暇とって――どこかに行かない?」
 場に似合わない穏やかな声を貴也は発した。
「はあ? キミはまた、こんな時に何を言い出して――」
「疲れたんだよ」
 何かが終わる間際――これが終われば静かな場所に行ける。
「どうせ研究所――公団が金を出すんだろ?」
「――え? ちょっと待って!」
「いつもどおり経費でさ。約束だぞ」
 そんな望みくらい願ったって、罰は与えられない。
「……え、ああ――それなら」
 しばしの逡巡の後、奈緒は返事をした。
「とりあえず、目の前のキマイラを保護できるよう沈黙させなさい。話はそれからよ。健闘を祈るわ」
 貴也の言葉から、奈緒は勘づいたのかもしれない。だから何も聞かずに無線を切ったのだろう。
 現場を指示している奈緒の言葉が、保護班の連中に伝わっていくのが貴也の目にはわかる。白い戦闘服を着た連中が銃撃を続けながらも、少しずつだが入ってきた路地の奥へと後退して行くのだ。
 戦闘準備は整ったと、貴也は羽織っていたコートを脱ぎ捨てる。
 次瞬――周囲のビルを揺るがすような咆哮が耳を劈いた。貴也が腹の底から唸り出した声は、神話の中で紡がれていた地の底から復讐にやってくる、フェンリルの如き猛獣の轟きだった。
 貴也は自らの声で呼び覚ますかのように、遺伝子にすり込まれた能力である獣の血を目覚めさせた。
 呼応した能力は彼の体を少し大きめに作り変え、全身の皮膚の上を覆う銀灰色の毛皮を生えさせて行く。背骨の先に生え出したのは長い尻尾だ。突き出した耳と鼻、その下に並ぶ鋭い牙――野太く唸りを上げ、薄く開いた牙の隙間からは赤く濡れてぬらぬらと光る舌が現れる。
 貴也の筋力増加系変異能力――その外見と漲る性質は灰色狼だった。だが二足歩行をベースとする骨格は、もし本当に狼男がいるのならば、それは物語に語られる狼男であるに違いない。
 発せられた咆哮に、戦闘服を追いかけていた猿人間が反応した。その手には取り残された白い戦闘服姿。振り返り貴也の姿を探すが、その時にはすでに彼の姿は猿人間の視界から消えていた。
 狼の形態を取った貴也のスピードは、人間の、ましてや通常のキマイラの比ではない。猿人間である能力者の能力は貴也のものと同系種であるが、彼のものをスピード増加系だとすると猿人間のものはパワー増加系にあたる。いくら力が強くても、あたることがなければどうということはない。
 残像をただ追いかけるだけの猿に、貴也はその死角から、白い戦闘服を引きずったままの豪腕へと牙を剥いた。鮮血が散り――彼の口からは溢れ出た濃い色の血が滴り落ちる。
 猿人間は悲鳴を上げ、貴也を振り放そうと体ごと暴れ回った。そうしているうちに、猿の手にきつく握られていた戦闘服が吹き飛ばされる。その体はコンクリートに叩きつけられ、地面の上に虚しく転がり落ちた。
 喰らいつく貴也の背には、もう片方の猿の豪腕が落とされた。彼は叫び声を上げてアスファルトの上に降り立つ。その脇腹からは猿の血と混ざり合った彼の血が、移動していく先々で流れては血溜まりを作り出していた。
 夜の闇に浮かぶ二つの獣の陰は、互いの動き一つ一つに神経をすり減らしていく。
 貴也のアイスブルーの瞳は、猿人間の落ち窪んだ黄金の眼光に怪しげな色を見出していた。体温に暖められて吐き出される呼気が、目の前に白煙のような蒸気を霞ませた。
 猿人間が貴也との間合いを詰めようと飛び出した刹那――貴也も発達した後ろ足で自らの体を弾丸のように蹴り出していた。大地を疾走する為に変化した硬質な爪がアスファルトを引っかき、前傾になった上体を支えようと前足をかく。
 血が流れるのも気にせず振りかざした猿人間の豪腕が、狙いたがわず貴也の顔面を捉える為に伸びた。だが鞭のようなしなりを見せる拳は虚空を裂いて貴也の頬を掠める。
 あらかじめ軌道を予測していた貴也は、自らの進路をその場から飛びのくように急激な変化をさせたのだ。
 目標の消えた場所に叩き降ろされる拳と、貴也の繰り出した後ろ回し蹴りが交差したのはその時である。貴也の左足の踵が猿人間の無防備だった後頭部へと断つように振り抜かれたのだ。
 けれども貴也の容赦のない攻撃は終わらない。
 体を器用に空中で一回転させると、バランスを取る為に残しておいた右足をも猿人間の頭部へと叩きつけたのだ。さらに着地と同時に、突き出した肘を毛皮に覆われた腹部へと貫くかのようなダッシュ力でねじ込んでいた。倒れそうによろめく猿人間の体をつま先で蹴り上げ、貴也は先ほど気絶させられた復讐にと逆足で胸部に鋭い蹴りをぶち込む。
 貴也の位置から数メートル蹴り飛ばされた猿人間は、でかい体をくの字に折り曲げたままビルの壁へと吸い込まれる。勢いのついたその自重が、鈍い衝撃と同時にコンクリートを破壊するまでの力量へと変わっていた。
 辺りに轟音を撒き散らせながら、砂埃とコンクリート片が舞い上がる。
 風が弱まった後、そこにはコンクリートの瓦礫に埋もれるようにして横たわった、一人のまだ幼い少女の姿があった。かわいらしい寝顔から、貴也は年の頃は十五くらいだと見て取っていた。
 貴也が初めて人を殺した時の年齢とほぼ同じ。だからこそ、彼は自分と同じような辛い思いはして欲しくないと願ったのだ。それを叶えられる場所が、キマイラである自分が力になれる場所が、今の自分がいる場所なのだと確かめる。
 貴也は猿人間から少女に戻った能力者に背を向け、脱ぎ捨ててあったコートを拾い上げた。その胸ポケットからはマイクに繋がるコードが垂れている。
「ウォーリアからウィザードへ。状況終了、眠り姫は夢から覚めた。繰り返す、状況終了。眠り姫は夢から覚めた――」
 無線装置に繋がる小型マイクを握り締め、貴也は自らの脇腹にできた真新しい傷口に触れる。そこには先ほどまでの出血と、抉り取られたような傷跡はない。いつもと同じように血は止まり、すでに傷口は新しい細胞組織に覆われて塞がりかけていた。
 目を閉じて蘇る過去の日々。一夜の夢のようなできごとだと感じた自分。
 あの友人が死んだ日に、もし自分が刺されていたのなら、歴史はどうなっていたのだろうと貴也は考えることがあった。刺されていたのが自分なら、あの友人の運命は変わっていたのだろうかと。それとも貴也のキマイラとしての血が目覚め、誰も死ぬことがなかったのかもしれない。
 過ぎ去った日の記憶など、いくら考えたところで変えられないことぐらい、貴也にも分かっている。できることと言えば、同じことを繰り返させないようにするだけなのだ。
「捨てられた犬……か」
 ぽつりと貴也は呟いた。犬の自然治癒力は、軽い骨折くらいなら唾をつけておけば数日で直ってしまうと聞く。
「俺は――人間だよ」
 貴也は歩き出す。
 コートのポケットから潰れた煙草を取り出し、火をつけた。肺を満たす煙を溜息のように吐き出し、風に流れるように消えていく煙を一瞥する。やはり、キマイラの姿をしたままだと酷く煙草は吸いにくい。
 狭い路地から通りへと出ると、警察や公団と呼ばれる研究所の表向き機関の連中が慌ただしそうに蠢いていた。不発弾の処理とでも言って住人を避難させたのか、辺りには一般人の姿は皆無だった。
 その中で、貴也はいつも通りのスーツ姿をした奈緒の姿を見つけた。視線が吸い込まれるように、彼女だけ際立って見えたのも間違いはない。
「終わったのね?」
 奈緒は貴也に近づき、彼が咥えていた煙草を毟り取って地面に落とす。
 それをもったいなさそうに目で追いながら、貴也は口を開いた。
「ああ、軽くやり過ぎちまったけどな」
 そう、と奈緒は貴也の手にしていたコートを手に取った。
「――ご苦労さま」
 足を止めた奈緒の声が、貴也の背にかかる。
 貴也は眠たげな瞳を向けるように奈緒を振り返った。
「約束は守れよ。のんびりと休暇をとって――どこかへ」
「あ――えっと……あ!」
 パタパタと振られる貴也のふさふさとした尻尾を見ながら逡巡し、奈緒は唇の端を持ち上げながら楽しそうに言った。
「そうね。あなたがちゃんと、高校を卒業したら考えてもいいわよ♪」
「え、ええええ―――――――――っ!」
 キマイラ回収部隊が点灯させた眩しいほどのライトの中で、残念そうな貴也の遠吠えだけが響き渡った。

■ END ■